第4章 命令の届かぬ場所
永田町、官邸地下。危機管理センター第六会議室。
重厚な扉が軋むような音を立てて閉じられると、室内は一瞬、音のない無音地帯になった。
その静寂を破ったのは、内閣官房副長官・村松久美だった。
「防衛出動は、今の段階では認められません」
机上に積まれたファイルに目もくれず、彼女はまっすぐに前を見据えていた。
対面に座る住本健司は、無言のまま睨み返している。
「状況は承知しています。現場が危険だというのも。けれどね、現場が危険だからといって、政治が焦ってはダメなの」
言葉が冷たい。感情を切り離したプロの言い方だった。
住本は、短く息を吐いた。
「今朝、部隊のひとつが通信を絶ちました。現場は即応を要求しています。あと30分が生死を分ける」
「それは防衛省にお伝えください」
突き放すように、村松は言った。まるで、“生死”という言葉にすら耐性があるように。
その言葉に、有賀正太郎(警察庁警備局長)が反応した。顔色を変えずに椅子をずらす。
「副長官。言葉というのは、誰かの命を左右する刃物です」
村松は笑った。小さく、わずかに、挑発の色をにじませて。
「有賀さん。あなたのような方が、詩人みたいなことを言うのね」
「詩ではありません。現実です。命令は、意味を持つ“言語の武器”です。現場に届かなければ、それはただの遅れた呪いに過ぎない」
住本は、机に置いたタブレットを見た。画面には、死者3名という速報が表示されている。
一人は、昨日、彼が送り出した隊員だった。
「自分が命じて、部下が死ぬ。それが現場です」
誰にでも言えることではない。けれど住本は、それを平然と言った。
村松が視線を外す。
「死の重さを、数字で測っても無駄よ。私たちは“全体”を見てるの」
そのときだ。
「“全体”の中に、誰かの命が溶けて消えるんです」
――五十嵐彩音が口を開いた。官邸の情報分析官。若いが、現場にも出た経験がある。
声が震えていた。
「彼は……昨日、私と一緒にいました。朝まで資料を集めてた。子どもの写真を、ロック画面にしてた。今、その彼が“出動中”のひとことで、終わるんですか」
誰も、言葉を返せなかった。
村松は書類に目を落とすふりをしたが、視線は宙を彷徨っていた。
有賀が静かに続けた。
「命令とは、誰かを“見捨てる権利”じゃない。現場がどれだけ必死に報告を上げても、ここで“正義”の名のもとに握り潰されたら、あの死は何になるんです」
「国の安全のための犠牲です」
――即答だった。
村松の声は、冷徹というより、訓練された政治家の声音だった。
その言葉に、住本が机を叩いた。
ふいに飛び出した音が、室内を切り裂くように響いた。
「だったら……“誰を犠牲にするか”、あんたが名前で言え!」
静寂。
村松の眉がわずかに動いた。
けれど言葉は返さなかった。ただ、腕時計を見て言った。
「会議はこれで切り上げます。次は19時ちょうどに」
彼女が立ち上がった瞬間、有賀が低く呟いた。
「……言葉が命に届かなければ、それは“命令”とは言えませんよ、副長官」