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アニメ研究会より愛をこめて。  作者: 伊草
3章 恋と創作編
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(18) あさぼらけ(二)


「パパなら出てったわよー」


 学校から帰ってくると、リビングにいた風香がなんでもないように言った。


「は?」


 学生鞄を肩から提げながら、今より背の低い弘海は立ち尽くす。

 それは中学の頃の記憶だった。ずっと忘れていた記憶の一つだった。


(ああ……これ夢か)


 夢のなかで夢だと気づくことを明晰夢(めいせきむ)というらしい。


 玄人ならしばしば夢の内容まで思い通りに変えられたりするそうだ。生憎と本日が初めての弘海にはそんな能力はないが。夢は夢のまま 、身体は当時の記憶をなぞって「買い物でもしに行ったの?」と言葉を紡いだ。


「そういうんじゃなくて。家を出てったってこと。もう帰ってきません」


「出てったって……いつ?」


「ついさっきよ。だから本日は晩御飯がありませーん。なんで、なんかてきとーに作っといてよ。あ。もちろんママのぶんもね。ママはひさしぶりにがっつりしたものが食べたいなあー。カツ丼とか。親子丼ならなお良き!」


 さっさと話を終わらせ、ソファーのうえで呑気に寝そべる母親。


 この人は——この人たちは、いつもそうだった。


 ぜんぶ勝手に決めて、弘海にはいつも事後報告。


 これに関して不満を口にしたことは一度もない。所詮いつものことだと今までも割り切ってこれた。


 ただなにも言わず父親が出て行ったことに関しては、ちょっと唖然としてしまった。

 事前に報告されても困るけれど。でもこんなにあっさり出て行くなんて。そんな。


「……そっか。わかったよ」


 言及はしない。これもいつものこと。


 そういえばこの前「新しい洗濯機を買ったのよ」と報告されたときも、こんな反応をかえした気がする。 それってつまりそういうことだ。なんてことはない。両親の別離も難なく飲み込んでしまって、今日から始まる母親との二人暮らしをあっさり受け入れていくはず。それが小鳥遊弘海という人間で。


(どうしたんだ......?)


 けれど、このときの弘海は思い詰めたように立ち尽くしていた。


「ちょっと。あんた」


「......なんだよ」


 見やれば、風香はソファーで寝転びスマホを操作している。だらけた母親の横顔は無表情で、けれどどこか神妙なものでもあった。これはいつものことではない。


「あんたが罪悪感を覚える必要はないんだからね」


(え……?)


「遅かれ早かれ、きっとこうなってたのよ。だからあんたに責任はない。わかった?」


「……」


 夢のなかの弘海は酷く顔をゆがめて、なにも返事をせずリビングを後にした。


(なんだよそれ? どういう意味だよ……?)


 断片的に蘇った記憶。

 けれどそれは不完全で前後の経緯が抜けていて。


 だからこのときの風香の言葉の意味は、現在の弘海にはわからなかった。


(ダメだ。なにも思い出せない)


 そうして朝露のように明晰夢は消え、意識はふたたび前後不覚の霧のなかへ。


 せっかく思い出した記憶も溶けゆき、次に覚醒したときにはもう、なにも覚えていなかった。






 **






「——きなさい。小鳥遊くん」


 目が覚めると、だれかに頭を撫でられていた。


 優しく髪をくように、細い指先が行ったり来たり……。そのうち耳の輪郭を指先がなぞりあげて、そわそわと妙に落ち着かない気持ちが一気にせり上がった頃、そんなふうに声が下りてきた。


「んぅ…………あれ? 先輩?」


「目が覚めたようね」


 微睡(まどろ)みのなかで目を開けると……なぜだろう、安藝先輩の顔が真上にある。


 さらに頭全体がなにか極上の柔らかさに包まれているようで、弘海はまだ理解が追いつかない。


「ここは……要するに、天国的な感じのどこかなのでしょうか?」


「なにが『要するに』なのかはわからないけれど。とりあえず車のなかよ。小鳥遊くんのお父様の」


 はあそうですか、と弘海は空返事。


 なんというか、まだ意識がぼーっとしている。かなり熟睡していたのか。完全に寝ぼけている。


 これはいけない、と弘海は寝ぼけ眼をごしごし擦り、また安藝先輩を見上げようとするも……、なにか大きなメロンのような影が視界を半分遮ってしまっていて、どうもよく見えなかった。


(なんだろ、これ?)


 ぼやけた視界で手を伸ばす。やがて五本の指で包むようにしてそれを押し上げると、その瞬間、頭を支えていた極上の枕がびくっと強張こわばり、硬直してしまった。はて。どういう仕組みだろう。


「つーかなにこれ。指が沈み込む、でも弾力もすごいし……」


「……なかなか大胆なのね。小鳥遊くん」


「うぇ?」


 気づけば弘海の手を制するように、先輩が自らの手を重ねていた。


「けれど、こういうのはまだ早いと思うの。そう焦らなくても、わたしは逃げたりしないわよ」


 そしてようやく意識が完全に覚醒する。


「……………………はッッッ⁉」


 直後、弘海の目に飛び込んできたのは、安藝先輩に膝枕をされながら、彼女の豊かな胸を鷲掴みにしてしまっているじぶんの片手だった。


 弘海は一気に飛び起きた。






「弘海くん。君は取り返しのつかないことをしたんだ。わかるね?」


 その後、とある駐車場にて弘海は父親からそれはそれは厳しいお叱りを受けた。


 現在は後部座席のうえで土下座する弘海と、外で腕を組んで立ち、開かれたドア越しに息子を見下ろす瑞彦。この図になってもう十分は経つだろうか。

 これでも実は小鳥遊家始まって以来の父子らしい説教で、この場面をあの母親が見たら驚くことだろう。その原因が息子のなんともマヌケな不祥事であることはあまりにも締まらなすぎるが。


「誠に申し訳ありませんでした……‼」


「お父様。わたしは気にしていませんから。どうかもうそのあたりで」


「なりません。愚息はまだ、じぶんがどれほど大きなことをしでかしたか、まったく自覚できていません」


 こんなときばかり厳格な父親だ。


 その後もまだ瑞彦の溜飲が下がることはなく。やがて駐車場の人影が増えてきて、これ以上騒ぐのは目立つと彼が判断するまで説教は続いた。


「もういい。弘海くん、君は安藝さんのために飲み物でも買ってきなさい」


「ハイただ今!」


「安藝さんもぜひ。僕は車に残って仕事をしているから、ごゆっくり楽しんできてください」


 やっとの思いで解放された弘海は、安藝先輩とともに駐車場を発った。


「すみません。ホントに。すみません……」


「いいえ。わたしも貴重な体験をさせてもらったわ。これがかの『ラッキースケベ』というものなのね。アニメでは定番だけれど、実際に起きると意外と冷静になってしまうものだわ。せっかくなら、もっと良いリアクションができれば良かったのだけれど」


 わたしもまだ未熟ね、と安藝先輩は謎すぎる後悔をしている。


 誤解とはいえ無遠慮に胸を揉まれたのだからもっと怒ってもいいと思うのだが。存外先輩は落ち着いている。これが大人の余裕というやつなのか。その(ふところ)の深さに弘海は尊敬の念を抱かずにはいられない。


「ところで小鳥遊くん。なんだか、朝までと違って顔色が良くなったわね」


「え? そうですか?」


「ええ。よく眠れたからかしらね? とてもスッキリした顔をしているわ」


「そういえば、やけに肩が軽いような……」


 肩だけじゃない。足にも腕にも違和感がなく、すっかり疲れが吹き飛んだように体全体が軽やかに動く。


「ふふふ、何日ぶりかしらね。こんなふうに元気な顔が見れるのは」


「おれもです。さっきはなんだか、ひさしぶりに安心して眠れた気がして」


(ほんと、なんでだろ?)


 近くにあの父親がいたのに。不思議なこともあるものだ。


「安心したわ。これで精いっぱい楽しめるわね。では早く行きましょうか」


「え? あ、はい」


 安藝先輩の足取りは軽く、弾むよう。そんなに喉が渇いていたのだろうか?


「というか、おれって……結局どのぐらい眠ってたんだろ」


「ざっと五時間ぐらいかしら」


(え?)


 すたっ、と軽やかに立ち止まったのは安藝先輩。


 気がつけば……なぜだろう、やけに周囲の人の数が多くなっていた。家族連れの一行、お年寄りの熟年夫婦、果ては写真を取り合う若者まで、まさに老若男女の人々が歩いていて、どこもみんな楽しそうに談笑している。


 そういえば駐車場から続く道はずっと綺麗に整備されていた。周りは緑豊かな木々が見守り、どこを向いても雄大な自然の風景が広がっている。この澄み切った空気と、どこかスピリチュアルな静けさ。どう考えても普通の土地ではないような……。


「そういえば言っていなかったわね。ここはもう滋賀よ」


「へっ?」


「あれを見て」」


 と、うながす先輩の視線の先を辿れば——、


 木々に覆われた石階段の向こう、真っ赤な建造物が目に飛び込んできた。

 遠く快晴の青空を背景に、鮮やかな朱色が映える二階建てのそれは、一門の豪華すぎる楼門ろうもん


 あれは、そうだ。

 たしかアニメで何度か見たはずの。


「この場所って、もしかして……」


「ええ。アニメ『あさぼらけ』の聖地、滋賀県は大津市の名所……近江神宮(おうみじんぐう)よ」


 やっぱり……。


「もう着いてたんですね……」


 なんということだ。

 まさか車中で呑気に眠っている間に、すでに目的地に到着していたなんて。


「がくっ……」


「あら? なぜそこで肩を落とすのかしら?」


「いえ、なんというか......とくに旅路が醍醐味だとか思ってるわけじゃないんですけど、ここまですんなり到着すると、それはそれでショックと言いますか......」


「複雑な心境なのね。小鳥遊くん」


 がっくり膝から(くずお)れる少年。


 そんな彼を慰めるように、安藝先輩はその肩に手を置いておいてやっていた。


「ではそのぶん、今から一緒に満喫しましょう。さあ。今すぐ行くわよ。さあ」


「あの、もしかして内心『めんどくさい奴だな』とか思ってませんか?」


 すたすたと後輩を置いて先を歩いていく先輩。返答はなかった。聞こえてないのだろう。きっと。そうに違いない。


「それにしても。ほんとうにアニメで見たままね。すごいわ」


「ですね。むしろ本物のほうが迫力がありますよ。……たしかこのあたりですよね? 主人公が立ってたの」


 逸る足取りそのまま、階段の下から朱塗りの楼門を仰ぐような位置にふたりは立つ。「ええ。そうね」安藝先輩もそれをじっと見上げながら、さらに遠くを望むように目を細めた。


「この一帯は、古くは飛鳥時代、当時の天皇である天智天皇が都を置き、かの有名な大化の改新を行った場所らしいわ」


「そうなんですか? よく知ってますね」


「興味があって調べたのよ。……それから千年以上が経ってから、創立された神社がここ近江神宮。祀られているのはもちろん天智天皇で、彼は『かるたの祖』と呼ばれる人物であったことから、ここは『かるたの聖地』とされているわ」


 バスガイドのような流暢(りゅうちょう)さで先輩は語る。ほんとうに楽しみしていたのだろうことがよく伝わる。


「クイーン戦も、ここの境内でやってるんでしたよね?」


「ええ。そしてそのクイーン戦の観戦のため、主人公の佳乃はおよそ十年ぶりにここを訪れるわ。それでも、長い年月が経っても鮮やかな美しさを失わないこの景色を仰ぎ見て『変わらない』と呟いた佳乃は、一体どんな気持ちだったのでしょうね」


 弘海もあのシーンは覚えている。

 あの頃と現在(いま)と。なにが変わりなにが変わっていないのか、言葉にせずとも視聴者に訴えかけるようなあのシーンは、とても印象的だ。


「わたしたちも十年くらい経ったら、感じ方も変わるのかしら」


「さすがに気が早くないですか、先輩……」


「ふふふ、それもそうね」


 ふたりは階段を上っていき、桜の神紋が掛けられた楼門を抜けた。


 すると今度は広々とした空間に出た。大きな屋根が落ち着いた色合いの立派な外拝殿を正面に、四方が緑に護られるかのような閉じた世界は、けれど涼しい解放感に満ちていて、ここにきてようやく弘海は目的地に到着した実感を得た。


「あれを見て。絵馬にかるたが描かれているわ」


「ホントですね。……あ。あれって日時計じゃないですか? たしか主人公が見てた」


 枯山水風の静謐とした境内を、ざくざくと砂利を踏み締め、ふたりは散策していく。


 その都度、カメラの使えない先輩の代わりに、弘海がスマホで写真を撮ることになった。


「先輩、そこに立ってください」


「な、なんだか申し訳ないわね」


 巨大な外拝殿を背景に、どこかそわそわした様子で立つ先輩へレンズを向ける。


 本日の安藝先輩はふわりと波打つ黒髪を後ろで巻き髪のポニーテールにした、普段の休日でも滅多にお目にかかれない優美な髪型をしていた。おかげでちらりと覗くうなじやら、晒された細い首元のラインやら、健全な青少年である弘海としてはただただ「来てよかった……」としみじみ思わざるを得ない。


 さらには服装もシックにまとめていて、持ち前のスタイルの良さを際立たせるようなグレー色のニットのセーターに、コットン素材っぽい黒のベルト付きジャンパースカートと、持っている片手バッグも含めて、全体的にかなり大人っぽい。となりを歩くじぶんが見劣りしすぎて悲しくなるぐらいだ。


「わたしなんかを撮っても、小鳥遊くんはつまらないでしょう?」


「まさか。先輩みたいな綺麗な人が相手だと、撮るほうも楽しいですよ」


 一緒に撮られるよりかマシだ。と内心を隠しつつ、冗談めかした弘海が気障(きざ)な台詞を口にすると、安藝先輩はそっぽを向き「そんなことないわ」とほんのり頬を赤く染める。初心な反応で、意外だ。こんな月並みな台詞、言われ慣れているだろうに。


(それはそうと。あの胸元はどうにかならないもんかな……)


 グレーのセーターはなぜか胸元が露出している。そこから先輩が居心地悪そうに腕を組んだ拍子に、それはそれは目に毒なモノが見えそうで、弘海は非常に落ち着かない。昼間とはいえ寒くないのか。女の子ってよくわからない。


「さて。参拝しましょうか」


 被写体のおかげか、我ながら良い一枚が撮れたところで、拝殿へ続く階段を上って行った。


 外観の荘厳さもさることながら、拝殿内はさらに深みがある。


 階段を上ったところにある賽銭箱の設けられた外拝殿、そして正面に待ち構える壮麗な内拝殿に分かれ、二つは両側の回廊によって繋がっている。俯瞰すればちょうどロの字に見えるかもしれない。本殿はこの先にあるらしいが、ここからじゃよく見えない。


「た、たしか二礼二拍手、でしたよね?」


「最後にもう一礼よ。なんだったら、一緒にしましょうか」


 お賽銭を(たてまつ)り、二度深々と頭を下げ、流れるように拍手をこなす安藝先輩。神前の所作はまるで巫女のように美しく淀みなく、ほんとに、どうしてそんなに慣れているのやら。とにかく弘海は一拍遅れつつ、なんともぎこちない動きでそれに倣う。


 パンパンと爽やかに鳴る拍手と、パスパスと調子外れな渇いた拍手が二つ、拝殿に響いた。


「小鳥遊くんは、なにを願ったのかしら?」


「……いや、おれはとくに」


 最後の一礼ののちに訊ねられる。

 すると弘海はつい、冷めた眼差しで正面を見据えた。


「神様とか、そもそも信じてないんで。形式には倣いますけど、こういうときはいつも、なにも考えないようにしてます」


「神前で元も子もない回答ね」


「あっ、す、すみません……‼」


(やってしまった)


 こんなところまで訪れて、なんて空気の読めない発言なのか。これじゃあ水を差すどころか、冷や水を浴びせかけたようなものじゃないか。


 焦って平謝りする弘海だったが、なぜだろう、対して安藝先輩はおかしそうに微笑んで「やっぱり。お父様が言っていた通りね」と言った。


「な、なぜそこであの人が出てくるんですか?」


「ふふふ、実は車のなかでね。わたしずっと小鳥遊くんのお父様と話をしていたのよ」


「え?」


 こちらも寝耳に水だった。

 車のなかということは弘海が眠っていた最中のことだろうか? だとしてもその間ずっと?


「わたしが小鳥遊くんのことで質問したら、お父様は喜んであなたの子供の頃のことを教えてくれたわ。むかしからアニメが大好きで、人懐っこくて、でも変なところで冷めてるところがあって、とくに神仏に関してはすごくドライだったって」


「そ、そう……ですか」


(父さんが)


 そんなふうに息子について話しているところなんて、一度たりとも見たことがないのだが。


「実はお父様も、あなたとおなじなのだそうよ。大晦日(おおみそか)は付き添いで参拝するけれど、形式に倣うだけで、ほんとうは神様なんかいないって幼少から思ってたのですって。だからなにも願わなかったのだとか」


「へ、へぇ……」


「そういう自分の冷めたところが遺伝したのかもしれないって、お父様は笑っていたわ」


 笑っていた?

 あの人が?


「良い父親ね。うらやましいわ」


 安藝先輩はそう言って口元を綻ばせる。


 けれど弘海と言えば、これっぽっちもピンと来ておらず……。


「それ。たぶん猫被ってたんだと思いますよ。あの人は、おれになんか無関心なはずですから」


「そうかしら? わたしにはそうは見えなかったけれど」


「そうですよ。絶対」


 大人としての振る舞いにはそつないところがある父親である。

 だからきっとそういうことなのだろう。


「ふふ、反抗期なのね。小鳥遊くん」


「断じて違いますから……ッ‼」





 **






 参拝を済ませたあとも、絵馬を買ったりおみくじを引いたり、ふたりは満喫した。


 さて、これにて旅の名目も終了かと思いきや、実は聖地巡礼はこれで終わったわけではない。ある意味ではメインとも言える聖地が、この境内にはまだ残っている。


 浮足立つ足取りそのまま、その場所へ直行しようとしたふたりだったが、再び楼門を抜けたところで、なぜか待ち構えたように立っていたのは瑞彦だった。


 何事かと弘海が訊ねるより先に、すらすらと答えた彼によると、


「すぐそこに蕎麦屋があるんだ。長旅で疲れただろうし、少し休憩にしよう」


 ——とのこと。


 そういえば朝から移動して今はもう昼間だ。足は動くけど、空腹は無視できない。


 というわけで一行は参拝者休憩所である蕎麦屋に入り、羽を休めることにした。


 境内にある古民家風の蕎麦屋は店内も落ち着いた風情に満ちている。アニメでは登場しなかったが、三つあるお座敷で訪れた客たちが正座し、静かに蕎麦をいただく様子はなんとも趣き深くて画になる。


 空いていたのはテーブル席のみだったため、弘海は安藝先輩と、瑞彦はその対面に座り、さっそく店主こだわりの逸品(いっぴん)だというお蕎麦を頼むことに。ちなみにお品書きを見た際は、


「えっ……な、なんか、高くない?」


「国内最高級と呼び声高いそば粉を使用しているらしい。またかなり人気の品で、売り切れ次第終了してしまうから、遠くから来るときは予約をしておくと確実だという話だ。支払いは僕が持つから安藝さんもご心配なく」


「よ、予約? まさか取ってたの?」


「下調べは欠かさないタイプなんだ」


 といったやり取りがあった。

 この人も、実は今日を楽しみにしていたのか。


「なっ、なにこれ? 蕎麦が真っ白なんだけど? ツルっツルっなんだけど⁉」


「この美しい透明感は容易に出せたものではない。紅いお椀も合わせてとても縁起の良い色合いだ」


「なんて上品なお蕎麦なのかしら。甘い香りに優しい味がして。こんなお蕎麦は初めて食べたわ」


 三者三様の反応ながら、人気の味に舌鼓(したつづみ)を打つ。


 意外にも最初に食べ終わったのは安藝先輩だった。まあ弘海は上等な蕎麦をつるつると名残惜しそうに食べていたし、瑞彦もしげしげと観察しながら注意深く味わっていたので道理だろう。それにしても蕎麦をすする音すらしなかったが。いつのまにやら完食していた安藝先輩は丁寧に箸を置くと「ご馳走様でした」と手を合わせ、化粧直しに席を立った。


「……」


「……」


 そうして残されたのは、会話のない父親と子供。


 響くのは、つるつると蕎麦をすする音だけ。


(結局どこに行ってもおなじなんだよなあ)


 こんなときでも、黙々と箸を進めるふたりの光景は、いつもの晩御飯の様子と一緒だった。


 弘海も普段からこうなので、さして沈黙に耐えかねたりもしないが。せっかくの旅行であっても変わらないこの味気なさには少なからず「これでいいんだろうか」という気持ちになった。なっただけだが。


「君たちは、仲が良いね」


「へ……?」


 そんな気持ちが通じたのか。どうなのか。


 唐突にそう口を開いた瑞彦に、弘海は虚を突かれて唖然とした。


「いや、違うな。どちらかと言えば良い仲というべきか。きっと年の差があるおかげだろう、親しきなかにも礼儀があって、その、なんというか、そうだ、節度のある関係のようで、安心した」


 なにか喉に引っかかるのか、「ンン」と瑞彦は咳払いを一つ。


「は、はあ」


 ……なんだろう、このぎこちなさは。


「そういえば参拝の前には手は洗うのが礼儀だと聞く。まあ手水舎は手前にあったから、洗っていないことはないと思うが。いや、そんなことを言うのなら、事前に銭湯にでも行って身を清めてからのほうがベストだったのか」


「えっと」


「すまない、益体のない話だった。というか、君たちは賽銭は持って行ったのだったか? ああいや、お金を持たせたのは僕だったか、いやしかしあれは飲み物代だったような、いやそんな話は——」


(な、なんだなんだ)


 一人で喋って、一人で完結して、まったくこちらの入る余地がない。


(これってもしかして……いや、まさか)


 そんな馬鹿な、と今しがた浮かんだ思考を振り払う弘海であったが、


「とにかく観光、いや聖地巡礼だったか。僕には経験がないが、想像するに、たしかに趣深い体験ではあるような」


 やっぱりそうだ、と思い至った。


(とっ……父さんが、話題提供をしようとしてる……⁉)


 雷に打たれたような衝撃が弘海を襲う。

 そのあまりの驚きに、持っていた箸先から蕎麦がこぼれ落ちた。


「しかし実際のところどうだろう。わざわざ車を出して遠路遥々(えんろはるばる)この地まで訪れた結果、君たちが意外と楽しめず拍子抜けしてしまったのならそれはとんだ無駄働き、ああいや無駄足……違う、骨折り損……でもなく」


 マイルドな語句が一つも浮かばず、瑞彦は「ううむ」と顎に手をやる。


(どんだけ口下手なんだこの人は)


 とはいえ、この人が気を遣って言葉に苦労しているだけで快挙に違いない。

 こんな珍しいことがあるなんて、明日は天変地異でも起きるんじゃないか。ほんとに一体どうしたというのだろう。


「たっ、楽しかったよ。すごく。安藝先輩だって喜んでたしさ」


「ふむ……朗報ではあるか。どちらにせよ計画通りに事が運んでいるのなら、こちらも一安心できる」


「ん? 計画?」


 またまた変な語句が出てきて弘海はついおうむ返しする。


 すると瑞彦はぴたりと動きを止め……、かと思えば、赤縁メガネのブリッジ部分をかちゃりと指で押した。


「なんというべきか。今回のことは、僕にとってもリベンジのようなものだったんだ」


(リベンジ?)


「なんだよ? もしかして前に一度来たことがあるのか? だったら言ってくれても」


 瑞彦は首を横に振る。


「今日のことじゃない。今回だ。弘海くんとの二人暮らしを始めてから今までの」


「今までの……?」


 弘海の頭のなかにはいくつもクエスチョンマークが浮かんでいた。


 まるで要領を得ていない息子を置いてけぼりに、しかし瑞彦はひとり勝手に喋り出す。


「風香から連絡が届いたとき、これは好機だと思った。やっとツキが回ってきたのだと。だからいろいろと策も講じた。君の負担にならぬよう毎日の夕餉(ゆうげ)は僕が担当し、好物がわからないときは訊くようにした。部活のことで困っていれば、できる範囲で根回しもしたし、今日だって無理を承知で足にもなった」


「あの、父さん」


「手応えは十分にあった。一か月もあれば、点数稼ぎとしては申し分ない。人付き合いにおいては風香の足元にも及ばない僕だが、今回はよくやった自負がある。そのあたりどうだろう? 弘海くんとしては」


(いやどうだろうって……)


「えっと、ごめん。おれ、父さんが言ってること。さっぱりなんだけど」


「要点が抜けていたか? すぐ飛躍しすぎるのは僕の悪癖なんだ。風香にもよく指摘された」


 そこで湯呑みを傾け、瑞彦は渇いた唇を湿らせると、「要するに」と間を置き、


「僕が君に言いたいことは、一つだけだ」


 神妙な表情で顔を上げる。じぶんとよく似た眼差しがこちらを見る。

 この人と目が合うのは、ほんとうにひさしぶりだった。


「今度こそ、僕と一緒に住む気はないか? 弘海くん」


「え?」


 まぬけに口を開けたまま、目を(しばたた)かせる弘海。


「僕か風香か。——今一度、君に選んでほしい」


(っっ……)


 どうしてだろう。

 今の言葉を、じぶんはどこかで——。






『——僕か風香か。好きなほうを選ぶといい」






(あ……)


 脳裏に蘇るは、いつかの問いかけ。

 ずっと忘れていた、あれは中学の頃の。


(そうだ)


 そうだった。

 こんなこと、なんで今まで忘れていたんだ。


 どうして、じぶんが風香と暮らすことになったのか。

 どうして、瑞彦が家を出て行くことになったのか。


(おれが選んだんだ)


 弘海はやっと、思い出したのだった。



 

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