(24) まよカノ! ~迷える俺とチキンな彼女~
冬休みが、明けた。
明けてしまった。
これがアニメならば、オープニング明け早々に『決戦の日来たる‼』と気合十分なサブタイトルが表示されたことだろう。大体こう、画面の端っこあたりに。こういう展開は大抵山場となる最終回近くで訪れるものであるからして、往々にして注目度も高まる、言わばジェットコースターの最高到達点的な緊張と期待合わさる、そんな宿命を背負った日だったのかもしれない。
しかしそんな日にかぎって出鼻を挫かれるのも、これまた宿命であったりして。
「……はぁ」
校門近くのバス停で降りた弘海は、差した傘から曇り空を見上げ、深々とため息を一つ。
三学期初日の朝、世界は強かな雨のなか。
底冷えするような冬の寒さと、肌にまとわりつく湿った空気で、生憎と気分は最悪だった。
「朝から冴えない顔を見せないでくれるかしら?」
「……五百蔵さん。おはよう。今日は良い天気だね」
「どこがよ……」
ついアメリカンジョークが飛び出るくらいには最悪だった。
「しゃきっとしなさいよ。これから三学期なんだし」
と言って、休日の彼女の髪色を思わせるブルーの傘を差して一人校門へと向かう五百蔵さん。
さて、しょっぱなから文字通り暗雲立ち込めている決戦の日だが、弘海としては、実は安堵するところもあったりした。なにせ傘を差していれば自然と顔が隠れるので登校時から先輩とばったり出くわす心配が減るのだ。気持ちで言えばそりゃもちろん、すぐにでも問題を解決したいけれど、アドリブでどうにかするような事態はできるだけ避けたい。
「よっす。小鳥遊」
「弘海くん、おはよ! 大晦日ぶりやね!」
「うん。みんなひさしぶり」
教室での挨拶も早々に、じぶんの席へ着き、弘海はこれからのことを考え始める。
昨晩は猪熊部長と通話で話し合い、一緒に今日の作戦を立てた。あとは最後の打ち合わせを済ませたのち事に挑むだけだ。
なのでとりあえず昼休みに部長と会うまでは心の準備くらいしかやることがない。あるいは謝罪の文面を今一度整えておくべきか。すでに脳内には一言一句抜け目なくインプットしてあるが、ほんとうにこれで許してもらえるかどうか。かなり不安だ。
「なんや鬼気迫る顔しとるねえ、弘海くん」
「すげー顔濡れてるけど、傘忘れちゃったのか?」
「あれは雨じゃない。冷や汗だ。イッセー」
そういえば、部長と落ち合うのは文芸部室という話だったが、安藝先輩はその間どうするのだろう? ひょっとして部室に来たりはしないか……確率はかなり低いが、ありえなくはないだろう。これはマズい。万が一にも作戦会議の場を見られたりしたら、もう準備どころじゃない。やっぱり集合場所は変えるべきか。
「でもそれをどう部長に伝えるんだ……? スマホで連絡はできるけど、昼休みまでに気づくかわかんないし、ここはやっぱ直接……って、ダメだ、教室には先輩がいる。でもほかの方法は思いつかないし……って、ああもう、どうすれば……‼」
くしゃくしゃと頭を掻きむしる。その荒れた様子を見て、またクラスメイト三人が「小鳥遊くん……」「大丈夫かいな」と心配そうに言葉を交わすが、余裕のない弘海は気づかなかった。
そして朝のホームルームが始まっても、弘海の脳内会議は暗礁に乗り上げたまま、先々に不安だけが募る。
しかし結論から言えば、その苦悩はすべて、水泡に帰すことになった。
ホームルームが終わってしばらく。それは一時限目が始まる直前のことだった。
「小鳥遊くん!」
「……部長?」
教室後方、まるで結婚式に異を唱えに来た間男のごとく大きな音を立てて扉を開け放ち現れたのは、猪熊部長だった。縁なし眼鏡の位置がずれ息も荒げている。弘海は反射的に「——いいところに」と口を開きかけるが、目が合うのも早々にぐんぐんと距離を詰められ、すぐ何事かと眉をひそめた。
「一大事ですよ。小鳥遊くん!」
「どうしたんですか? そんなに慌てて」
教室中が、なんの騒ぎだ……? と注目するなか、
「朱鷺子ちゃんが、学校に来ていないんです!」
「へ?」
部長の声が悲鳴のように響き渡った。
「来てないって……か、風邪引いたとか?」
「そんなわけないじゃないですか! 朱鷺子ちゃんと言えば未だ一度も病欠したことがなく、二年間続けて皆勤賞を獲得している常連さんなんですよ! ただの熱ぐらい平気で登校してきますよ!」
「それはそれで心配な情報ですが」
そんな安藝先輩が今日にかぎって教室に現れない、と。
「これは絶対、ぜーったいにしょげてます! しょげて恥ずかしくて家から出れないチキン野郎状態です!」
「でも先輩は学校から逃げたりしないって、前に部長が」
「そんなことは言ってません‼」
「ええ……」
(言ってた。絶対に言ってたよ)
「とにかくです! こんな問答をしている場合じゃありません! さあ小鳥遊くん、今から朱鷺子ちゃんのもとへ!」
「へ? 今から……?」
まもなく一時限目が始まろうとしているのだけれど。
「ほ、放課後とかじゃ」
「そんな悠長な! 今すぐじゃないとダメです!」
「でも無断早退って……けっこう内申点とかに響きそうな」
「呑気なことを言ってないで、早く行ってきなさい!」
聞き分けの悪い子供のように叱られ、弘海は「は、はいっ」と学生鞄を持って立ち上がった。
突然の騒ぎにざわめく教室。淡島くんなどは呑気に「おっ、早退かー? 俺先生に言っとこうかー?」と声をかけてくれたので、お言葉に甘えおくことにする。「なんか知らんが頑張れ小鳥遊ー」「ふぁいとー!」とこれまた緊張感のないふたりからの激励を背に、弘海は教室を出て行く。
「…………はぁ」
途中、女の子のため息が聞こえた気がしたが、だれのものだったのか、振りかえる余裕は弘海にはなかった。
**
(先輩が、学校をサボるなんて)
フシュュ……、と音を立てて停車した電車に乗り込みながら、弘海はまだ混乱のなかにあった。
(おれのせいだよなあ……)
知らずため息が漏れる。
車窓に強かに打ち付ける雨粒も、こころなしか責め立てるかのよう。
事ここに至り、やっとじぶんのしでかしたことの大きさが身に染みてきた弘海は、呑気に座る気にもなれず、だれもいない車両で一人突っ立っていた。吊革を持つ手にもいまいち力が入らない。
(どんな顔をして会おう……)
というか、そもそも家に入らせてもらえるのだろうか? こうなった以上、よくもうちの娘をと門前払いされてもおかしくはない。昭子さんならそんな乱暴な扱いはしない気はするけど、どうなるかわかったものじゃない。
——ぽつぽつ、と雨が車窓を叩く。
電車が一駅越えるにつれ、その勢いは和らいでいくが、いっこうに弘海の心は晴れぬまま。
濡れそぼった傘から水が滴り、気づけば車内に小さな水溜まりができていた。
「まあまあ、お待ちしておりましたよ。弘海さん」
それから約一時間後。
恐る恐る安藝家のチャイムを鳴らすと、数秒も経たぬうちに、割烹着姿の妙齢の女性が現れた。
物腰柔らかな白髪の女性は、先輩の祖母である昭子さんだ。
「随分とお早い到着でございますが、学校のほうはよろしいのですか?」
「よろしくは、ないんですけど……いろいろとやむにやまれず……」
「まあ、これは正直なことで」
当初の予想とは違い、意外にも昭子さんは温かく迎え入れてくれた。その柔和な微笑みの裏でどんなふうに思われているのか、ほんとうのところはわかったものじゃないけども。
「ところで、お顔とお召し物が随分と濡れていらっしゃるようですが」
「これは、その」
とご指摘通り、弘海はなぜか服も靴もどこもかしこもずぶ濡れであった。前髪なんか絶えず水の粒が滴っているぐらい。
これにはそう、海よりも広くプールよりも浅い事情が実はあり。
「……うっかり電車に傘を忘れまして」
「まあまあ災難なことで」
マヌケにもほどがあった。
もしくはこれも天罰か、駅からここまで雨ざらしで歩いてきた弘海は、ずぶ濡れのまま深く頭を下げた。
「ほ、本日はお孫様に対して誠に申し訳っ」
「謝罪は良いですから、ただいまお湯を張りますので、すぐにお入りください。そうでないと風邪を引きますよ」
「そっ、それも天罰なら甘んじて!」
「早くしていただかないと玄関が汚れますし」
「……はい。すみません」
——というわけで風呂場を使わせていただくことになった。
『お湯加減はいかがですかー?』
「は、はい。大丈夫です」
熱い湯が張られた浴槽に冷えた身体を沈ませながら、弘海はなんとなく肩身を狭くする。
風呂場は真っ白なユニットバスだった。以前一泊した際に使用したので驚きはなく、まして豪華な屋敷なのにと庶民的想像を裏切られたりなどもしないが、やはりどことなく拍子抜けしているじぶんがいる。『遠慮せず、しっかりお浸かりください』折戸越しに昭子さんの声が聞こえた。
「すみません。ご迷惑をおかけして」
『なにをおっしゃいますやら。弘海さんならいつでも歓迎ですよ』
「……怒ってないんですか? おれのこと」
おずおずと訊ねる声が風呂場に反響する。『はて? なぜにそうお思いに?』 昭子さんは不思議そうに訊き返した。
「それは……先輩のこと、傷つけちゃったから」
『ふむ。詳しいことは存じ上げませんが、弘海さんも故意ではなかったのでしょう?」
「も、もちろんです」
『であれば問題ありません。またなにか孫娘が考えなしに突っ走ったあげく、ご迷惑をおかけしたのでしょう。申し訳ございません』
逆に謝られてしまった。これには弘海も「いやいや!」と恐縮する。
「おれが悪いんです。おれが……」
『まあまあ。反省するのもよろしいですが、弘海さん』
老婆心ながら一つ、と昭子さんは続け、
『謝罪ですべて解決することは、残念ながらそう多くはありません』
「え?」
『それが大切な相手であれば、なおさらでございます』
弘海はただ黙るしかなかった。
反論を飲み込んだのではなく、その言葉が湯の熱さと一緒に肌に沁み込んできたから。 助言というにはいささか試すようで、お節介というには優しすぎる。きっと昭子さんは直接手を貸さず、見守ってくれる気なのだろう。
「謝ること以外思いつかない場合は、どうしたらいいですか」
『その場合は諦めるしかありませんが。弘海さんなら、すでにどうすべきかご存じなのではありませんか?」
「それって……」
弘海の声を遮るように、突然、折戸が開かれた。
にっこりえびす顔の昭子さんが、そこに立っている。
「え? な、なんで」
「お背中をお流ししようと思いまして」
と言いつつ、わきわきと両手の指を動かす昭子さん。 嫌な予感がする。
「前回は無念にも朱鷺子さんの妨害に遭いましたので、今回こそはと機を窺っておりました」
「え、そうだったの?」
知られざる舞台裏の話を聞かされ驚く弘海を尻目に、昭子さんがにじり寄ってくる。
「では、僭越ながら」
「い、いやちょっと! 結構ですから! おれ今裸だし!」
「わたくしは気にしません」
「おれが気にします……‼ いやマジで! ふつーに恥ずかしいんで‼」
「嫌よ嫌よも好きのうちでございますよ」
「って、うお! 力つよ……⁉」
浴室から出た弘海は、げっそりした顔つきで廊下を歩いていた。
(つ、疲れた……)
あの後は結局、為す術なく押し切られ、背中どころか色んなところを洗われてしまった。
もうお嫁にいけない、と泣き喚くレベルではないが、大切なものを失ったような気分ではある。にしても、決然と学校を抜け出し、遥々ここまで来ておいて一体なにをやっているんだろう、じぶんは。
「まあまあ、よく似合っておいてですよ。弘海さん」
前を歩く昭子さんは、こころなしか肌艶が良くなっている気がする。
「着てから言うのも難ですけど、服なんて借りて良かったんですか。というかこれだれの」
「息子が若い頃に着ていたものです。余り物ですから、そのまま着て帰られてもかまいませんよ?」
「恐れ多いし、部屋着のまま外に出る趣味はないです」
上下セットの青いルームウェアは、フード付きのあったか裏起毛。風呂上りにはちょっと暑いぐらいだが、一月の冷え込んだ気温にはむしろちょうどいいぐらい。
(というか昭子さんの息子って、先輩のお父さんなんじゃ……)
途端、萎縮してきた。
やめよう、意識するのは。ついでに値段とかを想像するのもやめよう。
「それで先輩は、今は?」
「自室にて閉じ籠っております。それはもう今朝からずっと。呼びかけても返事すらなく」
「そ、それは」
「ご安心を。朝食は食べていらっしゃったご様子なので滅多なことはありません。ですがまあ、なんともなさけないものです」
あきれてものも言えないといった感じの昭子さんだが、弘海はやはり心配だった。
そんな先輩の部屋はなんと二階にあった。なんと、というほど突飛なことはないが、一度まんまと姦計にハメられ一階の部屋をさも自室のように紹介されたことのある弘海としては少し出し抜かれた気分にはなる。
「邪魔者は退散致しますので、ぜひおゆっくりとお話ください」
部屋の前まで案内すると、風呂場でのしつこさが嘘だったかのように昭子さんはあっさり立ち去っていく。
(ごゆっくり、か)
果たしてゆっくりとなにを話せばいいのか。正解があるならぜひ知りたいところだけど。
その部屋は、階段を上がった目と鼻の先にあった。
ドアノブ付きの妙にお堅い感じの扉。女の子らしく『ときこ』と札が立っているわけでもない。昭子さんに教えてもらわなければ、ここが先輩の私室だとは思わなかっただろう。こういう家だからしょうがないのか、とにかく味気ない。
「あ、安藝先輩っ」
思い切って扉越しに呼びかけてから、すぐに後悔が押し寄せた。紳士たるもの、まずはノックからだろうに。いきなり大声を出すとはこれ如何に。のっけからテイク2を要求したくなるが、叶うはずもなく、室内からドタドタッと物音が聞こえた。
「おっ、驚かせちゃってすみません。おれです。小鳥遊です」
「……っ」
かすかな反応。
それだけで火がついたわけじゃないが、弘海は初手から畳みかける。
「先輩が学校に来てないって聞いたので、心配になって来ちゃいました。と言っても、朝から来たのはやむを得ずと言いますか、ほんとうは放課後に来るつもりだったんですけど、部長に喝を入れられてしまったので。ははは。それにしても学校を抜け出すのってけっこう罪悪感ありますよね。五百蔵さんが倒れたときもそうだったけど、やっぱり何度やっても慣れないなあ」
途中から完全に蛇足だった。やはりアドリブはダメだ。
「えっと、その。大丈夫ですか? 先輩」
「…………」
返答なし。
気配はあるので、きっと警戒されているだけだろう。それはそれでかまわない。このまま聞いてもらえばいい。けれどリアクションもなしに一方的に喋り続けるのを思うと、ちょっと不安だった。
「とくに返事はしなくていいので。聞こえているんだったら、なにか音を出せませんか?」
先輩がいるという確信も欲しいところだ。
まだ見ぬ部屋の主は、殊勝にもすぐ行動に移してくれたらしい。がさがさと物を漁るような音が聞こえ、のちに「ぁ……」となにかに気がついたような反応があったかと思えば、——ポクポク。と高めの打音が扉の向こうから響いた。
(な、なにこの音。木魚みたいな……)
予想外な種類の音にやや反応が遅れるも、「ありがとうございます」と弘海はひとまず言った。
「コホン。それで、ええと……なかに入ってもいいですか?」
良いなら一回、嫌なら二回音を出してほしい、と要求すると、……ポクポク、すぐさま音が聞こえた。
「わかりました。じゃあ、このままで聞いてください」
扉の前で正座し、姿勢を正す。
ごくり、と一度喉を鳴らした。
「今日は、その、この前のことを謝るつもりで来ました」
物音は、しなかった。
「気づいていなかったとはいえ、先輩の気持ちを軽視して傷つけてしまったこと、すごく反省してます。……おれ、ホントに鈍くて。保健室でのことも、先輩はきっと勇気を出して言ってくれたはずなのに、なんにも気が付かなくて。ふたりで聖地巡礼に行こうって誘われたときも、ただ流れに任せるだけで、なんでこんなに歩み寄ってくれるのか、考えもしませんでした」
情けないことこの上ない話だ。
経験不足の四文字ではフォローにもならないほど。
「……や、すみません。言い訳でした。鈍いとかじゃなくて、ただおれは、軽薄だったんだと思います」
受け身で。その場しのぎばかりで。てんで臆病者だった。
「諸々ひっくるめて、ぜんぶおれのせいです。おれが馬鹿でした。ほんとうにすみません」
扉の前で深々と頭を下げる。それはもう床に額がくっつきそうな勢いで。
それが誠意だと思ったけど、実際に冷たい床の感触を額で覚えてから、違うことに気がついた。なにせあっちに見えていないのだから、その時点で自己満足にしかならないのだ。
「……先輩?」
その証拠に、先輩からの返答はこれっぽっちもない。
——謝罪で解決することは、そう多くはない。
ついさっき昭子さんに言われた内容を反芻して、まったくその通りだと弘海は思った。思って、少し笑った。
顔を上げる。
「先輩。この前なんですけど、実は父さんとの間に少し進展があったんです。聞いてもらえますか?」
脈絡のない切り出し。それは果てしなく自分勝手な舵取り。
謝罪のために訪れておきながら、唐突に自分語りがしたいとの申し出なのだ、これを厚顔無恥と言わずしてなんと言うのか。いくら安藝先輩でも処置無しとあきれ切ってしまうだろう。ふざけるなと怒鳴られてもおかしくはない。
しかし果たして、しばしののち響いたのは、——ポク。というなんだか力の抜ける打音だった。
弘海はほっとしつつ、以前あった瑞彦との顛末を語り始めた。
瑞彦が突然学校へ直談判をしに訪れたこと、岩崎先生との息も詰まる舌戦(多少緊張の抜ける部分はあった)を繰り広げたこと、その結果なぜか妙な形で事が丸く収まったこと……。
「わけわかんないですよね。なんであれで解決するのか」
「……」
「今思えば、父さんと岩崎先生ってちょっと似てる気がしますよ。どこがどうってわけでもないですけど、なんか通じ合うところがある感じで。……結局おれなんか、なにが起こってなにが起こらなかったのか全然わからないまま、ずーっと蚊帳の外でした」
でも、と弘海は若干声を明るくして、
「一つだけ。わかったことがあるんです」
「……?」
それはなに、と先輩の声が聞こえてくるような沈黙だった。
弘海はわざとらしく肩をすくめた。
「おれと父さんの理解の間には、果てしなく大きな溝があるってことです」
くすり、とだれかが笑った声。
それは弘海だったかもしれないし先輩だったかもしれないし、そもそも気のせいだったのかもしれない。
「あの人は、びっくりするぐらいおれを過大評価してるみたいで。テニス部でおれが最弱だって言われても、微塵も信じようとはしませんでした。アニ研のみんなと仲が良いこともおれの手柄みたいに言うし、先輩との関係も、まあ見事に勘違いしてるらしくて」
最後に関しては、弘海も人のことは言えないのだが。
「でも、おれだってそうでした。父さんのこと、誤解してた。父さんは冷たい人間で、子供のことなんか気にもしてないんだって、そんなふうに考えてたから……あんなにおれのことを考えてくれてるだなんて、思いもしませんでした」
それどころか未だに親権を狙っており、隙あらば母さんを出し抜こうという魂胆なのだ。さらには子供のために短気を起こして暴走、と。これを冷たい人間とは言わないだろう。ただの親バカだ。
「なんにも知らなかったんですよ。ずっと一緒に暮らしてたのに。家族なのに。今の今まで、なんにも。さすがに馬鹿馬鹿しすぎて笑えますよね。ホントもう、どんな茶番だったんだって」
と、つい皮肉っぽい言い方になる。とくにアンニュイな空気にしたいわけじゃないのに、根暗な性格が口を回らせた。
失敗したかと思ったそのとき、扉の向こうから——ポクポク。と音が鳴った。
弘海ははっとして、やがて口元を緩めた。
「けど……それだって当然だと思うんです。だっておれも父さんも、ちゃんと話をしたことがなかったから」
「……」
「お互い気を遣ったり、察したり、身勝手に想像するより先に、さっさと話しておけばよかったんです。なんでもいいから。どうでもいいことでもいいから、話しておけば。今よりちょっとはマシだったかも」
「……」
「先輩はどう思いますか?」
あえて、イエスでもノーでも答えられない訊き方をしてみた。クローズドクエスチョンならいざ知らず、これでは木魚を叩こうが口笛を吹こうが用を成さない。瑞彦と弘海の間に足りなかったのも、きっとこれだ。
昭子さんの言ったとおり。どうすべきかはじぶんが知っている。
いつだってそうだ。
話をしないと、ハナシにならない。
「……先輩?」
かすかに衣擦れの音がした。続けて、しずしずとした足音。
足音は数秒の合間にすぐそこまで近づいてきた。
そして弘海の見上げる前で、ガチャリと音を立てて扉が開かれた。
「……お、おはようございます。先輩」
出てきたのはもちろん、安藝先輩だ。
慌てて着替えたのか、ニットの黒いワンピースに羽織った大判のストールは少々着崩れ、いつもエレガントな黒髪も珍しくほつれが目立つ。なにより両手の間でぬいぐるみのように抱かれた木魚がこちらに口を開けていて、弘海はぎょっとした。
傷心の女の子、にしては泣き腫らしたような痕もなく、安藝先輩は思ったよりすっきりとした顔つき。けれどいつもの微笑みはどこかに消えていて、その残滓だろうか、唇の両端がやや上がった形で結ばれている。その唇が動いた。
「少し、外を歩きたいわ」
断る理由なんてなかった。




