(15) 恋人がなにを言っているかわからない件。
※冒頭部分が記載されていなかったため、改めて更新致しました。
明くる日、茜谷さんは学校には現れなかった。
元々教室に顔を出すこと自体が珍しかった茜谷さんだ。一日休んだくらいで、クラスメイトたちは特別気にする様子もなく。いつもどおりの日常の景色が流れていく。
教室中央の列の最後尾、いつまで経っても埋まらないその空席が、弘海は一日中気がかりだった。五百蔵さんはいつもと変わらず、むっつりした顔で授業を受けていたけれど、どこか意識してその空席を視界に入れないようにしているようにも思えた。気のせいだろうか。
そして——放課後。
放課を告げるチャイムとともに教室を去っていった五百藏さんの後ろ姿を、弘海がなんとも言えない表情で見送ったときだった。
ぶぶっ、とポケットの内側が震えた。
なんだ? と思い、スマホを取り出す。
液晶画面に真っ先に表示される通知。グループラインのメッセージ。差出人は——茜谷さんだ。
『部活やめます』
「っ……」
短い文言を見るや、弘海は弾かれたように顔を上げる。
急いで教室を飛び出た。
**
「緊急会議です!」
長テーブルに身を乗り出し、弘海は文芸部室に集まった面々の顔を見回した。
放課後の緊急招集である。
にもかかわらず即座に応えてくれたのは二名。おなじく件のメッセージを確認し神妙な顔つきで座っている猪熊部長と、スマホを持たぬがゆえに事情をまだ知らず呑気な顔をしている安藝先輩。アニ研の上級生たちだった。
「今日はまた一段と雄々しい顔つきね。素敵よ小鳥遊くん」
「言ってる場合じゃないです。先輩」
あら? とおっとり小首を傾げられる。なんとも緊張感のない先輩に、弘海はつとめて真面目くさった顔を向けた。
「茜谷さんが退部するか否か、その瀬戸際なんですよ今は」
「……はる陽ちゃんが、そう言っているの?」
「はい。ついさっきメッセージが届きました。部活を辞めるって」
「わたしも急でびっくりしました」
こんな事態は初めてなのだろう。部長も気が気じゃないみたいだ。
安藝先輩は「そう、はる陽ちゃんが」と憂いを帯びた顔つきで顎に手をやる。ようやく理解してくれたらしい。
「それで? どうしてこんなことになっているのか、小鳥遊くんは知っているの?」
「それは」
知っているとも言えるし、知らないとも言える。弘海は視線を落とした。
「……昨日のことが、関係してるのかも」
「昨日?」
「なにか、あったんですか?」
一学年上の先輩たちは基本的に、後輩間でなにかがあっても知る術がない。当然昨日の騒ぎについても聞いていないはずだった。
「昼休みに、五百蔵さんと茜谷さんが口論になったんです。最初に突っかかったのは茜谷さんみたいで。そのうち喧嘩になって慌てて止めたんですけど」
「そんなことが」
「ふたりに怪我はなかったかしら?」
「はい」
その後五百藏さんから話を聞き、茜谷さんの家にも行ったことを話す。
「ずいぶんと奔走してくれたのね。小鳥遊くん」
ご苦労様、となぜか労をねぎらわれた。
「ま、まあ、部の仲間なんで」
(おれもなんで恐縮してるんだよ)
「……でも茜谷さんは、どうして急にそんな」
深刻そうに呟くのは部長だ。
弘海はすぐに答えかけて、やや言いよどんだ。これに関しては先輩たちには少し言いづらいことだ。一度息を吸ってから口を開く。
「詳しくはまだわからないんですけど……アニ研の方針転換が関わっているのは、たしかみたいです」
部長はハッとした顔になり、先輩は変わらず無反応だった。
「……創作の件、でしょうか」
「はい」
「たしかに今のアニ研の活動は、去年にくらべて大きく変わりましたけど……でも、茜谷さんだって、楽しそうにしていましたよね?」
「わたしも、そう考えていたけれど」
少なからず、先輩たちはショックを受けているみたいだった。
「嘘だったわけじゃないと思います。おれが言うのもなんですけど」
「じゃあなんで……」
「この前、持田さんの家にみんなでお邪魔したじゃないですか。あのとき、茜谷さんはじぶんだけ省かれたと思ったみたいで」
「そ、そんなつもりは」
「たぶん茜谷さんもわかってます。悪気はなかったって。でも……もしかしたらずっと、どこかで疎外感があったのかも」
思い当たる節がないとは言えない。むしろ見ないようにしていた気すらある。だから責任はこちらにあるだろう。
「部長失格ですね。部員の気持ちに、まったく気づいていなかったなんて」
「おれもです」
部長は眼鏡を外すと、自省するように鼻の付け根を指で押し込んだ。
「悠ちゃんは、今日はどうしたの?」
「五百藏さんは、もう帰っていたので。……それに昨日の今日で、五百蔵さんに茜谷さんの話をするわけには」
「……それもそうね」
安藝先輩は思案顔で目を細める。
「退部届はまだ出してないみたいです。さっき小野原先生に聞きました。だから、その前に茜谷さんのこと、なんとかしてあげたくて」
本題を告げると、部長が「そうですね」と頷いてくれる。
「わたしも今度こそ、部長として助けになってあげたいです」
そう。
今も、そしてこれからも、茜谷さんは大切なアニ研の一員だ。もし窮地に立たされているなら、手を貸さない理由がない。
——はず、なのに。
「わたしは、賛成できないわ」
いつも。
いつだって、そうだ。
「……先輩、今なんて」
安藝先輩は、いつもとなんら変わらぬ美しい姿勢で、穏やかな微笑みで、落ち着き払った調子で、言うのだった。
「わたしは賛成できない」
なにを言われたのか、一瞬わからなかった。
「先輩? なんで……」
「朱鷺子ちゃん?」
弘海は部長とともに、先輩のほうを見やった。
安藝先輩はいつもの調子で、
「ごめんなさいね。でもわたしはこのままなにもしないでいいと思う」
何度言われても、耳を疑った。
「なにもしないでいいって……。辞めるって言ってるんですよ? 茜谷さんが。それなのになにもしないって」
安藝先輩の微笑みはぴくりともしない。
弘海はまた身を乗り出すようにして言い募った。
「このままだと茜谷さん、ほんとに辞めちゃいますよ? それでもいいんですか?」
「はる陽ちゃんが辞めたいと言っているのでしょう? だったらそれを止める権利はわたしたちにはないわ」
「だからそれは」
助けを求めているってことじゃないか!
そう言い返そうとした弘海だったが、先輩と目が合った瞬間、ぐっと言葉に詰まった。
「ずっと一緒にやってきたアニ研の仲間なのに……。先輩は放っておけって言ってるんですか? 」
安藝先輩が首を横に振る。
「はる陽ちゃんが悩んでいるのなら、いつでも力になってあげたいと思っているわ」
「だったら」
「でも本人が辞める気なら、わたしたちにできることなんてないじゃない」
穏やかな声色とは裏腹に、その言葉はいつになく冷たく思えた。
弘海は唇を引き結ぶ。
テーブルに身を乗り出した体勢からおもむろに身を引いて、座っている先輩と正面から向き合った。
「五百藏さんのときも、そうでしたよね」
「いつのことかしら?」
「二学期ですよ。五百蔵さんが退部するって言ったときも、先輩はそうやって冷たく突き放して、なにもしようとはしなかった」
「冷たくしたつもりはないけれど」
いつもそうだった。
大人なふりをして、大事なときに手を差し伸べない。
「お、落ち着いてください。小鳥遊くん」
「茜谷さんが傷ついたのは、おれたちにも責任があります。違いますか?」
問えば、数秒の沈黙。
間隙を狙い澄ますように、チャイムがそのとき鳴った。
窓の外はすでに薄暗く。遠く夕暮れの色が空にグラデーションを施している。冬の冷気が窓際からやってきて足元を漂い始めているのに、弘海は遅れて気がついた。
「気持ちに蓋をして言い出す努力をしなかったのなら、それははる陽ちゃんの責任よ」
「っ……」
喉の奥が震えた。
「おれ、前から先輩のそういうところが——」
「小鳥遊くんっ」
——ぐっ。と。
刹那、心のうちでなにかがブレーキをかけた。
なけなしの理性が働いたのか。はたまた部長に遮られたせいか。
(おれ今、なに言おうとして——)
開けたままの口から,ひゅぅ、と声が漏れた。
すんでのところまで出かかった言葉が、一体なんだったのか、唖然として立ち尽くす弘海にはわかっていた。
「小鳥遊くん? 大丈夫かしら?」
足元の冷気が這い上がってくる。錯覚だったかもしれない。
血の気が引く。顔が青ざめるのがじぶんでもわかる。気づけば手で自らの口を覆っていた。怯えるように数歩、後ずさった。
「……かえります」
踵をかえして、覚束ない足取りで出口に向かって走る。
「小鳥遊くん?」
「ちょっと! 大丈夫ですか⁉」
ふらふらとたたらを踏みながら、逃げるように部室をあとにした。
*
その日の夜。
小鳥遊家のリビングはなんとも言えない沈黙に支配されていた。
原因は明らか。テレビの前に鎮座するソファー。そこに真っすぐうつぶせになって足を投げ出し寝転ぶ弘海に違いなかった。物言わぬ不動の姿。まるで廃棄されたマネキンのようにも、浜辺に打ち上げられたマグロの死骸のようにも思える。
帰宅して早々ソファーへ倒れ込み、以降、動かざること山の如しとばかりに微動だにせず。もはや呼吸をしているのかも怪しい。活力は消え失せ、このまま生命の息吹すら手放し、無機物の境地に達しかねない。
「おい息子。なにしてる」
やがて傍らに立つ女の姿。母親である小鳥遊風香だ。
彼女は反応がないとわかるや、じとりとした眼差しで彼を見下ろす。
「そのままソファーと一体化する気? つーか息できてんの?」
「……」
「こら無視すんな」
ソファーからはみ出た足裏がぺしりと叩かれる。びくっと両足が震えた。
「晩飯はどうすんのよ晩飯はぁー。もうお腹減ったし。あんたがダウンしてちゃだれも作れんでしょーが」
母親としてあるまじき発言だった。弘海は相変わらずソファーに顔を埋めながら「今日はコンビニにします」と沈んだ声でかえす。
「はぁ⁉ 先に言っといてよー! もう寒いのに外出たくないしー!」
「……自炊してくれ」
「いやなんでやねーん!」
「ボケてないから」
これ以上話しかけんなとばかりに塩対応の弘海。しかしそこは空気を読まないことで定評のある風香である。ぺちんっ、と今度は尻を叩いて一喝してきた。
「なになにぃ? もしかしておっぱいちゃん絡み?」
(この勘の鋭さはどこから来るんだ)
「あんた唐変木だもんねー。おっぱいちゃんの苦労がうかがえるわ」
「母さんになにがわかんだよ。つか先輩のこと変な名前で呼ぶな。ぶっ飛ばすぞ」
「その体勢で凄まれてもね」
ぺちん、とまた尻をはたかれる。
これ以上は癪なので、のっそり身を起こしておく。
起こすやいなや、「半端者ねぇ」となぜかため息をつかれた。
「あたしも人の親だし、恋愛相談なら聞いてあげられるわよ?」
親なら晩飯ぐらい作ってくれ。
「ほら、さっさと吐いて楽になっちゃいなさいよ。童貞が一人で悩んでもどーせ碌なことないわよ?」
「一言余計だし。母さんの経験なんか当てにできるかよ。……第一あの父親とまともな恋愛ができるわけ」
「なーにぃ? まさかあたしがあの人しか男を知らないとでも思ってんのー? この際だから教えてあげるけど、あたしがバージン卒業したのなんか高校のときで相手は他校の——」
「やめろやめろ! やめてくれ!」
両手で耳を塞ぐ。
息子としての本能が悲鳴をあげていた。
「おれが悪かった。悪かったから。……その先はマジでやめてください」
「えー? いい機会だと思ったのにー」
イかれてる。この母親。
なぜか不満そうな表情で渋々口を閉じ、風香はそのまま晩飯を買いにコンビニへと向かっていく。リビングからその後ろ姿が消えると、弘海は安堵の息をつく。
けたたましい着信音が鳴り響いたのはそのときだった。
テーブルのうえに置いてあったスマホに通話がかかっていた。
通話の相手は猪熊部長だった。
どうやら放課後の弘海の様子を心配して、かけてきてくれたらしい。
「さっきはほんとにすみませんでした!」
リビングから自室に移動した弘海は、通話越しに勢いよく頭を下げた。
『そんなに謝らないでください。部長として立つ瀬がありません』
「でも部長は止めようとしてくれたし。それ以外にもおれ、いろいろ失礼すぎて」
『そんなことないです』
母親との馬鹿話のせいで忘れかけていた後悔や羞恥が、またふつふつと湧き上がってくる。
『きっといろんなことがあって、いっぱいいっぱいになっちゃってるんですね』
「いやでも」
『小鳥遊くんがほんとうに謝りたい人は、ほかにいるんじゃないんですか?』
言葉に詰まった。
図星だ。
弘海は小さく肩を落とすと、落胆するように目を閉じた。
「……先輩のこと、傷つけちゃいました」
『どうでしょうね。朱鷺子ちゃんはあの後もけろっとしてましたけど』
「そう、だったんですか?」
あんなに弘海が取り乱してしまった後だというのに。
(それはそれで……なんというか)
『ひょっとして今ムッとしましたか?』
「へ? なんで」
部長は「……やっぱり」とどこか独り言のように呟いた。
「わたしもいろいろ考えなおしたんです。さっきのことがあって、おふたりのことをもっとちゃんと見るべきじゃないかと」
「はあ」
「余計なお世話ならすみません。ですがもしかしたら小鳥遊くんは今、朱鷺子ちゃんに思うところがあるのでは?」
「うっ……それは」
弘海は急所を突かれたように呻いた。
「おれって、そんなにわかりやすいですかね」
「素直さは小鳥遊くんの美点です。きっと朱鷺子ちゃんも、小鳥遊くんのそういうところに好感を覚えたのかと」
ここ数日のことを思い返した結果、部長は弘海の異変に気づいたようだった。ひょっとすると安藝先輩にもとっくにバレているのかもしれない。
「おれは好きじゃないです。おれのそういうところ」
「ポーカーフェイスが上手くなりすぎるのも問題だと思いますよ。しまいには朱鷺子ちゃんみたいになってしまいます」
先輩のあれも極端な例か。少なくとも部長もそう思っているらしい。
「部長としてではなく友人として、わたしはおふたりにはいつまでも仲良くしていてほしいと思っています。気まずい空気には、できるだけなってほしくありません」
「それは、おれだって……」
ベッドに腰を下ろし、弘海は視線を落とした。
「でもおれはそういうのは下手クソだし、経験もないし。……ここ最近は、むしろ先輩が、その」
言葉はやっぱり出てこなかった。
これ以上進むと、じぶんの一番嫌な部分と向き合うことになりそうだ。
「部長。おれ、しばらく部活休みます」
「小鳥遊くん?」
「先輩のことは、ちょっと時間がほしくて……。それよりも今は茜谷さんのことをなんとかしてあげたいと思ってます。すみません」
部長は悲しい顔をしているんじゃないだろうか。見えないながら思う。そして、なさけなくも今日は通話で良かったなと弘海は思った。
ややあって通話口から「はい」と聞こえた。
「わかりました。では待っています」
大人びた部長の声が、やけに鼓膜のうちで木霊した。
「おふたりなら大丈夫ですよ。きっと」
「ありがとうございます」
また見えてもいないのに頭を下げた。
「茜谷さんのことは、わたしも部長として話を聞いてあげたいのですが」
「いや。たぶんおれひとりのほうが、茜谷さんもやりやすいと思うので」
部長と顔を合わせるのも、今は気まずかったりして。
「そうですか。——では」
そのとき数秒だけ、部長がスマホを持ち直したような間があった。
「またみんなで集まれるのを、楽しみにしてますね」
「はい」