豆粒のメモリー
「すみません、古代メソポタミア料理と建築学のカードをください」
店員がカードを取り出す間、私は金額を再確認した。四十七万円。決して安くはないが、この二枚に秘められた知識の価値を考えれば、それ以上の投資だと確信している。
私は躊躇うことなく支払いを済ませ、二枚の小さなカードを手にした。その小さなカードが、新しい知識の扉を開く鍵なのだ。今すぐにでも情報を取り込みたい衝動に駆られるが、興奮を抑え、足早に自宅へ向かうことにした。
情報技術の進化は、まさに驚異的と言える。今や人類は、コンピュータと脳を直結させる技術を手に入れた。
私の首筋につけられた『マメント』は、豆粒ほどの小さな装置だ。見た目ではほとんど分からないが、その内部には膨大な情報が詰め込まれている。私たちが記憶という煩わしい作業に縛られる必要は、もはやない。
知りたいこと、覚えるべきことがあれば、ただマメントにデータを入力すればいい。それだけで情報は、まるで自分自身の記憶であるかのように取り出すことができる。
さらに、一度入力した情報は消えることがない。忘れる心配も、記憶違いの危険も完全に取り除かれている。これが私たちの時代の「記憶」だ。
私は自室に戻るや否や、先ほど手に入れたカードのデータをマメントに転送した。その瞬間、古代メソポタミア料理と建築学の膨大な知識が、脳内に流れ込む感覚に包まれる。
この感覚は、いつ経験しても心地よい。一瞬にして、私は歴史の深淵に眠る古代のレシピを再現する方法を知り、壮大な高層ビルの設計図を描ける技術を手に入れたのだ。
今の私なら、ギルガメッシュ王を満足させる饗宴を用意できるだろうし、都市の未来を形作る建築計画を即座に提案することも可能だ。これがマメントの力だ。
記憶を必要としない生活――それは驚くほど快適だ。
子供たちは受験勉強に苦しむことも、大人がニュースを読んで最新の情報を得る手間も不要になった。必要な情報はカードを入力するだけで即座に手に入るし、サブスクライブしておけば日々自動的に新しい情報が入ってくる。私たちは、かつての人類とは比べ物にならないほど自由な時間を得た。今や、マメントなしの生活など考えられない。
だが、この便利さには代償がある。カードは非常に高価だ。貧しい人々や、カードを拒む者たちは未だに学習という原始的な手段に頼っている。それは、私に言わせれば時代遅れの愚行だ。
学習に時間と労力を費やすより、働いてカードを買う方が遥かに賢明だ。カードさえあれば、どんなに難しい外国語も一瞬で習得でき、流暢に話せるのだから。
マメントの導入当初、一部の学者たちは「装置に頼れば脳の記憶力が低下する」と非難していた。確かに一理あるかもしれない。だが、そもそも人間の記憶力は本当に必要なものだったのだろうか? 曖昧で、不確かで、時とともに消えてしまう記憶――それに頼る方がよほど不安ではないか。
或いは、彼らは自身の地位や役割を守ろうとしていたのかも知れない。事実、記憶装置の普及により学校や学習塾は不要となり、消えていった。それが、記憶というものの価値が低かったことを何より証明している。
私は最近、何も自分で記憶していない。他人の名前、日々の予定まで、すべてをマメントに記録している。記憶に頼らない生活は驚くほど快適だ。
唯一、自分で行うべきは新しいアイデアを考えることだが、それさえも過去の発想や事例をマメントに入力しておけば、ほとんどは参考にするだけで事足りる。
マメントがある限り、私は完璧だ。曖昧さや忘却に左右されることはなく、間違いを恐れる必要もない。思考は常に最適化され、蓄積できる情報量も生涯困ることはない。
その時、ふと郵便受けに小包が入っているのを見つけた。手のひらに収まるほどの小さな箱で、差出人はよく知っているカード会社の名前だ。どうやら新製品のサンプルが送られてきたらしい。添えられた紙には「特別な顧客へのプレゼント」と書かれている。
「ラッキーだな」
私は嬉々として箱を開け、一枚のカードを手に取った。そのカードに何の情報が詰まっているのかは分からないが、どんな知識であれ持っていて損はない。迷うことなく、マメントに接続し、カードの情報を入力した。
入力はスムーズに完了した。だが、奇妙なことに、今回はどんな知識が取り込まれたのかが分からない。通常なら、瞬時に情報が脳内へ流れ込む感覚があるのに、今回はそれがない。
「まあ、そのうち分かるだろう」
気に留めることもなく、私は古代メソポタミア料理の準備に取り掛かろうとした。さっそく、必要な調味料を――。
……あれ?
必要な調味料が分からない。たった今、カードから入力したばかりの知識が、頭の中からすっぽりと抜け落ちている。
おかしい。それだけではない。建築学の知識もぼやけている。いや、他の記憶も――まるで霧散するように、消え去っているのだ。
慌ててマメントのデータを確認する。すると、目を疑う光景が広がっていた。
記憶のデータが次々と消えていく。蓄積してきた知識が、まるで砂が指の間からこぼれ落ちるように失われていくのだ。
しまった……どうやら先ほどのサンプルカードは、悪質なコンピュータウイルスだったらしい。そういえば、最近この手の悪戯が横行していると耳にしていたが、まさか自分がその標的になるとは。
「くそっ……!」
画面を睨む間にも、データが次々と消えていく。私が大金をはたいて手に入れた知識の数々が、跡形もなく削除されていくのだ。
だが、慌てることはない。こういう事態に備えて、私は日頃から万全のバックアップを取っている。確かに知識は消えつつあるが、マメントのデータを一度完全に初期化し、バックアップを復元すれば、すべてを取り戻せるはずだ。
「ええと、バックアップデータは……どこに保存したっけ?」
私は目を閉じ、記憶を手繰り寄せようとした。だが、肝心のバックアップの保存場所を思い出せない。はっと気づく。そうだ、バックアップの保存場所も、すべてマメントに入力していたのだ。そしてその情報すら、今やウイルスによって消されてしまったのだ。
「まあいい。保存場所を忘れたとしても、この部屋のどこかにはあるはずだ」
いや、それ以前に……バックアップって、一体何に保存していたんだ? ストレージ? カード? それとも別の何か? 記憶を辿ろうとしても、頭の中に靄がかかったようにぼんやりしている。
「ああ……この情報も消えたのか……」
というか、そもそも――バックアップって何だっけ?
その時、ふと首筋の違和感に気づいた。触れてみると、豆粒ほどの小さな装置――これが何なのか、全く思い出せない。
「まあいいや、なんか邪魔だし……」
私は装置を無造作に引っ張り、イライラしていたので勢いよく踏み潰した。
「……あれ、僕は今、何をしてたんだっけ?」
見渡せば、部屋は荒れ果て、物が散乱している。私は驚き、思わず声を上げた。
「な、何これ! 誰がこんなことしたの?」
だが、その答えを考える前に、新たな疑問が浮かぶ。
「……って、ここはどこだ?」
見覚えがあるような気もする部屋。でも、同時に全く知らない場所のようでもある。
「ほえ、僕ちゃんはだあれ?」
頭の中は真っ白で、もう何も思い出せない。
わあん! なんにも分かんないよ!
うわぁぁぁん。
うわぁぁぁん。
連載している小説もありますので、よろしければ読んでみてください。