(19) 鈍感父子と微笑わない猫。
安藝先輩が戻ってきたことで、父子の会話は途中で終わることになった。
食事を済ませ蕎麦屋を出ると、瑞彦はまた車中で仕事をしに戻り、ふたりは最後の目的地へと向かう。
鮮やかな楼門を横目に、広い境内を今度は北側へいくらか進むと、やがて二階建ての公共施設らしき白い建物が現れた。
「ここが近江勧学館ね。すごいわ。アニメで見たままよ」
最後の目的地に到着するや、安藝先輩は声を弾ませる。
「ここで競技かるたの大事な一戦が行われるんでしたっけ」
「ええ。名人戦クイーン戦はもちろん、高校生の全国大会の舞台の一つでもあるわ」
楼門や拝殿周りとは打って変わり、なんとも現代的な外観の施設。競技かるたを愛する者にとっては神聖な場所らしいが、さっきまで荘厳な歴史の厚みに圧倒されてきた弘海としては「なんか、普通だ……」と思わざるを得ない。
「すごいわ。すごいわ」
感動している隣の先輩には口が裂けても言えない感想である。
さて、逸る足取りの先輩に続き入り口から施設内に入れば、さっそく窓口近くには大小様々なグッズが。神社関連かと思いきや、なんと『あさぼらけ』のグッズだ。絶賛放送中と書かれたポップとともに、クリアファイルやらキーホルダーやら、ファン垂涎のグッズが選り取り見取りといった具合。それに安藝先輩が目を輝かせていると、窓口に控えていたにっこりえびす顔のおばちゃんに捕まり、気づけばいくつかのグッズを購入していた。おばちゃん。恐るべし。
「小鳥遊くん。あれって原作者のサインじゃない? なにかメッセージが添えられているわ」
「そうですね」
「あっちには主人公のパネルがあるわ。大きいわね。等身大かしら? 小鳥遊くんはどう思う?」
「さあ、どうですかね」
「二階には……薫のパネルなのね。見て。ほかにもパネルがあるわ。ふふふ、なんだ、みんないるじゃない」
そして階段を上った二階には、見覚えのある大広間があった。
畳敷きのそこは今はだれもおらず、照明も点いていなくて、向かいの障子から昼下がりの陽光だけが淡く差し込んでいる。すぅ、と鼻を吸うと、ほのかに畳の匂いがして、ざわつく心を少し落ち着かせた。
「ここで、ふたりは戦ったのね」
先輩はしみじみ呟く。
アニメの世界では汗水飛び交う熱戦が繰り広げられたここも、今はどこか涼しげな静寂に包まれている。
やがてどちらからともなく足を踏み入れ、ふたりは大広間の中央で並んで正座した。
しばらくの、沈黙。
不思議なことにほかに音は聞こえなかった。
沈黙も、慣れれば心地がいい。じわじわと足は痺れるけれど、慣れない座り方を選んだじぶんが悪いからしょうがない。弘海は正座は苦手なのだ。
それに比べれば、安藝先輩の姿勢ははっとするほど美しい。綺麗に伸びた背筋から細い首元、膝上に置かれた両手は重なり、まぶたを閉じる表情まで清楚そのもの。まるで精巧な人形かと見まがうほど。バレないのをいいことに、ついじっと横目で盗み見てしまう弘海である。
「小鳥遊くん」
すると不意に名を呼ばれた。「ハ、ハイッ」おもわず声が裏返る。
「ひょっとして、さっきなにかあった?」
「え? な、なんで」
「さっきから、どうも上の空みたいだから。心ここに有らずというかね」
そんなふうに、見えたらしい。
「……そうですか」
完全に図星だった弘海は正座のまま小さく肩を落とす。
「すみません。おれ、さっきから水差してばっかりですよね」
「そんなことはないけれど……。でも元気がないのは気になるわね。お父様となにかあったのかしら?」
瑞彦が関係していることも見抜かれているらしい。つくづく鋭い。
弘海は頷くことはせず、手のひらで畳の表面を撫でた。つるつるとした感触がかえってくる。
「実は、ぜんぶ思い出したんです。中学の頃のこと」
「それは……」
良かったわね、と続けようとしたのか。
けれどなにかを察したのだろう、先輩はそこで言葉を止めた。弘海は構わず続ける。
「べつになんてことない話でした。父さんと母さんが離婚を決めて。そのあとおれをどっちが引き取るのかって話で、ふたりはずっと揉めてました。でもいつまで経ってもいっこうに決まらなくて…………しまいには、父さんが『好きなほうを選べ』って。おれに」
「それはまた、酷な話ね」
「あの人らしいです。ほんとに」
弘海は笑う。笑う余裕があることにまた笑えてきた。
「それでおれは、母さんを選んだんです。父さんじゃなくて、母さんを」
「……そう」
「そのときの父さんの顔は……言葉じゃ、どうも」
あの人のことだから、淡々と受け入れるものだと思っていた。どうせどこ吹く風といった表情で「そうか」と言うだけだろうと。
けれど実の息子に選ばれなかった父親は、あのときたしかにショックを受けていた。
「それからすぐに父さんは家を出ていきました。一人でなんにも告げずに」
先輩は下手なことは言わず、また「そう」と相槌を打ってくれた。
「おれのせいだと思いました。軽い気持ちで答えたことが父さんを傷つけて、家族を壊したんだって。母さんはおれのせいじゃないって言ってくれたけど、おれはずっと、あのときの父さんの顔が忘れられなくて」
「そう」
「だからきっと、ぜんぶなかったことにしたんです。中学のことも父親のことも、苦しい記憶は思い出さないようにして、そのうち、どこか遠くに」
嫌な記憶はすべて押し入れの一番奥にしまって、二度と手が届かないようにしたのだ。
「とんだ薄情者でした。おれは」
「嫌なことは、だれだって思い出したくないものよ」
「……? 先輩にも、あったりしますか?」
「ええ、もちろん。小学生の頃、親に反発して髪を赤く染めたことがあってね。お母様にこっぴどく叱られて、それでも子供のわたしが反抗するものだから、強制的に暗い部屋に一日中監禁されてしまったの。あれは今でもトラウマね。極力思い出したくないわ」
「それはホントに小学生のエピソードですか」
反抗期の不良話にしては十年早いような……。
「結局わたしの反抗期は三日ももたなかったわ」
「短かすぎる……」
って。そうじゃなくて。
「まあ、とにかく。……おれは父さんに酷いことをしたみたいです。しかもそのことをずっと忘れてた」
正座する安藝先輩は静かにまぶたを閉じたまま、後輩の話に耳を傾けている。
「今思い出せたのは、どうして? やっぱり、わたしが席を外している間になにか?」
「はい。……中学のときと、おなじことを言われました。一緒に暮らさないかって。もう一度父さんか母さんか選んでくれって」
「それは……」
ふと、先輩が目を開き、こちらを見た。
弘海は、もうお手上げと言わんばかりに笑って。
「ほんと。どうしたらいいんですかね」
「……」
安藝先輩はただじっと、後輩の少年を見つめていた。
(なんでこんなこと、先輩に話してんだろ)
関係もない他人の家族事情なんて、聞かされても困るだけだろうに。
考えれば考えるほど今のじぶんが馬鹿らしく思えて、弘海はそのうち自嘲げに笑った。
「いったん、出ましょうか」
「え? ああ、はい……」
**
来た道を戻るようにしばらく歩くと、目の前に鳥居が現れた。楼門のような豪華さではなく、清らかな威厳に満ちた鳥居だ。そして鳥居の下には石階段が続き、一本の参道が続いていた。
「こんな道があったんですね」
鳥居をくぐり、階段を下れば、空気は一変する。
風に揺れる木々の合間に整備された参道は、たとえるなら新緑のトンネルだ。神秘の自然はどこまでも澄み切って、ゆらゆらと木洩れ日がさざ波のように揺蕩い、穏やかな枝葉の騒めきがふたりを包み込む。
「本来はこの参道を通って参拝するのだけれど。わたしたちは境内の駐車場に直接車を停めたから」
森のなかをあてどなく彷徨うように、弘海は木々を見上げながら歩く。
ざく、ざく……と砂利を踏み歩く音がふたり分響いていた。
「なんか……落ち着きます。ベタですけど、心が洗われるような」
「神に嘘はつけないのよ」
「……え?」
「だから。ここではありのままでいなくてはいけないの」
安藝先輩は依然として微笑んでいる。
微笑んでいるだけで、それ以上はなにも言わない。
馬鹿な弘海でも、それだけで理解するには十分だった。
「もしかして……見透かされてますか?」
「さあ。わたしが知っているのは、小鳥遊くんがとても水臭い人であることだけよ」
つまり、お見通しだと。
弘海は苦笑する。
「隠してるわけじゃないです。ただ。話してもどうしようもないというか」
「わたしに、聞く権利はない?」
「……その言い方は困ります」
(どっちかっていうと、逆なんじゃないか)
じぶんはきっと、この人に話す義務がある。
弘海が立ち止まると、合わせて安藝先輩も立ち止まってくれた。
木洩れ日の奔流のなかで、ふたりは向き合う。
「おれは、もう二度と心から『好き』が言えないかもしれません」
ぽりぽりと頬を掻きながら、
「思い出しちゃったんです。なにかを好きだって、そう言うことは、それ以外を好きじゃないって言うことと一緒だって」
ずっと忘れていた。
あのとき、選ばれなかった父さんの顔が、今では鮮明に思い出せる。
いつも通り澄ました表情の奥底で、必死に押し殺した感情が行き場を失って渦巻いていた。
「すみません。極端ですよね。ほんと」
「あなたは、それでいいの?」
「よくないです。……でも今思えば、そもそもおれの根っこは、けっこう冷たい人間だと思うんですよ」
「そんなことはないわよ」
「いえ。あるんです」
弘海は首を横に振って「先輩には、黙ってたんですけど」と切り出す。
「アニ研の課題、実はおれだけ、まだなにも書けてないんです」
「……」
「笑えますよね。あんなに偉そうに喋っておいて、じぶんじゃ一文字も書けないなんて」
卑屈っぽい笑みがこぼれる。それにまた嫌気が差す。
「先輩、覚えてますか。前に雨のなか、ふたりで帰ったときのこと」
「……ええ。もちろん」
「あのとき、先輩はおれを褒めてくれました。最近のおれは積極的に話し合いに参加できてるって。でも、ほんとは違うんです。おれがやってたのは、ただわかったような口ぶりで、他人の好きな作品にケチをつけることだけだったんです。勝手な難癖ばかりつけて、話し合いに参加してる気になってただけなんです」
五百蔵さんは肯定してくれた。御船先生だって『嫌い』を語ることは悪いことではないと勧めてくれた。
「先輩。おれはさ。『嫌い』なら、流暢に語れるんだ」
でも安藝先輩にだけは、見せたくなかった。
あんなに『好き』であふれた安藝先輩に、こんなじぶんのことを知られたくはなかったのだ。
だからきっと、じぶんは先輩に小説のことを隠そうとしたのだろう。
「先輩の言う通り、おれと先輩じゃ、真逆です。ほんとなら、おれみたいなやつに、先輩たちと語る権利なんて——」
「ストップよ。小鳥遊くん」
「うぇ……?」
不意に、視界が真っ暗になった。
いつのまにか目の前に立っていた安藝先輩が腕を伸ばし、両の手のひらで弘海の目を覆っていたのだ。「えっと……? 先輩?」一瞬なにが起こったのかわからなかった弘海はただ為すがままになる。
「な、なぜ急に目を覆うのでしょうか」
「つい。なんとなくよ」
「は、はあ」
なにも見えない視界のなか、先輩の落ち着いた声だけが聞こえてきた。
「小鳥遊くん。差し出がましいようだけれど、今のあなたはちょっと考えすぎだと思うわ。わたしたちがやっていることなんて、傍から見れば、意外とくだらないものだったりするのよ」
「くっ、くだらないなんて。そんな」
「高尚なものなんてないということよ」
そわそわと落ち着かない弘海に対して、先輩の口調はとても穏やかだ。
「だから。権利がどうとか、そんな言葉を持ち出して、わざわざ一線を引く必要なんてないの」
「で、でも」
「でももへちまもないわ」
「……へっ、へちま?」
風が吹き、木々が騒めく。ぶるりと肌寒さに身が震える。
そんななか、先輩の手のひらだけが痛いほど温かった。
けれど手のひらはすんなりと、前触れもなく離れる。
「それでも苦しいなら……そうね。わたしがあなたの力になるわ」
「……先輩?」
「わたしと小鳥遊くんの関係だものね」
やっと開かれた視界に、そのときの安藝先輩の微笑みは眩しすぎた。
**
帰りの高速道路は眠らずに済んだ。
どうやらほんとうに体は回復したようだ。連日弘海の身にのしかかっていた倦怠感も綺麗さっぱりなくなり、なんだかいつもより頭も冴えているぐらい。
だからといって、せっかくの帰りの旅路を満喫できる気分でもなかった。なにせ考えるべきことが沢山ある。あるのに、なにから手を付ければいいかもわからないし、そもそもほんとうに考えるべきなのかも定かじゃない。いろんなものが中途半端で、曖昧で、お手上げである。
さらに言えば、車中の雰囲気もどこか気まずかった。運転手の瑞彦は言いたいことは言えたのだろう、なんだかすっきりした表情であとは息子の返事を待つだけだとでも言わんばかりに黙々と運転しているし、安藝先輩もあれからなんとなく考え込むような表情で、静かに窓外の景色を眺めている。ここで口を開く勇気なぞ弘海にあるわけがなかった。
そんなこんなで時は過ぎ、一行はいつもの街に戻ってきた。
行きの迎え時とおなじく、学校近くの駅のロータリーに停車する。
三人が車から出ると、外はすっかり暗くなっていて、夜の駅は静まり返っていた。
「こんな時間になってしまったが。ほんとうに、ご実家のほうまで送らないでよかったのかい?」
「はい。逆方面で、すでに祖母の車が待っているようなので」
「西口か。礼儀としては、ご挨拶をしに行くべきなのだろうが」
「とんでもございません」
今朝とおなじように、瑞彦と安藝先輩は妙にかしこまった態度で「またの機会に」と頭を下げ合う。
「改めまして。本日はほんとうに、ありがとうございました」
「そう何度も頭を下げる必要はない。今後も長い付き合いになるのだから、お互い過度な遠慮は今日で控えようじゃないか」
「そうですよ。先輩は遠慮しすぎです」
「ええ。そうね」
と微笑みつつも、安藝先輩はまた一度深々と頭を下げてから「……では」と踵をかえした。
しずしずと駅のほうへ去っていく先輩の後ろ姿を、ふたりは黙って見送る。
(さあ、今日は寝るまで気まずいぞー……)
と、笑って見送る裏で、頬を引き攣らせるのは弘海だった。内心じゃ、これから始まる父親とのふたりきりの帰り道とその後の家でのことを考え、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。なんなら先輩のこともちょっと引き止めたかったぐらいである。なさけないことこの上ない。
——と。
「あれ?」
遠くのほうで、すっかり影が小さくなった先輩が、そのときなぜか立ち止まった。
よもや弘海の心中が伝わったわけではあるまい。心のなかで首を振る弘海であったが……意に反し、安藝先輩はぐるりと百八十度身体をひるがえすと、なんと再びこちらへ戻ってくる。すたすた、と今度は見てわかるような急ぎ足で。
「すみません。一つよろしいでしょうか」
「……どうしたんだい? なにか忘れ物かな?」
「いえ。ただ僭越ながら、お父様に一言。申し上げたいことが」
安藝先輩の面に浮かぶは——あの『女優の微笑み』。
不意に、胸騒ぎがした。
「お父様は、小鳥遊くんの気持ちを、お聞きになったことはありますか?」
(え……?)
「また、藪から棒だね。気持ちというのは、具体的にはなにについてだい?」
「お父様や、お母様に対しての、彼の意志です」
「要望ということかい? だったら極力選択肢を提示して、都度知ろうと心掛けてはいるよ。基本は聞かなくとも察するのが家族の在り方だが、一度も話し合いがないのは不健康だろう」
「暮らす相手を選ばせるのも、その一環でしょうか?」
「……」
ちらり、と瑞彦から視線を寄越され、弘海は肩をびくつかせた。
身内間の話を明かしたのはじぶんだが、なんとなく軽率だと叱られたような気がして、弘海は目を合わすことができなかった。そのうち瑞彦は「安藝さんは信頼されているね」とだけ呟く。
「君の言う通りだ。親の身勝手に息子を巻き込むことはできないからね。選択権は与えられるべきだろう」
「それが、小鳥遊くんを傷つけているとしても?」
「……? 意味がわからないな。どうしてそうなるんだい?」
瑞彦は、ほんとうにわからないといった口調だった。
「どちらの親が好きか選べだなんて。酷な質問だとは思いませんか」
けれど安藝先輩の声は、あくまで冷静だった。
「分を弁えぬ差し出口かと存じますが……お父様、一度小鳥遊くんとちゃんとした話し合いをなさってください。小鳥遊くんの気持ちを、確かめてあげてください」
「確かめているつもりだよ。だからこそ、弘海くんの自由意志を尊重した話し合いを」
「一方的に選択肢を押し付けられるのを、自由とは呼べないかと」
「っ……」
ここに至り、瑞彦は初めて赤縁メガネ越しに目を見開いた。表情に起伏のないこの父親が、こうも明らかなリアクションを取るのは風香の前で以外あり得なかったことだ。それも分不相応な助言に怒ったわけでもなく、ただただ驚かされたように。
そうして、ややあって瑞彦は口を開こうとするも、横から人影が入ってきたことで中断を余儀なくされた。
「せ、先輩」
割って入ったのはもちろん、弘海だ。
突然の事態に動揺し、しばらく成り行きを眺めることしかできなかったが、これ以上は無視できなかった。
弘海は横合いから安藝先輩の手を取ると、慌ててその場から走り去った。手を繋いでいるのもお構いなしに。
駅内へ入り、やがて角を曲がったところで、立ち止まる。
「小鳥遊くん。ちょっと痛いわ」
「あっ、す、すみません。つい…………って、そうじゃなくて!」
「……?」
手を放して、弘海はなぜか不思議そうにしている先輩と向き合った。
「どうしてあんなこと言うんですか! それもあんな急に……!」
「ダメだったかしら……? むしろ、ここはわたしの出番だと思ったのだけれど」
「いやいやいや……!」
頬に手を当てておっとり小首を傾げる先輩に、弘海はもはや愕然としてしまう。
「言ったでしょう? あなたの力になると。約束は守る女よ。わたし」
「そ、それだけであんな直球勝負に出たと……⁉ いろいろ肝据わりすぎて怖いですよ……‼」
「まあ、たしかに少しお節介がすぎたかもしれないけれど……。なにもそこまで驚くことかしら?」
「驚きますよそりゃ! そもそも先輩がそこまでする必要性がどこにも……!」
「必要性? ……ふふふ、おかしなことを言うものね。そんなの当然じゃない」
弘海の訴えにも、安藝先輩は可笑しそうに微笑むだけ。
すると間隙を突くように、発車のベルが駅内に響き渡った。くぐもったアナウンスが同時に告げる。
気づけば、周囲の人の数も増えてきていた。急ぎ足の人々が次から次へと過ぎ去っていく。そんななか痴話喧嘩さながらに騒ぐ弘海たちはかなり目立つだろう。せっかちな足取りのサラリーマンも今、何事かとふたりを凝視しつつ横を通り過ぎていった。
先輩は言った。
「だって、わたしたち恋人同士でしょう?」
(え......?)
「こ、コイビト? ……だれと、だれがでしょうか?」
「わたしと、小鳥遊くんよ」
「え? いつ?」
「保健室で。契りを結び、ふたりは結ばれたのよ。ああ、今思い出してもドキドキと胸が高鳴るようだわ」
「保健室で、契りを……」
「空から天使が舞い降り、ふたりを劇的に祝福したのよ」
「マジかよ」
初耳なんだけど。
「……で、それはだれとだれの話ですか?」
「だから。わたしと小鳥遊くんの話よ」
「うぇ?」
「うぇ? ってあなた……」
「…………」
「……」
しん、と空気が静まり返った。
「すみません。マジで身に覚えがないです」
「……」
まるでふたりを置き去りに、世界が遠ざかっていくかのような、局所的な静寂だった。
永遠にも思えるそんな静寂のなか、弘海は呑気に顎に手を当てて、数日前のことを思い浮かべてみる。
「んん……保険室って、あれだよなぁ……最後の部活の。……いやたしかにあのときは先輩と話してはいたけど、そんな話は一度もなかったし……そもそもあれって部活の途中だったし。先輩が謎のプレゼンを始めてからはおれも聞いてるだけだったからそんな」
(……ん? あれ?)
「や、待て。いや……あのときの先輩の話って、まさかそういう……」
ついに思い至った弘海。
そのままゆっくりと、恐る恐る顔を上げて……。
「——え?」
そして、目撃してしまった。
顔を真っ赤に茹で上がらせた、少女の姿を。
安藝先輩は、まるで泣き出す寸前の子供のように顔を紅潮させ、大きく目を見開き、かすかに唇を震わせていた。
「せ、先輩? あの」
「ッ…………‼」
弘海が顔を覗き込むと、安藝先輩はびくっと動き、一歩後ずさり。
「…………んなさい……ッ」
ごめんなさい、と言ったのか。
うまく聞き取れないほど震えた声で絞り出すや、その場から脱兎のごとく駆け出す。
「ちょ、ちょっと!」
逃げるように、大きく足音を立てながら、安藝先輩は駆けていく。
そのまま先輩の姿は向こうのエスカレーターを駆け上がったところで見えなくなった。
取り残された弘海は呆然と、それを見送った。
伸ばした手を引っ込める暇もないまま、ただ棒立ちすることしかできなかった。
「だ、だれ……? 今の……」
呟くも、そこにはもう弘海以外だれもおらず。
漏れ出たなさけない呟きは、なんとも虚しい響きをともなって、やがて駅内の片隅に消えゆくのだった。