(16) 学校の非常階段
翌日になると茜谷さんは普通に登校してきた。
朝のホームルーム終了間際、後ろのドアからひっそりと入ってきた茜谷さんはそのままだれとも目を合わさず妙に澄ました顔で席につく。先日昼休みでの騒ぎが尾を引いているのか、茜谷さんが姿を現したとき、少しだけ教室はざわついていた。
それから午前中はいつも通り、静かに授業を受けていた。
茜谷さんの態度には、これといった異変はない。
ただ——。
こんなことを言ったら失礼だろうけれど、模範的生徒よろしく真面目に教師の話を聞く姿は、どこか茜谷さんらしくなかった。
**
そして昼休み。
ここが狙い目だと感じた弘海はチャイムが鳴り終わるのを待たずして、早々に茜谷さんを捕まえるために後ろを振りかえる。しかしそこで唐突に名を呼ばれた。
「小鳥遊くん」
「えっ?」
気づけば五百藏さんが近くに立っていた。
「五百藏さん? どうしたの?」
「んん……その」
青いネイルが施された指先で前髪をもてあそびながら、はっきりしない様子で視線をさまよわせている。
「ちょっとさ。今のうちに話しときたいことがあんの。だから、一緒にお昼食べれないかと思って。べつに嫌なら断ってくれてもいいんだけど」
「えっと、ごめん。今日はちょっと」
珍しく遠慮がちだった五百藏さんが、「えっ……?」とびっくりしたように顔を上げる。にべもなく断られるとは思わなかったのだろう。
「あ、あーそう。うん。まーいいんだけどさ。べつに」
「今度埋め合わせするから。ごめん」
「や、べつに」
明らかに落胆した顔つきの五百蔵さんだったが、今はそれどころじゃない。
弘海がもう一度振りかえると、茜谷さんの姿はすでになかった。目を離した隙に教室を出てしまったのか。それにしても行動が早すぎやしないか。
とにかく慌てて弘海も教室を出た。
金髪の後頭部を見つけたのは、しばらく校舎を駆け回った後だった。
「うわ。ホントにいた」
「んぐっ……‼」
こっそりと昼食を摂っていた少女が、ビクッと肩をびくつかせる。
本校舎の端っこの影。人の寄り付かない非常階段のうえ。茜谷さんは校舎と扉一つで繋がったそこで一人、寂しい孤食の時間を過ごしていた。
「むぐぐ、ふぁ、ふぁんで」
「茜谷さん、時々ここに来てるんだってね。小野原先生にバレてたよ」
「ふぁ、ふぁなえひゃん……!」
「飲み込んでから喋りなよ」
(香苗ちゃんって言ったのかな)
もぐもぐとシマリスみたくお総菜パンを頬張っていた茜谷さんが、慌てて両手で口元を隠しながらいっぺんに飲み込もうと四苦八苦している。それを尻目に弘海は階段を下りて、そっと近くに腰を下ろした。
非常階段からはグラウンドが一望できる。景色はいいけど、校舎の影になって薄暗く、砂ぼこりがうっとうしい。なにより季節柄寒さがつらい。
「穴場だけど、さすがにちょっと寂しいよここは」
「ヒロミン」
「おれも食べるね。今日はおれもお揃いなんだ」
と言って、弘海は購買で買った焼きそばパンを見せる。
茜谷さんはなぜか恥ずかしそうにほのかに頬を赤らめた。もぞもぞとお尻を動かして距離を取り、ぷいっと顔を背ける。かまわず弘海は焼きそばパンに齧りつき、「おっ、美味い」と頬を緩めた。
「……な、なんか用? あたし一人がいいんですけど」
「ちょっとね。話を聞こうと思ったんだけど。いきなり訊いてもなんかアレだし」
「ふん」
こっちに話すことはない、と言わんばかりに茜谷さんはそっぽを向き、食べかけのパンをむしゃむしゃとやけ食いし始める。あっという間に最後の一口が細い腹に収まる。
「もうすぐ三月だね。勉強はどう? テストは大丈夫そう?」
「ヒロミンにはカンケ―ないし」
「そんなことないでしょ。こっちも勉強教えてるんだし。茜谷さんと一緒に進級できないと、おれも嫌だよ」
「うそだし。どーせみんなリューネンしろって思ってるし」
「なんでそんなこと思うかな。少なくともアニ研のみんなは、茜谷さんのことずっと気にしてるよ。部長も先輩も。きっと五百蔵さんだって」
「アイツだけは絶対ない」
「そんなことないと思うけどなあ」
「ない」
意固地になっているのか。けれど逃げようとはしないし話に付き合ってくれるところからして、満更でもないんじゃないだろうか。
「少なくとも、おれはずっと茜谷さんの味方だと思うよ。いつでも頼ってもらっていい。というか頼ってよ。最初の新入部員同士、ずっとやってきたんだし」
打算のない、それは本心だった。
「もちろん喋りたくないなら喋らなくていいし、ムカつくなら口利かなくたっていいし、どっか行けっていうなら行くし。でも嫌じゃないなら、お昼ご飯ぐらいはこれから一緒に食べようよ」
「……あたしが誘ったときはソッコーキョヒったくせに」
「あれはまあ。先約があったし」
テストが近いのもあって(あとなにより気まずいから)、しばらく先輩の弁当はお預けだろう。
茜谷さんは変わらずむっつりした顔で黙り込んでいた。そうなると弘海も黙食せざるをえず。そこまで腹が空いているわけじゃなかったけれど、割合いすぐにたいらげてしまった。
「ひ、ヒロミンってさ。優しいよね」
「そうかな。そんなこと初めて言われたけど」
「優しいもん。あと頼りがいあって、話聞いてくれて、かっこよくて」
「いやいやいや……」
一体どこの『ヒロミン』くんの話をしてるんだか。
「さすがにないよそれは。むしろ超冷たい人間だしおれ」
「ヒロミンぐらい優しい男子、あたし知らない」
「それはたぶん、茜谷さんだからだよ」
「……あたしにだけ、優しくしてくれるってこと?」
「ん? あー、まあ。そうなのかな」
なんの話をしているのか、だんだんわからなくなってきたような。
「そっか」
そのとき茜谷さんは——なんだろう、やけに照れくさそうに耳元を赤らめたりして、謎に目を潤ませたりして、おまけにもじもじと両膝を擦り合わせたりなんかして。
「あたしのこと、好きなの?」
「へ?」
なにがなんだかわからぬうちに、茜谷さんは大きく飛躍した。
「な、ならさ。もういっそ付き合っちゃおっか」
「え」
「あたしはいいよ。ヒロミンならべつにさ……」
非常階段のあっちこっちに視線をやりながら。そのうち両膝の間に顔を埋めたりなんかしちゃいながら。もうなんかいろいろと乙女すぎる茜谷さんの横顔を見つめながら、弘海は数秒、あんぐりと口を開けっ放しにした。
「あ、えっと。ん? いや、え?」
「なにその反応。……気まず」
照れ隠しだろうか、茜谷さんはニヤッと悪戯っぽく笑って、
「ヒロミン浮気男みたいだよ。なに? 今付き合ってる人でもいんのー?」
「え? あー、うん。そういえば安藝先輩と」
「……え?」
「ん、あれ? 聞いてないの?」
ふたりは真顔で目を合わせた。
ひゅぅ、と高所を吹く風が、両者の間を駆け抜けていく。
そして見つめ合うこと数秒。
「……はああああ⁉」
茜谷さんが立ち上がった。
「なにそれ聞いてないんですけど⁉」
「いや、おれもちょっとびっくり。てっきり先輩たちから聞いてるもんかと。そっか。言ってなかったか」
「そっか、じゃねーしッ……‼」
茜谷さんの顔が茹で上がるように紅潮していた。人の顔ってこんなに赤くなるんだと弘海は能天気に感心した。
「マジで言ってんの? ヒロミンとトキセンが……は? なんで? いつから⁉」
「ことし……じゃない、たしか去年から」
「けっこう前からじゃん……‼ はあ? つーか、え? あたし今コクって……は、はあ……?」
混乱しながらも必死に状況を飲み込もうとして、結局さらに混乱を極めた様子で茜谷さんはしまいに壊れた機械みたく動きを停止した。「茜谷さん?」弘海が恐る恐る下から顔を覗き込むと、今度は感情を消したような声で「……うち帰る」と呟いたかと思えば、勢いよくスタートを切って駆け出そうとした。
ちょっ! と弘海は慌ててその腕を引っ張って止める。
「さすがに二日連続で途中欠席はマズイって……‼」
「うっさいうっさい! 離して……!」
「お願いだから落ち着いてっ」
「ヤだ! 今マジでいろいろムリだからッ……‼」
取り乱す茜谷さんを落ち着かせるまでに、数分を要した。
茜谷さんの顔を見ないこと、距離を取ることを条件に留まってもらうことに成功した弘海は今、階段にやや縮こまって座り、茜谷さんのほうを見ないよう背を向けていた。
「こっち来たら死刑だから」
「わかったよ。わかったから、こっそり帰らないでね」
「ふん」
茜谷さんの声がやけに上のほうからする。どうやら上階へ続く階段のほうまで逃げているらしい。なにもそこまで遠ざからなくても……。
この距離で会話するの、はたから見たらすごく奇妙な光景なんじゃないだろうか。
「さっきのは聞かなかったことにしてね。つーかソッコー忘れろ」
「うん。わかった。忘れるよ」
「そんなすぐ忘れんなし!」
(えぇ……)
どうすればいいんだ。
「ハァ……マジ最悪。こんなんもう二度とアニ研戻れないじゃん」
「おれ一応退部止めに来たんだけど……。なんか知らないうちにダメ押しになってない?」
「黙ってヒロミン」
「はい」
茜谷さんは何度もため息をついていた。
そうこうしているうちに予鈴のチャイムが鳴り響く。キンコーンカンコーンと。やけに低音が重たく聞こえるのは気のせいか。チャイムは非常階段にもよく響くらしい。
「やっぱあたし、アニ研辞めたほうがいいっぽい」
「え? なんで?」
「だって浮いてんじゃん。あたし一人さ」
「いやいやそんなことは」
「でもけっこーいろんなところでハブられてるし。ヒロミンとトキセンの仲も、あたしだけ知らされてなかったみたいだし。それにあのときも——」
先の言葉は続かなかった。ただ諦めたような間だけがあって。
「あのときって?」
「べつに。やっぱいい」
茜谷さんはたぶん今、すごく寂しい顔をしている。気がした。
「最初はトキセンに誘われてさ。怖かったけど、すごくワクワクもしたんだ。あたし。だってさ。アニメ研究会だよ? アニメを研究する会だよ? そんなんめっちゃ楽しそうじゃん。最高じゃん。……ってさ」
「茜谷さん」
「でもだんだん、思ってたのと違くなっちゃった。最近はアニメの話も、あんまししなくなっちゃったし」
階段のうえでもぞもぞと足を動かしたような音がした。
「そんなん、タイトル詐欺じゃん」
**
放課後——弘海は職員室を訪れていた。
小野原先生より直々の呼び出しである。
教室から雛のように先生の後ろについていき、弘海は職員室の端のほう、パーテーションによって区切られたその小部屋へと案内されたのが数分前のこと。
現在は固い椅子に腰を下ろし、テーブル越しに先生と話し合っている最中だった。
「で~? テニス部のこと、どうするつもりなの?」
用件は弘海が現在、ほぼ形だけの籍を置いているテニス部に関してだ。
「今朝岩崎先生から相談を受けたんですよ? 現部員の小鳥遊くんについて」
「はい……」
「うちは兼部も禁止してないし、どっちの部活にも真面目に取り組むなら、とくに先生も目くじらを立てるつもりはないみたいですけど。最近サボりがちの小鳥遊くんの態度は、ちょこ~っと目に余るそうです」
返す言葉もなかった。
「アニ研にばっかり意識を向けるのはけっこうですけど、中途半端はいけませんよ~?」
「はい」
「近いうちに結論を出してくださいね~」
絶対にね。と念押しされる。
いつもの間延びした口調がそこだけやけに力強かった。
「小野原先生、もしかして岩崎先生のこと苦手ですか」
「ノーコメントで」
張り付いたような笑顔がそれ以上の言及を許さなかった。ちょっと怖い。
「あの、先生」
ふと、思い至った。
「なあに?」
「えっと、その……もしかして今日、だれかから退部届もらったりしてませんか?」
おずおずと訊く。小野原先生はおっとり首を傾げた。
「いいえ、もらってませんよ~?」
「そうですか」
茜谷さんはまだ退部していないようだ。
「テニス部のこと、もう少し待ってほしいです。すぐ決めるので。すみません」
「はいはい」
やれやれと言いたげな小野原先生だった。
思っているよりも先生には知らないところで迷惑をかけてしまっているのかもしれないな。
「決まったらわたしを通さず、岩崎先生に直接お願いね~。直接だからね~?」
(やっぱ苦手なんだな)
失礼します、と弘海は職員室を出た。
帰り際、昇降口のところで見知った人物が仁王立ちしていた。
「五百藏さん? どうしたの?」
険しい顔つきで腕を組んでいる五百藏さんが、弘海の姿を目に入れるや「やっと来た」と不機嫌そうに呟く。
「え? なに? おれのこと待ってたの?」
「んなわけないでしょ。だれがあんたなんかのためにほかの奴らに変な目で見られるのもいとわずじっと待ってなくちゃいけないのよ」
「目立ちたくないならその仁王立ちやめなよ」
「うっさい」
今日はいろんな人に「うっさい」と言われる日だな。
五百蔵さんは、ほら行くわよ、とばかりにさっさと歩き出す。やっぱり待ってたんじゃないか、と内心ぼやきつつ弘海もとなりに並んだ。
「あっ……そういえば五百藏さん。昼休みのときに話あるって言ってたよね? あれってなんだったの?」
「それはいいのよ。もう」
「え、でも」
「あんたに話してもしょうがないから。さっさと忘れなさい」
(だったらなんであのとき……)
五百蔵さんは変わらず憮然としたままで、そそくさと歩みを進めた。
「それよりあんたさ。昼休み、アイツんとこ行ってたんでしょ」
「茜谷さんのこと? うん、まあ」
なんで知ってるのか訊くと、どうやら五百藏さんは部室で猪熊部長と昼食を摂っていたようで、流れで事情を聞いたらしい。
「あんたのこと。前までとんだお節介野郎だと思ってたけど。実はただの女好きだったりするのかしらね」
「人聞き悪いな。茜谷さんは大事な仲間だろ?」
「だからって本妻放ったままほかの女にかかりきりってのはどうなのよ」
「それは」
痛いところを突かれて弘海はすっかり閉口する。代わりに、
「……五百蔵さんだって、けっこうお節介焼きじゃん」
苦し紛れにかえせば、五百蔵さんは「ふふ、そうかもね」となぜか晴れやかに笑う。なんだか完全に負かされた気分だった。
「冬休みのときの合評会、覚えてる?」
「え? う、うん」
出し抜けな問い。弘海は頷く。
冬休みの合評会、といえばきっと、学校へ本職の作家先生方を招き本格的な合評会を実施したあの日のことだろう。
「あのときだと思う。たぶんね」
「ん? なにが?」
「知らん」
黒い前髪をさらりと耳にかけ、すっかり歩みを早めていく五百蔵さん。華奢な背中には『用は済んだ』と書かれているようだった。そんな嘘だろ。
「ちょっと! マジでなに? どういう意味なの?」
聞く耳を持たぬとばかりに五百蔵さんの視線は真っすぐ固定されていた。
「最後に一つだけ訊いときたいんだけどさ」
「おれは百個ぐらいあるよ!」
「あんた。安藝先輩のこと好きじゃないでしょ?」
「はあ?」
意表を突かれ、弘海は固まった。
そして五百蔵さんはやっと後ろを振りかえって、
「やっぱりね」
にこっと嬉しそうに笑うと、校門の向こうへ歩き去っていった。
「……なんなんだよ。マジで」
夕暮れの校舎、校門の前で一人なさけなく立ち尽くしながら、弘海はわけがわからず泣きそうになった。