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アニメ研究会より愛をこめて。  作者: 伊草
4章 三学期編
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(3) 境界の貴方


 今朝は少しばかり寝坊した。

 遅くまでアニメを見ていたのが(あだ)となった。起きた頃にはもうバス通学は望めず。断腸の思いで最終兵器たる母親の車を召喚することになったが、これが地獄だった。大雪が降りしきるなか冗談みたいな速度で飛ばされ、車中は一時期絶叫マシンと化した。なんとか遅刻は免れたがもはやどうでもいい。早起きは財産なのだと、弘海は身に染みて学ばされた。


 疲労困憊(ひろうこんぱい)で午前の授業をこなし、やっと昼休み。チャイムが鳴ったのと同時にぐうと腹の虫が鳴ったときはさすがに顔から火が出そうだった。今朝は朝食を摂る余裕がなかったのだ。やはり早起きは財産か。こころなしか(へこ)んだお腹をさすりながら教室を発ち、待ち合わせ場所である美術棟へと向かう。


「おはようございます。先輩」


「おはよう。小鳥遊くん」


 文芸部室に入ると、案の定、安藝先輩が先に待っていた。


 この人は、まるでゲームに配置されたCPUみたくいつも定位置で、いつもおなじ台詞で出迎えてくれる。たとえ授業中でも部室を訪ねれば出迎えてくれるんじゃないか。先輩のほうが教室は遠いはずなのに、不思議である。


「今日はチーズ入りハンバーグに挑戦したわよ。ご飯と一緒にいただいて」


「おれ、ハンバーグ好きです」


「知っているわよ」


 ふふっ、と先輩は柔らかく微笑んで、風呂敷に包まれた弁当箱を差し出した。


 期末試験が終わり、先輩との昼食がまた再開した。


 ふたりの構図はいつもと変わらず。お手製の弁当を弘海が有難くいただき、それを先輩が微笑んで見守る。おそらく学校生活で最も心地よく、穏やかなこの時間。もはや弘海にとってはなくて大きな癒しの休息となっていた。不変というものの尊さを、弘海は薄味の卵焼きとともに噛み締めていく。


 けれどすべてが不変でもなく。いくつか変わったことがあった。たとえば……、


「先輩、なんか近くありません?」


「そうかしら」


 弘海が弁当を食べ出してすぐ、安藝先輩はしずしずと彼の隣に移動してきた。


 これまではテーブルを挟んでふたり対面する形だったが。ここ最近はなぜか先輩から隣にやってくるようになった。それもわざわざ椅子を寄せ、肩がくっつきそうなぐらい近くまで身を寄せてくる。


「恋人には、いくつか義務があるらしいわ」


「なんですか急に」


「その一つがスキンシップよ。親密な間柄の男女が物理的に触れ合うことで、お互いの一体感を高め合う必要があるのだと、ウィキにもそう載っていたわ。ええ」


「先輩ネットなんか使えたんですか」


「ゆえに小鳥遊くん。スキンシップよ」


 会話が一方通行すぎるが、まあ言いたいことは伝わった。


「べつにおれなんかでよければ、どこでも好きに触ってくれていいですよ?」


「それじゃあ変態じゃないの」


「え……? 先輩はどこを触るつもりなんですか……?」


 安藝先輩が真顔で固まった。


 しばしののち、……コホン、と咳払いを一つ。


「では間を取って手を繋ぎましょう。それぐらいなら恋人らしくていいでしょう?」


 一体なんの間を取ったんだろう。果てしなく気になるけど、訊いちゃいけないんだろう。たぶん。

 それに先輩の申し出は少し無理がある。それは、


「すみません。おれ今お弁当をいただいているので、手が使えないのはちょっと」


「あ」


 初歩的すぎる問題だった。

 安藝先輩は「そうね。じゃあ……」と呟いたきり黙り込んでしまった。女性誌の表紙みたいに綺麗な横顔を俯かせ、顎に手を当てじっとなにやら考え込んでいるみたいだけれど。


「そんなに焦らなくても、いつも通りでいいんじゃないですか?」


「そうかしら。せっかく恋人になれたのに、なにも変化がないんじゃつまらないでしょう」


(つまらない、か)


 ついさっき不変の尊さを噛み締めた弘海としては、いささか頷きかねる話だった。


「おれは、急いでなにかを変える必要はないと思いますよ」


「まあ、それもそうね」


「はい」


 ゆっくりでいい。慌てなくとも時間はたくさんあるのだ。


 そしてやっと話は一段落。

 したつもりだったのは、どうやら弘海だけだったらしい。……ぴたっ、と気づけば先輩はさらに身体を密着させてきた。さっきまでの話は一体なんだったのやら。ちゃっかり重心まで傾けて、そのまま肩に乗っかりそうなほど顔も間近にあった。


「えっと……今の話、聞いてました?」


 唇は微笑みの形を保ったまま、眠るようにまぶたを閉じている。聞こえてませんよ。とでも言わんばかりだ。この人は時々子供みたいな真似をする。


「わたしとくっつくの、小鳥遊くんは嫌?」


「いえ。で、でもちょっと食べづらいかなと」


「それは食べさせてほしいというおねだりかしら?」


「曲解やめてください……」


 落ち着かない。非常に落ち着かない。

 あんなに空腹だったのに、すっかり食欲も遠ざかる。箸先で摘まみかけたハンバーグを元の位置に戻した。すると先輩が、動きを止めた箸先を憂うようにじっと凝視していることに気づく。弘海は内心ため息をつくと「……あむっ」勢い込んでハンバーグを運んだ。もぐもぐと咀嚼し、


「……ん?」


 不意に、目を見開く。


「先輩。もしかしてこのハンバーグ、昭子さんに手伝ってもらいました?」


「あら、どうしてそう思うの?」


「いや。だってちゃんとなかまで火が通ってるし。すごくマトモな味がするというか」


 弘海は刑事のような真剣な目つきで、(かじ)りかけのハンバーグを検分する。……やっぱり。生焼けじゃない。火加減もばっちりなようで、なかに入ったチーズもとろりと丁度いい感じに溶けている。


「マトモな味がしてはいけないのかしら」


「いや、そういう意味じゃないんですけど。これはちょっと衝撃というか」


 安藝先輩はそこはかとなく不満げではあったが、改心の出来であったのは事実らしい。艶のある前髪を耳にかけながら、気持ち少しだけ胸を張った。弘海は残りも平らげる。


「……うん。美味しいですよ。すごく」


 不意打ちにしても、これはちょっと嬉しい不意打ちだった。


「そう」


 我が意を得たりとばかりに先輩は微笑む。


「変わるのも、悪くはないでしょう?」






 お弁当の中身が空になると、すかさず今度は汁物が出てきた。


 白い水筒からとろみのある薄茶色のスープが、用意されていたカップ(学生鞄から出てきた)へと注がれる。刻まれた玉ねぎが浮かぶそれはオニオンスープだったが、これがなんと湯気立っていた。


「魔法瓶ですか? それ」


「ええ。まいるに手伝ってもらって、ネットで取り寄せたの。良いものは意外と値が張るものね。でもおかげでこうしてお昼になっても温かいままだわ」


「もしかして、このためだけに買ったんですか?」


「ええ。そうだけど」


 先輩は気軽に頷いてみせる。良いものと言ったが、一体いくらしたんだろう。


「お、美味しい……」


「なによりね。最初はお味噌汁にしようと思っていたのだけれど、わたしオニオンスープが好きだから。でもこれが思った以上に手間がかかってしまってね。小鳥遊くん飴色ってどんな色かわかる? わたし全然わからなくて」


 味は間違えないから助かるけれどね、とこころなしか先輩は饒舌(じょうぜつ)だ。


 ずずっとスープを喉に流し込むと、寒さで凍えた指先まで温まっていく。これは冷え性にはありがたい。 どこまでも行き届いた先輩の気遣いに半ば感動しつつ、コース料理を堪能したような満足感で弘海はほっと一息をつく。


「——さて」


 今日はこれで解散だろうか。


「そういえば小鳥遊くん。今朝はネックウォーマーだったわね?」


「え? あ、はい」


 と、脈絡なく問われ弘海はやや驚く。次いで「んん?」と眉をひそめた。


「なんで、そのことを知ってるんですか?」


「教室から見えたから。今朝は少し遅刻したのかしら?」


「まあ、はい」


「そう」


 ぎこちなく頷けば、ぴたりと会話が止まった。なんだろう。いまいち話が見えない。


 安藝先輩は言葉を探るように目を細めて思案顔をつくっている。


「まあいいわ。とりあえず見せましょうか」


 なにか自己完結したふうに言って、学生鞄のなかへ手を滑り込ませた。見せたいものがあるのか。

 それから目当てのものを取り出すと、弘海の目の前で広げてみせた。


「え? これって」


 群青色とねずみ色で毛糸が分けられた、それは大きなマフラーだった。


「編んでみたわ。マフラーは初めてだったけれど、うまくできたと思う」


「……もしかして」


「プレゼントよ。小鳥遊くんに」


「……」


 開いた口が塞がらなかった。


「おれ。誕生日は四月なんですけど」


 知っているわ、と安藝先輩は答える。


 では他にだれか誕生日の人はいただろうか、とまで考えて、そもそも二人きりの状況であることを思い出した。じゃあ先輩にめでたいことでもあったのか。しかし現状もてなされているのはどう考えても自分である。


 返答に窮する弘海をどう捉えたのか、安藝先輩は不意に「安心して」と声をかけた。


「恩を売るわけじゃないわ。これも一つの打算だから」


「打算、ですか?」


「ええ。付き合うときに宣言したことの一環よ」


 宣言、と聞いて真っ先に思い浮かぶのは『好きになってもらえるよう努力するわ』という、あのときの言葉だった。


「頼れる友人の助言でね。ヒロインの攻略は、相手の性格や得手不得手(えてふえて)を突くことが重要らしいわ。そして小鳥遊くんは生粋の冷え性でしょう? つまりプレゼントにはマフラーが最適というわけよ」


「もしかしてその友人はメガネをかけていますか」


「アドバイザーには守秘義務が適用されるわ。ただ、美少女ゲームの類には一家言あるそうよ」


(絶対部長だろ!)


「まあ要するに、好感度狙いね」


「……おれの好感度なんか、そんなに重要ですかね」


 安藝先輩はじっと弘海の顔を見つめて、結局なにも言わずに微笑んだ。それは久しぶりに見る『女優の微笑み』だったかもしれない。やがてマフラーを広げ、されるがままの弘海の首に回していく。


「うん。似合っているわ」


「……」


 丁寧に巻かれたマフラーにむずりと顔を埋めてみる。なんだかとても良い匂いがした。首元もびっくりするぐらい温かくて、柔らかくて。


 でもなんでだろう。

 ありがとう、は最後まで言えなかった。






 **






 A4サイズの用紙の束が二つ、テーブルのうえに並べられていた。


 よく見ると、一枚ごとにページ番号が振られている。番号は束の一番下から始まっているようで、一番上の用紙の端には「172」と記されていた。二百枚近くの用紙の山。表面に指先で触れると、擦り立てなのか少し熱を持っていた。


「……これが先輩の」


「はい。朱鷺子ちゃんの作品です」


 放課後、文芸部室に呼ばれたのは弘海と茜谷さんのふたりだった。


 安藝先輩は家の用事で先に帰っている。部室には五百蔵さんもいるが、さっきからテーブルの隅で我関せずとばかりに黙々と小説を読んでいた。凄い集中力で、文字を追う視線とページを繰る手以外はぴくりとも動いていない。


「分厚っ! これぜんぶトキセンが書いたの?」


「はい。超大作ですよ」


 用紙の束に茜谷さんが顔を寄せ、その厚さにほおおと変な声を上げる。


 実際に小説を書く。

 それは現在アニ研が実施している活動だった。


 アニメを研究するからこその、アニメ研究会。それがなぜ小説なぞ書くことになったのか。そのきっかけは五百蔵さんの入部に起因する。——曰く、「体験してこそ創作への理解は深まるのだ」と。作家志望の五百蔵さんだからこその意見だった。その言葉に一理あるとし、アニ研は創作活動に足を踏み出した。


「打ち込むのは楽しかったですが、コピーするのは一苦労でしたね。コピー機は職員室のを使わせてもらいましたが、次からは部内でなんとかするようにと注意されてしまいました」


 部長の苦笑いにつられ、弘海も「ははは……」と力なく笑う。


 まあ先生方もまさかこの量をコピーするとは思わなかっただろう。しかたない。


「小鳥遊くんも完成しましたし、これでやっと次に進めますね」


 次ってー? と茜谷さんが小首を傾げる。


 そういえば部長は前に言っていた。次の活動はアニ研としても初の試みなのだと。


「今度のアニ研の活動では、久しぶりに『合評会』を行おうと思います」


「いつもと変わんないじゃーん」


「はい。ただ今回は少し趣向を変えまして」


 そして部長は後輩ふたりの顔を見回し、五百蔵さんにも聞こえる声で言った。


「話し合うものは、それぞれみなさんの作品です」






 **






 みんなで小説を書くことが決まってから、どこかで予感はあったかもしれない。

 次の活動の詳細が発表されても、そんなに驚きがなかったのは、だからだった。


「じゃあなんでそんなに鬼気迫る顔してんのよ?」


「そんな顔はしていない」


 風香が小ぶりな土鍋に箸を伸ばす。選ばれたるは湯気立つ肉団子。少々冷ましたのち、あむっと豪快に口に運び、ん~、とご満悦な表情を浮かべた。昨晩の残り物にネタを追加して出汁(だし)を足しただけの代物だが、この母親は楽でいい。


「してるわよー。もうわかりやすく不安がってる感じ。なにぃ? まさかじぶんの作品を評価されるのが怖いわけー?」


「うっ……」


 この母親は。どうしてこう嫌なところばかり突いてくるのか。

 頷く代わりに、弘海はよく味の沁み込んだ油揚げを頬張る。出汁の味が口いっぱいに広がるが、一気に口に放り込んだせいで舌が火傷しそうになった。


「それもあるけど。どちらかと言えば逆のほうが辛いだろ」


「評価するほう? そんなの思ったこと全部言えばいいだけじゃないの」


 簡単に言うな。


「それは……悪いところもか?」


「当たり前でしょ? 褒める以外も、ちゃんと思ったことは言葉にして伝える。あんたたちが今までやってきたことでしょ?」


「それはそうだけどさ」


「創作はとくに他人の意見で気づくことが多いし。意外と遠慮なしにズバズバ言われたほうが、むしろすぐに飲み込めたりするわよ」


 と、コップのお茶を一口。

 そりゃあ、この人は仕事柄そういうのも慣れているだろうけれど。


「でも今回はだれかの作品じゃなくて。みんなの作品なんだよ」


 今までの『合評会』では各々の好きな作品を議題にしてきた。好きな作品。言い換えれば、それは他人の作品だ。こう言っては難だが、作り手と自分が無関係な状況だからこそ、遠慮なしに勝手な意見ができた側面は、たしかにあったのだ。


 しかし今回は違う。議題の相手は、今までおなじ時間をともにしてきた仲間たち。顔も名前も知っていれば、どんな性格かもわかっている。しかもそれを本人の目の前で、本人の作品に意見するのはまた違う意味でハードルが高かった。


「つまり、みんなと仲が悪くなるのは嫌だって?」


「なんでもかんでも要約するなよ」


 漏らしたため息は、しかし肯定の意を示していた。


「そ。でも、それを決めたのは、あの部長ちゃんなんでしょ?」


「……五百蔵さんとも、相談したみたいだけど」


「それって、要するにあんたたちを信頼してるってことじゃない」


 だから要約するなと言っているのに。


「それは」


 けれどそう。

 ぶっちゃけその通りなのだ。


「対等な立場で遠慮なしに意見をぶつけ合いたいとか。それってただの友達じゃできないことよー」


 わかったような口を聞いて、風香はまた肉団子を土鍋から(すく)い取る。 この掴みどころのない母親は、いつだって気軽に核心を突く。痛いところだろうとお構いなしに。ただ時々、ほんとうに時々こうして芯をとらえることもあるから、息子としては余計に腹が立つというかなんというか。


「肉ばっかり食べてないで、野菜も食えよ」


「え~」


「えー、じゃない」






 食器を洗いお風呂の準備を済ませる。そうして息子が家事をしている間に、母親のほうはソファーに寝転がってザッピングを始めた。だらしない母親の姿を尻目に、弘海は自室へ戻る。


 実に癪な話ではあるが……、今回においては全面的に風香が正しいだろう。


 部長はある意味、アニ研を次に進める選択を取ったのだ。「みんなとなら」と部員たちを信じて。 その思いに真っ先に応えず、関係に亀裂が走ることをまず憂慮している時点で、じぶんはきっと半人前だ。


 学生というモラトリアムの期間において、人間関係は緩やかな波のようなものだ。沈んだり浮かんだりしても、大抵そう大きな変化はない。けれどそれは当然見える範囲だけの話で、水面下ではきっと絶えず流れは変わり、気持ちが渦巻いている。おなじ泳ぎ方をしているだけじゃ、だから先には進めない。部長が決めたのは、つまりそういうことだ。


「……よし」


 夜もそろそろ深まる頃、ようやく弘海は対峙することを決めた。


 勉強机のうえに置いてあった、例の作品と。


 一番上に記されたタイトルには『イルカの羽ばたく魔法(仮題)』とあった。その下には小さなフォントで作者の名前が記されている。当然というべきかペンネームではなく、明朝体の黒文字で打ち込まれた彼女の本名。——安藝朱鷺子。


 そう。安藝先輩の作品だ。


 すでにほかの部員の作品は読み終わっていた。安藝先輩のだけ遅れてしまったのは、先輩が文章を原稿用紙に直接書いたのを部長がPCで打ち込み、それをコピーするという過程を経たためだ。それがこうしてようやく手元に届き、ついに読める機会が回ってきた。弘海も先輩の作品はずっと心待ちにしていたので、期待もひとしおだ。


 深呼吸を一つ。やがて椅子に腰を下ろす。


「読むぞー。今読むぞー」


 無駄に自らを鼓舞し、満を持して手を伸ばす。


 ……しかし。


 いざ、と一枚目をめくろうとしたところで、ぴたりと指先が硬直してしまった。


「なんで緊張してるんだ……おれ」 


 どういうわけか、肩が強張って身動きが取れない。


 遅れて、脳裏に蘇る会話が一つ。


 ——あんたさ。安藝先輩の小説読んだ?

 ——え? いやまだ読んでないけど。

 ——そ。じゃあ読んでみなさい。そーしたら、少しはどういうことかわかるんじゃない。


 それは年末の一幕。弘海が漏らした『好き』とはなんだという嘆きに端を発する、五百蔵さんとのやり取りだった。 あのときは会話が途中で切り上げられてしまったけど、その真意はよくわかる。


 たぶん五百蔵さんは部長に頼んで、先に先輩の作品を読んでいたのだろう。そして「読めばそれがわかる」とまで評し、弘海に勧めた。つまり五百蔵悠をしてそこまで言わせるほどの作品だったというわけだ。


 ごくり、と唾を飲み込む音がする。

 大袈裟な音である。一体どこのどいつだ。と一瞬思うが、この部屋には他にだれもいないので犯人は自分しかいなかった。ダメだ。妙なことを思い出したせいで悪戯に読むハードルが上がってしまった。


「超大作、だもんな」


 さらには部長の一言まで反芻(はんすう)し、余計に尻込みする始末。


 ヤバい。これじゃいつまで経っても読めない。


(ええい…………!)


 ままよ、と弘海は半ばやけくそに最初のページをめくった。


 怒涛に飛び込む思いで、と言えば大袈裟すぎるが。投げ槍になれたのは良かった。初めの数行を読んでしまえば早く、じわりと変な汗を背中に流しながらも、すらすらと文字の流れに目を這わせ。


 一ページ、一ページ、と読破していく。


 やがて数時間後、作品の半分まで読み進めた頃、


「こ、これは……」


 弘海は恐々と、喉を震わせた。



 

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