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アニメ研究会より愛をこめて。  作者: 伊草
3章 恋と創作編
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(11) 冴えない彼の謝り方


 先の試合に続けて次の試合をこなし(もちろん弘海は敗北した)、その後少し生まれた休憩時間を使って、弘海は安藝先輩の姿を探して回った。


「あっ」


 そして辿り着いたのは施設近くにたたずむスーパー。


 その入り口である自動ドアから、買い物袋を両手に提げた安藝先輩が出てきたのを見つけて、弘海は急いで駆け寄った。


「やっと見つけた。……お、おつかれさまです。先輩」


「…………」


「ずっと先輩を探してて。五百蔵さんに訊いたら、買い出しに行ったって言ってたから。びっくりしましたよ。ほんとに。まさか安藝先輩をパシリに使うなんて。みんなもなに考えてんだか。ははは……」


「……」


 なんにも返事はせず。

 マネキンよろしく無反応な安藝先輩。


「お、おれが持ちますよ。そんな重そうなの、安藝先輩に持たせるわけにはいかないし。こういうのはおれみたいなやつの仕事ですから」


 と言って、弘海は買い物袋に手を伸ばす。が。


 ——ひょい。と。


 彼の手を拒むように、買い物袋が遠ざかった。


「え? あの……」


「まるで召使いね」


 そう言った安藝先輩の表情を目にし、弘海は一瞬で戦慄した。


 張り付いた仮面のように表情筋は微笑みのかたちを保ったままぴくりとも動かず、瑞々しい赤の唇は芸術家の一筆によって美しい弧を描く。冷たさと温かみを同時に内包する、そんな完璧な矛盾をはらんだ、安藝先輩持ち前の最強の武器にして盾。


 長らく弘海は見ていなかった、それは『女優の微笑み』だった。


(お、怒ってる……‼ 絶対に怒ってる……‼)


 冷や汗が滂沱ぼうだと流れる。

 ただでさえ試合で汗を掻いたのに。弘海のテニスウェアはもうびちょびちょだった。


「せ、先輩?」


 するり、と路傍ろぼうの石をまたぐかのように後輩少年の横を通り過ぎていく安藝先輩。弘海は無いもののような扱いだった。


「待ってくださいよ。ちょっと話を」


「お話なら五百蔵さんとすればいいじゃない。わたしは所詮、け者なのだし」


「な、なぜここで五百蔵さんが……? というか先輩が除け者って。そんなわけないじゃないですか」


「どうだか」


 並んで歩くのも嫌なのか、先輩はすたすたと風を切るような早歩き。「だ、だから待ってくださいって」弘海は慌ててそれに続く。


「小鳥遊くんはキャッチの才能があるわね」


「めちゃくちゃ遠回しに『ウザい』って言ってますよね? それ」


「失礼ね。そんな乱暴な言葉。せいぜい『鬱陶しい』ぐらいよ」


「それほとんどおんなじですから」


 ぴたり。と。


 そのとき、先輩が足を止めた。


「じゃあ、鬱陶しいわ。小鳥遊くん」


「いきなり直球ですね」


(『じゃあ』ってなんだ……)


「あなたもずいぶんとわかりやすくわたしを邪険に扱ってくれたもの。こちらも直接的なほうが対等というものでしょう」


「さっきのは、その……反省してます。すみませんでした。でも違うんです。ホントにあれは誤解で」


「では、本当はどういうつもりだったのかしら?」


 説明できる? と試すように訊かれ、「それは……」と弘海は言いよどむ。


 できるものならしたいけど、じぶんでもよくわからない気持ちがブレーキをかけてしまって、結局なんにも話せない。


 やがて安藝先輩は浅く息をつくと、


「……五百蔵さん。素敵な子だものね」


「え? な、なんですか急に」


「わかるわ。わたしもそう思うもの。小柄でかわいらしくて、愛想はないけど真っすぐでかっこよくて、愛想はないけど芯があって、愛想はないけど優しい一面もあって」


「そんなに愛想ないですか。五百蔵さんは」


「この前の話し合いでも、気が合ってたものね。あなたたち」


 ……話し合い?


「それって、この前アニ研でやった合評会のことですか?」


 首肯する代わりに、安藝先輩はふたたび歩き出した。


「ここ最近、小鳥遊くんは大きく成長したわ。話し合いにも進んで参加して、じぶんから意見も出して。なんだか、前よりずっと楽しそう」


「それは、まあ」


「これって。五百蔵さんが来たからでしょう?」


「ちっ……違いますよ。そうだけど。そうじゃないというか」


 言いたいことと言えないことの間を馬鹿みたいにさまよう。


(ああもう! なんなんだよこの気持ちは……!)


 制御不能の感情を持て余して弘海の頭はショート寸前だ。


 と。


 そのとき視界の先に庭球場の施設が見えた。

 高い柵の向こうは今も部員たちが戦う緑色のコート。そしてなにを思ったか、弘海は無理やり会話のかじを切った。


「きょ……今日は! そう! たしか猪熊部長と、おれの試合を見ようとしてくれてたんですよね!」


「さあ。記憶にないわね」


「ご、ごまかしてもダメです。そう言ってたって部長に聞いたんですから!」


 ネタは上がっているぞっ、と言わんばかりの勢いで迫る。

 冷静に考えれば、だからなんだという話なのだが。

 勢いというのは場合によっては武器になり得る。


「…………まあ、そんな話もしたかもしれないわ」


 ほんの少しの、かすかな動揺。

 しかし弘海はそこに活路を見た。


「じゃ、じゃあこうしませんか? 今日一度でもおれが、安藝先輩の見てる前で試合に勝ったら、話を聞いてくれるというのは?」


「また藪から棒ね……。どうしてそんな話になるのかしら? というか、そもそもそれって最初から小鳥遊くんに分の良い賭けじゃないの」


「いいえ! それが違うんです!」


 先輩はなにもわかっていません……、と、弘海がかぶりを振れば、安藝先輩は振りかえって「どういうこと……?」と綺麗な眉をひそめる。


「いいですか先輩? まず前提として、おそらくおれは今日のメンツで最弱の部員です」


「じぶんで言っていて恥ずかしくないの」


「恥ずかしくないです。事実なので」


 ここぞとばかりに開き直る少年。果てしなく不甲斐なかった。


「そんなおれが、今日一試合でも勝利を収めることができたなら。それはもう快挙ですよ」


「いっそ清々しいわね」


「その代わり。おれがボロ負けするところを山ほど見ることになるでしょう。おれは先輩に情けない姿を見せたくないので、これは正直めちゃくちゃキツいです。試練です」


「もうすでにけっこう情けないわよ」


「問題ありません。これ、先行投資なんで」


「意味合ってるの。それ」


 相変わらず表情を変えない安藝先輩だが、押せ押せモードな弘海の勢いには若干ながら押されているようではあった。おもわずといった具合に後ずさった右足がその証拠だ。意外と安藝先輩はこの手の無茶に弱いらしい。


「とにかくおれは本気です。そこんところどうですか?」


「なにが『どうですか』よ」


 話にならない、とばかりに安藝先輩はそっぽを向いて、施設の入り口へと入っていく。


 すかさず「ちょ、ちょっと先輩!」と弘海は後を追おうとするも。


「オマエはなにをしている?」


 突如大柄な人影が、彼の前にどしんと立ちふさがった。


「いっ、岩崎先生……!」


 まさしく岩のごとき巨影が、少年の身体を覆っていた。


 今日も今日とてジャージ姿の岩崎先生は、さながら門番のように腕を組んで入り口に仁王立ち。厳めしい顔つきで弘海をギロリと見下ろしていたのだ。


「お、おつかれさまです。え、ええっと、どうして先生が外に? あっ、なにかご入用のものがあったとか? だったらおれがひとっ走りして買ってきましょうか? なんて」


「オマエはなにをしている。と訊いているのだ」


「えっ? ええっと、その……マネージャーさんの、お手伝いに」


「なんの?」


「かっ、買い物袋を、持ってあげようかと……!」


「どこに持っている? 俺にはさっぱり見えんが」


「そっ、それはその……!」


(ヤバい。ヤバいヤバい……‼)


 巨漢の気迫は増すばかり。なんかついでに肉体まで徐々に膨れ上がっていっている気すらするのだが。これはさすがに錯覚だろうか。そうだと言ってほしい。


 弘海は咄嗟に(先輩助けて……!)と懇願の眼差しを入り口の先へ送ったが……、すでにそこに安藝先輩の姿はない。無情にも彼女は先に戻ってしまったらしい。死んだか。これは。


「もう一度訊くぞ。——オマエは今、なにをしている?」


 岩崎先生の目元は彫刻刀で掘ったかのように深く、その奥では烈火の怒りを宿した眼差しがごうごうと燃えたぎっている。「え、えっと……」委縮した弘海は視線を右へ左へ。泳がせに泳がせたあげく、返す言葉もなく俯いてしまった。


「ハッ」


 岩崎先生は短く嘆息。

 それはどこか、蔑みにも似た響きだった。


「やはり。安藝の入部を許可したのは間違いだったな」


「えっ?」


「ヤツが入部してからというもの。うちの部員どもはたるむばかりだ。鍛錬の最中すらだらしなく鼻の下を伸ばし、口を開けば低俗な言葉を並べ、どいつもこいつも見てられん。オマエのようにな」


「ちょ、ちょっと待ってください。それはべつに先輩のせいじゃ」


「ヤツが色目を使うからだろう。進級に際し、とうとう節操を失ったか。あれでは食傷しょくしょうして男漁りに来たと思われてもしかたあるまい」


「なっ……!」


 聞き捨てならないことを言われ、弘海はしばし言葉を失った。


「あっ、安藝先輩はそんな人じゃありません。訂正してください」


「それには及ばん。実際ヤツのせいで締まりのなくなった軟弱な輩が、こうして目の前にいるのだからな。そういう意味ではオマエも毒牙にかかったと言えるが」


「お、おれが軟弱なのは生まれつきです!」


「居直るか。つくづく呆れたものだ」


 じぶんのことはどんなに口汚く罵られてもかまわないが、あの人のことを悪く言われるのは我慢ならない。


「とっ、とにかく! 先輩は関係ありません!」


「フッ……いつもはへらへらと笑うだけのオマエが、こうも盾を突くとは。珍しいこともあるものだ。もしくはすでに篭絡済みか?」


「だから、それは違うってさっきから」


「信用ならん。オマエの言葉は軽薄にすぎる」


 チャラついた奴の声に説得力などないと、言外に告げられた気がした。


「これ以上は付き合うつもりはない」


 ある意味安藝先輩以上の頑固さだろう。

 岩崎先生は一切聞く耳を持たず、一方的に話を切り上げると踵を返し、場内のほうへ戻っていった。






「五百蔵さん。次の試合、どうしても勝たなくちゃいけなくなったよ」


「え? 無理でしょ」


 ——がくッ。


 と弘海が危うく転びそうになったは、テニスコートへ続く扉の前であった。


「……今のは『小鳥遊くん頑張って!』って背中を押すところだよ。五百蔵さん」


「知らないわよそんなの」


 決然とした顔つきから一瞬で萎えてしまった弘海を、バインダーに挟んだ試合記録表から顔を上げた五百蔵さんはあきれたように一瞥する。


「あたしは無責任なこと言うつもりはないの。それにあんただってさっき言ってたじゃん。じぶんが一番弱いって」


「そ、そうだけどさ……『一回でも勝ったところ見せたら話を聞いてもらう』って。もう安藝先輩に言っちゃったんだよ」


「悪いことは言わないから、今からでも先輩に頭下げて条件緩めてもらいなさいよ」


「できないよそんな格好悪いこと……」


 あれだけ威勢よく啖呵たんかを切ったのに。「やっぱさっきの無しで!」とか、いくらなんでもダサすぎる。


「そもそもあんた。どうやって安藝先輩連れてくるつもりなわけ?」


「それはまあ……五百蔵さんが、連れてきてくれるとか?」


「他人頼りかよ」


 絶対に嫌だし、と五百蔵さんは断固拒否の構え。


「とにかくもう後には引けないんだ。だから五百蔵さんもおれのこと応援してよ」


「えぇ~……」


(うわぁ。めんどくさそう……)


 どこまでも五百蔵さんは五百蔵さんなのだった。


「——あの」


 と、もたもたしている間に対戦相手がやってきたらしい。いきなり後ろから声をかけられた弘海は「うわっ!」とその場を飛び退く。


「すみません! 入り口ふさいじゃって!」


「ビビりすぎでしょ。あんた」


「いえ。その」


 小柄な身体に緑色のテニスウェアを着用し、一人ラケットを持って立っていた縁なし眼鏡の少年は、すぐにはコートに入らず読めない表情で弘海たちを見つめている。


「あれ? 三成じゃん」


「え?」


 ややあって気づいたのは五百蔵さんだった。


「どうも」


「みつなり? ってたしか……」


 戦国武将みたいな名前、そしてそれに不釣り合いなこの物静かさ。


毛利光成もうりみつなり。あんたも会ったでしょ。持田さん()で」


「あっ、そうだ。作家志望の」


 以前五百蔵さんの知り合いの集まりに弘海がなぜか参加することになった日に、顔を合わせたうちの一人だった。


「ご無沙汰です。お二方とも」


「う、うん。ひさしぶり、毛利くん。あのときは良くしてくれてありがとう」


「いえ。僕はなにも」


 このぼそぼそとした喋り方も記憶に新しい。


 相変わらずの無表情は毛利くんの標準装備。その上多くを語らないスタイルには、弘海もしばしば調子を狂わされるが、なんら心配ない、彼は基本的に良い人だった。


「三成ってテニス部だったのね。知らなかった」


「知り合いが入ってる部活ぐらい覚えとこうよ。五百蔵さん」


「だって興味ないし」


「……薄情だなあ」


 ごめんね毛利くん、とドライな彼女の代わりに弘海が謝ると、毛利くんは「べつに」と微塵も気にしていない表情で言った。


「あれ? というか……おれの次の対戦相手って、もしかして毛利くんなの?」


「どうやら」


 と、小さく頷く毛利くん。


 弘海は、ごくり、と唾を飲み込んだ。


「つ、つかぬことをお聞きしますが。毛利くんって部では何番手くらいなの?」


「現在は下から三番目程度かと」


「…………」


「……」


 無言で見つめ合うこと——数秒。


 やがて前のめりになっていた姿勢を戻し、落ち着いて「……ふぅ」と深呼吸を一つ。おもむろに後ろを振り向くと、弘海は決然とした表情で口を開いた。


「行ってくるよ。五百蔵さん」


「……あんたね」


 勇ましい足取りでコートへ入っていく男の後ろ姿を、五百蔵さんは呆れ果てた顔つきで見送ったのだった。






 **






「ゲームセット。ウォンバイ。毛利。6—3」


「「ありがとうございました」」






「——で。ふつーに負けんのね」


「やめて。なにも言わないで……‼」


 試合終了ともにコートから出てきた弘海は、その場でぐらりと崩れ落ちるようにして地に膝を着いた。


「見ないでくれ! こんなおれを……!」


「どーせ、この試合がチャンスだとか思ってたんでしょ? あいつ見るからに弱そうだし。気持ちはわからなくもないけどさ」


「いや……! ホントに途中までは良い勝負だったんだよ。ホントのホントに……!」


「まあ、調子に乗ってたぶん身体は動いてたわね。前半だけだけど」


「うっ……‼」


「決め球ぜんぶ拾われて、途中から明らかに焦ってたし」


「んぐ……‼」


 実際チャンスボールは何度もあったのだ。もちろん、そのたび弘海は渾身の一打を決めに行った。……のだが、これをなぜか綺麗に拾うのが毛利くんだった。

 そうして打っては拾われ、打っては拾われを繰り返すうち、いつのまにか弘海の体力が底を尽きてしまっていた。


「で。ムキになって後半はミス連発で自滅、と」


「くそ。毛利くんめ……! あんなに運動できるなら最初に言っといてくれよ……!」


「どんどんみじめになってくわね。あんた」


 では、の一言を残して颯爽とコートを去っていったかの少年の背中が、弘海はうらめしかった。名実ともに完全なる敗北。舐めてかかったぶん恥ずかしさもひとしおだ。穴があったら入りたい。


「でもまあいいんじゃないの? 結局安藝先輩は一度も見に来てないし。みっともないところ見られなくてむしろ良かったじゃん」


「励ましてるのか追い打ちかけてるのか、どっちなんだ」


「どっちでもないけど?」


 なんてことだ。


「うーっす。小鳥遊も今終わったところかー?」


「あっ……や、山吹くん」


 ラケットを脇に挟んだ状態で背の高い青年が歩いてきた。

 一瞬、違和感があったのは、彼が珍しく裸眼だからだった。胸の前でスポーツメガネのレンズを専用のクロスで拭きつつ、いつもの気のいい笑みを弘海に向けてくる。


「終わったよ。負けたけど……そっちは?」


「俺もギリギリで負けた。マジであとちょっとだったんだけどなー」


 と悔しげに言いつつも、どこか表情はさっぱりとしている。

 それは元々彼が気負わない性格であることはもちろん、単純に相手が強いという要因が大きいだろう。うちの部の一年組で最も上手い山吹くんの対戦相手は、おのずと強敵ばかりになるのだ。


「でも聞いてくれよ小鳥遊。俺さっき安藝先輩に『良い試合だったわ』って褒められちゃった。ヤバくね?」


「は、ははは……」


 どうやら彼女はほかの試合を見ていたらしい。


「五百蔵さんは? 小鳥遊の試合ばっか見てんの?」


「……まあ。あたしまだわからないところ多いし」


「え? それってどういう……?」


「あんたの試合ってシンプルだしすぐ終わるでしょ? 記録係的にはありがたいのよ」


 大体ボロ負けだからわかりやすいということだった。


「そんな理由だったんですね」


 悲しき真実だった。弘海はがくっと肩を落とす。


 そんなふたりのやり取りを、山吹くんは涼やかな目元で眺めていた。


「なあ、五百蔵さん。あとで俺の試合も見に来ない?」


「は?」


 突然の申し出だった。

 五百蔵さんは「なんで?」と眉根を寄せる。


「そーしたら。なんか勝てそうだし」


「なによそれ」


 なに言ってんだコイツ、とばかりに五百蔵さんは口をへの字に曲げた。


 それでも山吹くんはじっと彼女から目を離さずにいて。


(…………なんか)


 ふたりの間を漂う妙な空気に、弘海はそのとき言葉にならない予感のようなものを覚えた。


「おーい。柳之介! 先生が呼んでんぞー!」


「ブッキー! 早く早く!」


 と、向こうから聞こえたのは淡島くんたちの声。


「おう。今行く」


 気づけば、淡島くんは飄々とした表情に戻っていた。「そんじゃ。考えといて!」と最後に残して、ふたりの前から風のごとく立ち去っていく。


「……アイツ。名前なんだっけ?」


「だから、山吹柳之介くんだって。まだ覚えてなかったの?」


「人の名前覚えるの苦手なのよ。……でも、変なヤツってことだけは覚えたわ」


 相変わらず記憶中枢が特定のときしか働かない人である。関心のないものにはとことん興味もないのか。しかし今日はどうやら少しだけそれが更新されたようだ。


「ねぇ、五百蔵さん。そういえば聞いてなかったけど。なんでテニス部に入部したの?」


 今更すぎる話だが。

 なんとなく訊くタイミングを逃していた。


 彼女のことだから、適当な理由で入部を決めたわけではないだろう。一体その目的はなんなのか。ふと思い至って弘海は訊ねたのだが、その返答は予想外なものだった。


「なによ? あんたアイツから聞いてないの?」


「え? アイツって……もしかして山吹くん?」


「トーゼンでしょ」


 パチパチ、とおもわず瞬きを繰り返す弘海。


 事情を聞かされていないのはもちろんのこと。思わぬ人物の名前が出てきたことに驚きを隠せない。「な、なんで?」かろうじて残っていた自制心で質問を重ねる。


「あんたが謝れって言ったんじゃん」


「えっ?」


 すると五百蔵さんは耳を赤くしてそっぽを向いた。


「前の昼休み。あたしがアイツに酷いこと言ったこと。直接謝らないと口も利いてくれないって言われたから……。あの後ちゃんと謝りに行ったのよ。そうしたらアイツが『じゃあテニス部に入ってくれたら許す』って」


「…………」


 なんというか。

 開いた口が塞がらない。


「そんなこと、山吹くんから一度も聞いてないんだけど……」


「じゃあ今知れて良かったじゃない」


 それじゃあたし先生のところ行くから、と五百蔵さんはお構いなしに言って、石のように硬直する弘海には目もくれず、あっさりその横を歩き去っていった。



 

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