(4) この素晴らしい作品に祝福を!
田んぼは一面が雪に覆われていた。
すでに刈り終えた後らしく、そこへ雪が積もってまばらに縞模様ができあがっている。人はいない。鳥もいない。どこの田んぼもおなじようなものだった。かすかな生命の気配は真っ白な海の奥深くから。今は寝静まるようにして息を殺し、静かに春の訪れを待ちわびている。
有難いことに畑道は綺麗に除雪が済んでいた。駅から続く道は優先して開かれているらしい。道の中にはだれかが置いていったスコップが真っすぐ雪に突き刺さっていて、朝の光がそこへ宿命的に降り注いでいた。スコップはいつか勇者に抜かれる聖剣よろしく厳かに、ただそのときを待っている。持ち主はいつ帰ってくるのやら。
さて。一月も後半に差し掛かり。
弘海はついにテニス部を休部した。
ここ一年はアニ研にとって変化の一年だった。従来の活動内容を改め、より踏み込んだところへ部の舵を取った部長の心意気に応えるべく、弘海も少し思い切る必要があったのだ。にしても、まさか休部届なるものがあるとは思いも寄らなかったが。誠心誠意込めて書き上げたそれは結果として受理された。当然か、顧問教諭の憤怒の雷は落ちたが、まあこれでいろいろと動きやすくなった。
土曜の朝から大手を振ってアニ研の活動に赴けるのも、その恩恵だ。
肩の荷が下りたぶん少々身軽になりすぎたか、集合場所である安藝家へは弘海が一番乗りだった。いつも通り昭子さんに出迎えられ、今回は座敷のほうへと案内される。座敷は十畳ほどの広さで、彫刻入りの妙に高級そうな座卓があり、弘海が入室したときはそこへ安藝先輩がお茶請けを準備しているところだった。
「あら。小鳥遊くん。おはよう」
「お、おはようございます」
「今朝は早いのね。楽しみで眠れなかったとか?」
冗談めかした口調で言われるも、弘海は「……まあ」とだけ返した。予想外に手応えのない反応に安藝先輩は少し目を丸くしたが、すぐ押し入れから座布団を取り出し「どうぞ」と敷いてくれる。むっつりとした顔つきのまま弘海はその上で正座する。座布団はふかふかだった。
先輩がくすりと笑う。
「そう緊張しなくてもいいわ。楽にしなさいな」
「……」
緊張していない。と言えば嘘になる。
初めて入る客室にはそれなりに肩が強張るし、慣れない正座も少なからず拍車をかけていた。なによりこれから臨む活動の形式を思えば、億劫になるのもしかたないだろう。
しかし現在弘海の頭の大部分を占めるのは、まったくべつのことだった。思えば数日前から。ずっとそのことが頭から離れず、今日まで悶々とした日々を過ごしていたのだ。
「これで皆さん揃いましたね」
全員が揃うまでは、三十分もかからなかった。
なぜか制服姿の猪熊部長と、清楚な黒のニットを着ている安藝先輩、来て早々先輩の膝上で意識を失った茜谷さん、最後にいつものパーカーに髪を一部青く染めた五百蔵さんが到着して全員が一堂に会した。
「なんなのよこの家。広いし豪華だし、上品な召使いはいるし。凄すぎない?」
「あの人は朱鷺子ちゃんのお祖母様ですよ。五百蔵さん」
安藝家に初めて訪れる五百蔵さんが落ち着かなそうにしている間に、部長は全員の顔を見回す。
「みなさん、ちゃんと作品は持ってきましたか?」
「持ってきたわよ。めちゃくちゃかさばったけど」
「全員ぶんありますからね。メモしたこともあるでしょうし、これから書き込むこともあるでしょうから、できるだけなくさないようにしてくださいね」
部員の作品はそれぞれ枚数に差はあれど、全部重ねるとあきれるほど分厚い。これを紛失するほうが難しいと弘海は思った。いちおう今日は一日ですべての合評を終わらせる予定なので、全員の分を持ってくる必要があり、これがなかなか一苦労だった。
「さて。さっそく始めましょうか。順番はいろいろと悩みましたが、やっぱりボリュームの多い作品から順に話していこうと思います。『合評』は時間がかかりますからね」
「ということは最初は」
「わたしね」
控えめに手を挙げたのは、安藝先輩だった。
……ごくり。
と弘海は知らず唾を飲み込む。
「みなさん準備をしてください]
みな一斉に、鞄から作品の書かれた用紙の束を取り出していく。……最中、ちらりと弘海はみんなの顔を盗み見た。落ち着いた表情でみんなを待っている部長、眠そうに欠伸を噛み殺す五百蔵さん、実際に眠っている茜谷さん。——部員たちはみな、平然としていた。
(どうしてなんだ)
ただ一人、弘海を除いて。
「では朱鷺子ちゃんの作品『イルカの羽ばたく魔法』から。『合評』を始めていきます。初めになにか言いたい方がいれば挙手してください」
座敷が静まり返る。聞こえるのは茜谷さんの寝息だけ。
だれも、手を挙げる気はなさそうだった。
(おかしいだろ)
弘海は座卓の下で拳を震わせる。
なんで、どうして、みんなそんなに落ち着いていられるんだ。
「あっ、では小鳥遊くん」
気づけば、弘海は手を挙げていた。腕の角度は垂直に。天井を穿つ思いで主張する。その並々ならぬ気迫に、周りも何事かと張り詰めた空気になった。ような気がした。
「どうしたのよ? そんな恐い顔して」
「……どうしたもこうしたも」
ぷつり、と数日分の我慢の糸が切れる音がした。
弘海は喉を震わせ、上げていた腕を勢いよく振り下ろす。座卓に身を乗り出すようにして、
「なんなんですかこれは‼」
ぴしっと安藝先輩の作品を指差し、吠えた。
大音声のあとは、切ないぐらいの静寂だった。
しかしそれも束の間、絶賛爆睡中の茜谷さんが身じろぎしつつ「……るさい」と漏らしたのをきっかけに空気はやや弛緩した。それにしても一体いつまで寝ている気なのだろうか。先輩の膝枕は極上の品のようで、だらしなく涎を垂らして眠る茜谷さんに起きる気配は一切なかった。
「なによ。急に大声で叫んで、ご挨拶ね」
「五百蔵さんこそ、なんでそんなに平然としてるのさ!」
らしくないよ、と弘海は非難を込めた眼差しで訴える。頬杖をついた五百蔵さんは半眼でそれを受け流すとめんどくさそうにそっぽを向いた。
「こ、ここは他人様の家ですかあ。少し落ち着いてください。小鳥遊くん」
「部長も! これを読んでなんとも思わなかったんですか!」
「そ、それは……」
こちらはあからさまに目を逸らされる。やっぱり。部長は気を遣っていた。
「諍いからはなにも生まれないのよ。小鳥遊くん」
「一体だれのせいだと思ってるんですか」
僧侶のような落ち着きぶりで仲裁に入った安藝先輩は、やがて頬に手を当てておっとり首を傾げた。
「……そんなにおかしな話だったかしらね? わたしは普通に書いたつもりだったのだけれど」
「そう思うなら説明してみてください。自分が一体どんな話を書いたのか」
お安い御用よ、と頷き安藝先輩は子供に絵本を読み聞かせるように穏やかな声で、
「共通のテーマは『家族』ということだったから、そこから少し飛躍して、男女が家族になるまでを描く物語にしたわ。だから裏のテーマは『青春』かしら。それも地に足着いた『青春』ね。わたしたちとおなじ高校生ならではの等身大の苦悩、ひいては恋愛模様をちょっとドラマチックに書いてみたの。タイトルのイルカは主人公のルカちゃんと、幼馴染のカイくんから取ったわ。ちなみに略称は『イルまほ』よ」
「いや訊いてませんけど」
「物語は友達以上恋人未満のふたりが仲良く寝坊するところから始まるわ。カイくんとはお隣さん同士のルカちゃんは、このままじゃふたりとも遅刻してしまうことを悟り、最終手段として詠唱魔法を行使、相棒のレッドドラゴンを召喚して背中に乗せていってもらうの。おかげで遅刻は回避できてカイくんはルカちゃんに感謝するのだけれど、実は学校でも事件が起きていて」
「ちょっと待った!」
そう。まずここだ。
「なんですかレッドドラゴンって! 一体どこから出てきたんですか!」
「もちろん詠唱魔法によって描かれた魔法陣のなかからよ。本文にも書いてあったでしょう?」
「そういう意味じゃないですから! 魔法とかドラゴンとか、突飛にもほどがあるでしょ!」
「ふふふ、大した慧眼ね。小鳥遊くん。そう。実はルカちゃんには竜人族の末裔だったという衝撃の真実が、のちのち待ち受けていてね。その伏線のためにそれとなく差し込んでおいた次第よ。遅刻も回避できるし一石二鳥でしょう?」
「どこがそれとなくですか! だれでも気づくし驚きますよ!」
そんなタクシーでも呼ぶ感覚でドラゴンを持ってきたのかこの人は。
「そ、その後はたしか、謎の覆面集団が学校を襲撃するんでしたよね?」
「ええ。そうよまいる。銃を所持した彼らに為す術なく大人たちは倒れ、やがて生徒たちも捕らえられる。そこへ遅れてやってきたルカちゃんとカイくんは占拠された学校を救うべく立ち向かう覚悟を固めるわ。そして突如開かれる異世界への扉、蘇るカイくんの前世の記憶、血で血を洗う争いのさなか、明らかになる彼らの真の目的、ルカちゃんの出生の秘密と、すべてがひっくり返る衝撃の展開が目白押しの長編スペクタクルSFファンタジーよ」
「地に足のついた『青春』はどこいったんですか」
最初の説明が跡形もなかった。
「よく一つの物語にまとめましたよね……」
ついに本音がこぼれたのは部長だった。五百蔵さんも「まあ広げた風呂敷を畳んだことだけは称賛に価するわ」と少し投げやりに感想を漏らす。
「辻褄を合わせるのは得意みたいなの。わたし」
「そう聞くとすごく屁理屈な人みたいですね」
部長が苦笑するが、弘海はまだ言い足りなかった。
「あとついでにこの主人公の台詞の横にある『CV東江美奈子』って表記はなんですか。なんですでに声優決まってるんですか」
「あったほうがアニメ化したときに困らないでしょう? わたし美奈子さんの声大好きなのよ」
「いやしませんからアニメ化……。どんだけ気が早いんですか」
どうやら先輩はほんとうに頭のなかのアニメを文字に起こしたらしい。だからといって新しい登場人物が出てくるたびにカッコのなかに声優の名前を記載するのは勘弁してほしかった。それが目に入るたびに気が散るといったらもう。
と、控えめに手を挙げるのは部長だ。
「あの。一つ伺いたいんですけど。終盤の異世界から生還したふたりが結ばれるシーン。ハッピーエンドで祝福すべき場面だと思うんですけど、文章がその、なんというか必要以上に物悲しくて……」
「おれも変に感じましたよそこは」
最後のやっと元の日常に戻ったふたりを象徴するシーンだったのに「明日とも知れぬこの命を」とか「別れの言葉はまだ取っておく」とか、こいつらそのうち死ぬのかと突っ込みたくなるぐらい表現が謎に儚げだった。
「ああ。それはきっと『In Memories』のときね」
「え? いんめも……なんですか?」
「『In Memories』。このシーンにかかるBGMのタイトルよ。フリー音源なのだけれど、これが最後のシーンにぴったりな綺麗な曲でね。ただちょっとピアノの音が悲劇的すぎるのが唯一の欠点ではあって」
「BGMまで決めてるんですか」
「もしかしてその曲を聴きながら書いたとか……?」
「その通りよ。気分を出すためにも、それぞれのシーンに流すBGMは決めて、それを聴きながら書いたわ。こればっかりは本文にメモするわけにはいかなかったけれど」
「文章がBGMに流されちゃダメじゃないですか……!」
悲しげなBGMのせいでつい文章がネガティブになったらしい。この人は一体なにをやってるんだ。
「そういえば、これってあの漫画家にも見せたんでしょ? あの人、なんてったっけ?」
「御船アキオ先生ですね」
「それ。そんときは、なんて言われたの?」
「心意気は褒めてもらえたわ。なにより書くことを楽しめることは才能だとも。ただ最後に『好きを詰め込みすぎだ』と控えめに注意されたかしら」
最後のが一番の本心だろう。絶対に。
各々が無言で先生の心中を察していると、そんな微妙な空気を感じ取ったか、安藝先輩は、ふむ、と目を閉じて頬に手を当てた。
「最初は、ほんとうに学園ものの青春物語を書こうと思っていたのだけれどね。途中から『こうすればおもしろい』とか『こんなシーンが書きたい』とか、アイデアが次々と浮かんでしまってね」
思いついたら書かずにはいられなかったのだと、容疑者は供述した。
「思えばなんだか夢見心地だったわ。あれが、かの筆が進むという感覚なのかしら」
「進むというか暴走してますよ。筆が」
弘海はいよいよ大きく肩を落とした。
「まさか。安藝先輩がこんな作品を書くとは思いませんでしたよ」
正直言ってこの落差はあんまりにもあんまりだった。
安藝朱鷺子という人物像から勝手にハードルを上げてしまっていたのは弘海のほうだったが、それでもこのショックは簡単に受け止められるものじゃない。
「べつに。あたしは好きだけどね」
「わたしもです」
しかし一番予想外だったのは、他のふたりの反応だっただろう。「え……?」弘海は驚きに声を上擦らせる。
「展開はめちゃくちゃだし構成もあったもんじゃないけどね。でも文章には光るものがあると思ったわ。淡々と書いているように見えて独特のリズム感を持ってて、なにより語彙力が豊富。読ませる力はかなりあると思うわ」
「キャラクターが魅力的なのも良いですよね。朱鷺子ちゃんの言う通り、口調はかなり等身大の若者言葉なのに、喋ることがいちいち老成していて個性があって」
猪熊部長も、五百蔵さんも、いつのまにか表情を緩ませていた。
「すごく楽しんで書いているのが文章の端々から伝わってきて、読んでいるほうも微笑ましくなってくると言いますか」
「文章で韻を踏むのが好きみたいだから、たぶん耳で書く派なのね。ちょっと極端だけど、こういうセンスで駆け抜けるタイプの作品ってそうそう出会えないから。自然と創作意欲を刺激してくるのよね」
「……そこまで言ってもらえると、なんだか面映ゆいわね」
口々に褒められ、安藝先輩が気恥ずかしそうに身じろぎする。
その光景を、弘海は狐につままれたような顔で眺めていた。
「小鳥遊くんも、そう思いますよね?」
「え? あ、ええと……」
こちらを窺う部長の視線から、弘海は逃げるように顔を逸らし、やがて曖昧に頷く。
「まあ、はい」
思った以上の高評価で、安藝先輩の作品の『合評』は終了した。
休憩は挟まず、『合評』は次へ移る。作品はボリュームの多いものから先に話し合うから今度は五百蔵さんの作品、その次は猪熊部長の作品、という順番になった。
部員で長編を書いたのは安藝先輩と五百蔵さんのふたりだけだ。部長は短編を書き、残る一年組はショートショートをつくった。順番を鑑みても、おそらく予定では最初の二作品にたっぷり時間を割き、残った時間で後の作品を終わらせるつもりだったのだろう。
けれど想定は大きく外れることになった。見込み違いだったのは五百蔵さんの作品について。これがなんと二十分もかからずに終わったのだ。
「こうクオリティが高いと、あまり言うことがありませんね」
「ほんと、すごくおもしろかったわ。さすがね悠ちゃん」
「どうも」
そもそも五百藏さんの技量は学生レベルじゃない。素人目には、このまま本屋に置かれていたっておかしくないと思えるほどなのだ。意見できる余地は元々少ない。強いて言うなら難読な漢字が多かったことか。普段ラノベぐらいしか活字に触れない弘海にしてみれば重厚なSF作品の時点で専門外だった。先輩たちも、たぶん似たり寄ったりだっただろう。
さらに次順。部長の作品。これもなんとも短時間で終わってしまった。
これに関しては部長の作品がラブコメディだったのがすべてだったと言える。これにも造詣の深い青髪の少女曰く、「コメディって許容範囲の広いジャンルなのよね」とのこと。誤字脱字は少し多かったが、全体的に読みやすく、キャラクター同士の突飛な掛け合いに重点が置かれていたので軽快でおもしろいというのが、大雑把な総評だった。
「下ネタは、ちょっと……」
ただ一人、恥ずかしそうに訴えた初心な先輩はいたが……、まともに聞き入れられることはなかった。
「それでは次は小鳥遊くんの作品『友達家族』について話し合いましょうか」
そして壁時計の短針がまだ十時を越したばかりの頃、弘海の作品の『合評』が始まった。
(今日は早く終わりそうだな)
これを含め、残すところあと二作品。ここまで当初の予想を遥かに超えるスピードで話し合いは進んでいる。このペースだと、今日はあっという間に終わってしまうんじゃないか。
しかしそう思っていたのは、どうも弘海だけだったらしい。
「なに気の抜けた顔してんのよ。あんた」
内心拍子抜けしていたのが表情に出てしまったらしい。それに目敏く気づいた五百藏さんに半眼でにらまれた。
「ああ、いやそんなことは」
「言っとくけど、あんたのが一番言いたいことあるんだからね?」
「え? そうなの?」
ぺらり、という頼りない音とともに数枚しかない用紙が座卓に登場する。弘海の作品だ。
そして五百藏さんが取り出したそれの一枚目には……気が遠くなるぐらいの量の書き込みが、血のように真っ赤なペンで記されていた。
嘘だろ、と弘海は唇の端をひくつかせた。