(4) 荒野を目指す
そして一週間と少しが経った頃。
昼休みの食堂にて。お盆に用意された定食を摘まむかたわら、テーブルに広げた歴史の教科書を難しい顔つきで読み込んでいる少年が一人。
もちろん弘海だ。早めに席を確保したせいか、ほかの同席者もいない。
ぼっち飯、というのも思えばひさしぶりのことである。ここ最近は優しい先輩女子のお手製弁当で日々舌を痺れさせていた……否、舌鼓を打っていたのだから。そこには一抹の寂しさもあったけれど、今の弘海にはそんなことよりも鬼気迫る焦りが勝っていた。
さながら受験直前に追い込みをかける塾講生の顔つきで手元をにらむ少年。
だからゆっくりと近づくその足音にも気がつかなかった。
「あきれた。こんなところでなにやってんだか」
「い、五百蔵さん」
弘海が顔を上げると、定食の乗ったお盆を持つ五百蔵悠の姿があった。
「ここはそんな切羽詰まった顔で教科書にらむ場所じゃないわよ。勉強なら教室でやりなさい」
開口一番飛び出した正論。「あはは……」ぐうの音も出ない少年。
今日初めて交わす会話がコレなのだから、つくづく五百蔵悠という少女には容赦がない。弘海はパタリと教科書を閉じると、おはようの挨拶も交わさぬうちから臨戦態勢の彼女のために、お盆をテーブルの端に寄せてスペースを空けてやった。
「わかってるんだけど。どうしても焦っちゃってさぁ」
「期末テストはもう来週。それまでに準備してないやつが悪い。以上」
「辛辣すぎる」
ふん、と鼻を鳴らして五百蔵さんはたった今空いたスペースにお盆を置き、対面の席に座った。不機嫌そうな顔をしておいて一緒のテーブルには着くのだから、わからない人だ。
「珍しいじゃない。あんたが食堂なんて」
「ああ、うん。今日はちょっと事情があってさ」
「ふうん」
(安藝先輩に、だけど)
最近はずっと部室で昼休みを過ごしていた弘海だが、期末テストを目前に控え、肝心の安藝先輩に余裕がなくなった。当然と言えば当然だ。弘海とは違い、来年は三年生で受験も視野に入る先輩なのだから。試験には本腰を入れなければならない。
「五百蔵さんは勉強とかも、そつなくこなしそうだな」
「試験前になって焦るような見苦しい真似はしない。とくに数学は抜け目なしよ」
「へぇ……作家志望なんだから、むしろ苦手なほうなのかと思ってたけど」
「浅学ね」
と一蹴して五百蔵さんは味噌汁を静かにひとすすり。
「物語は構造把握よ。作家はむしろ数学的思考がないとダメ。読解力とか語彙力とかは、本読んでれば勝手に身につくものよ」
「へー。難しいんだな」
なんとも呑気な相槌をする弘海だったが、そのとき少女の目がキラリと光った。
「言っとくけど、あんたにも無関係な話じゃないわよ」
「ん? そりゃまあ、テストの内容はみんなおんなじなんだし」
「違う。そうじゃないわよ」
んん? となおもぼんやり首を傾げる少年に、五百蔵さんは相変わらず不機嫌そうに鼻を鳴らして、
「今日は放課後、全員で集まるでしょ」
「え? そうなの? おれ聞いてないけど」
「今言ったわ。で、そんときあたし、ひとつ提案するつもりだから」
「提案って」
「あとでわかるわ」
と言ったきり、黙々と食事を再開する五百蔵さんだった。
**
放課後はすぐにやってきた。
テスト週間につき、部活はしばらく全停止だ。帰りのホームルームが終われば生徒たちはだいたい即帰路につくか、教室に残って自習に励むかのどちらか。職員室までわからない問題を訊きに行く生徒も少なくない。
しかしかの文芸部、あらためアニメ研究会一同はと言えば、今日ばかりは部室に集められていた。
「一週間ぶりね。こうしてみんなで集まるのは」
のほほんと微笑んだのは少々遅れてやってきた安藝先輩である。
一学年上の先輩ということで、部活がなければ後輩たちとの関わりもないため、ひさしぶりにみんなの顔が見れて嬉しいようだ。一週間ぶりに会っただけでこんなに喜んでくれるのなら、弘海はいつでも呼び出しに応じる所存ではあるが。
しかし今回号令をかけたのは、ほかでもない後輩の五百蔵悠だ。
一人立っていた彼女は部員たちが全員テーブルに着いたのを認めるや、まずぺこりと頭を下げた。
「本日は急な招集にもかかわらず、集まっていただきありがとうございます」
「マジで急だったんですけどー」
金髪の毛先をいじりながら、さっき来たばかりの茜谷さんがぼやく。
ちなみにさっき来たばかりとは、入室の意味ではなくもちろん登校の意味である。今日も今日とて放課後登校の茜谷さん。実を言うと、そろそろ本格的に進級できないんじゃないかと、そんな話題で最近のクラスは持ち切りである。一説に寄ればもう二学期すら越えることができるか怪しいとかなんとか。
そんなまさしく瀬戸際に立っている茜谷さんは「つーか、あんた最近うちらの扱いザツくなーい?」と、来年は先輩になるかもしれない相手に嚙みつく。しかし五百蔵さんは「ふん」と鼻を鳴らして、なんなく受け流した。
「そう言われるのは心外ね。方針に異を唱えたのも、急に呼び出すのも、むしろ新入部員として積極的に取り組んでいる証拠だと思ってほしいくらいよ」
「新入部員としては活きが良すぎるけどな。五百蔵さん」
「むしろやっていることは部長のそれですね」
と、すでに部長として立つ瀬がない猪熊部長も若干あきれ気味か。
それでも諸々思うところはありつつも律儀に話を聞く姿勢を取っているあたり、みんなが五百蔵悠の厚かましさに慣れつつあるということなのだろう。この一ヶ月ほどの期間で、彼女はしっかり部員の信頼を勝ち得ていた。
「ご迷惑をおかけしている自覚はあります。すみません。……でも、悪い迷惑はかけていないつもりなので。わたしの提案が間違っているなら、遠慮なく言ってください」
「大丈夫よ。悠ちゃんのことは信頼しているわ」
「……ありがとうございます」
先輩の励ましに五百蔵さんは頬を朱色に染める。
「でー? その提案ってなんなのよー?」
「ええ。それなんだけど」
気を取り直すように五百蔵さんはコホンと咳払いを一つ。やがて表情を引き締めると、席に着いているみんなの顔を一人ずつ見回してから口を開いた。
「そろそろ、みんなで書いてみませんか」
「なにを、ですか?」
「小説です」
あまりにも、はっきりとした声だった。
「「小説……」」
同時に反芻したのは、弘海と、安藝先輩だった。
猪熊部長に関しては動揺もない。どこかで予想していたのか、いつも通り真剣な表情をしている。対して茜谷さんは「……ハ? ナンデ?」と人一倍困惑していた。
「この一ヶ月間で、あたしたちはより踏み込んだ話し合いをやってこれたと思っています。今まで通りの、ただ美点を取り上げて語り合うのではなく、忌憚のない意見を出し合って、いっそう作品への理解を深めるための、新しい試みでした」
「たしかに新鮮な合評会でしたね。わたしは楽しかったです」
「はい。なのでそろそろ、次に進むべきかと」
「……それで、小説なの?」
五百蔵さんは「はい」と頷く。
「話し合うのは有意義だけど、それだけじゃ限界があるから。なにより今まで積み上げてきたものを活かすには、じぶんたちでつくってみるのが一番です」
「今まで積み上げてきたもの、ね」
すると安藝先輩は憂いを帯びた顔でうつむいた。
「なさけない話だけれど、わたしはまだ今の話し合いにはついていけていないわ。『嫌い』がなんなのかも、まだよくわかっていない。だというのに、こんな体たらくで作品なんてつくっていいのかしら」
珍しく弱気な安藝先輩だった。これには友人である猪熊部長も「……朱鷺子ちゃん」と、やや悲痛な面持ちになっていたが、
「いいに決まってるでしょ。馬鹿なの?」
「ば…………」
「創作なんてそんな高尚なもんじゃないから。もっと地味で低俗で、恥ずかしくて、馬鹿馬鹿しいもんだから。ぜんぶわかってて創作してるやつなんていない。先輩は夢見すぎ」
「ご、ごめんなさい」
ふてぶてしすぎる後輩に、さしもの安藝先輩も呆気に取られていた。「馬鹿ってひさしぶりに言われたわ」と内心の呟きもつい漏れ出ている。
「でもあたし本とか書けないしー。つーかなんでショーセツ? うちらアニ研でしょ?」
「そんなの一番手っ取り早いからよ」
五百蔵さんの口舌は淀みない。
「そもそもあたしたちにアニメなんてつくれないでしょ。漫画もビジュアルノベルもハードルが高い。だったらやれるのは一つだけ」
「消去法じゃーん」
「手軽なのは事実ね。……でもあんた、そうやって舐めてると痛い目見るわよ? 小説はだれでも書けるからこそ難しい。奥深くて高貴なものよ」
「さっきと言ってることが真逆ですね」
部長が苦笑いしていた。
「心配しなくても、あなたたちがアニメを見て培ったものは、ちゃんと文字にも活きるわ。間違いなくね」
「断言するのね」
安藝先輩はどこか可笑しそうに微笑んで「頼もしいわ」と言った。
「あたしも、初めから長編を書けなんて言う気はありません。ボリュームは各々の裁量に任せますけど、現実的に考えて短編を仕上げるのが関の山だと思います。余裕がないならもっと短くてもかまいません。ただ、かならず最後まで書いてください」
(かならず、最後まで……)
「最後にテーマを決めて、今日は終わりです」
「テーマとは、作品のテーマですか?」
「はい。そのほうが格段に書きやすいので」
どうやら全員がおなじテーマに沿った作品を書くらしい。
「といっても今から全員で話し合って決めるのは非効率なので、一応あたしが考えてきたものを仮のテーマにするつもりです。異論は認めますが、そのときは代案を出してください」
と、ちゃっかりにらみを利かせつつ、五百蔵さんは仮定のテーマを発表した。
「テーマは、『家族』です」
(……か、ぞく)
——ピトッ、と。
耳の奥のほうで、水が跳ねる音がした。
まるでその二文字の単語が、心の水面に滴り落ちたような。その拍子に水滴が跳ねて、ゆらゆらと水面に波紋が広がっていくような。そんな感覚が、たしかにあった。
「小鳥遊くん。どうかしたかしら?」
「あ」
気遣うように名を呼ばれ、弘海はハッと我に帰った。気づくと安藝先輩がこちらの顔を覗き込むようにして見つめている。
「す、すみません。なんでもないです」
「やけにぼーっとしてたけど……あんた、ちゃんと話聞いてた?」
「聞いてたよ。大丈夫」
慌てて取り繕いつつ「いいと思う。そのテーマで」と賛同しておく。
「五百蔵さんのことだから、もっと凄いテーマなのかと思っただけだよ」
「なによ。凄いテーマって」
「つーか子供っぽいし。あんたって意外とガキ?」
「は、はあ? どこがよ!」
「いいじゃない。とっても素敵よ」
「わたしもそう思います」
ほかの部員たちも、おおむね賛同の様子だった。茜谷さんにしても五百蔵さん相手に意地悪するのを楽しんでいただけでとくに異論はなさそうである。
「はぁ……じゃあテーマは決まりで。いちおう直近はテスト期間だから、執筆に取り掛かるのは再来週から。まあ余裕があるなら、もう書き始めても問題ありませんが」
「は? テストってなに? いつからよ?」
「馬鹿は書かなくてもいいけど」
「は?」
というわけで解散となった。
「……小説……小説かぁ」
下駄箱で靴を履き替えながら、弘海はしきりに呟いていた。
部室からここへ来るまで、その単語を口にするのは何度目だったか。無意識に呟いては、そのたびぞわぞわと落ち着かない気持ちになって、また呟く。そんな咀嚼を彼は道中繰り返していた。
「なによ。さっきからぶつぶつと」
これにはおなじく靴を履き替えていた五百蔵さんも苦言を呈す。もしここに茜谷さんがいてもきっとおなじ反応だっただろうけれど、生憎と今は部室に残っており、優しい優しい先輩方から勉強を教えてもらっている最中だ。
「そんな慣れないもんでもないでしょ? あんた母親が小説家なんだから」
「そりゃまあ……」
そうだけどさ。
「でも、じぶんが書くほうになるなんて思いもしなかったというか。……やっぱ変な感じだよ。想像つかない」
創作なんて言葉は、弘海からすれば遥か遠くのもののはずで、いざ当事者になれと言われても実感なんて湧かない。
「そりゃやったことないことやるんだから、想像なんてみんなつかないでしょ」
「ううん……」
「さっきも言ったけど、創作なんてそんな高尚なもんじゃないから」
いつも履いているお気に入りのスニーカーを履き終えると、五百蔵さんはスタスタと昇降口を出て行く。弘海もその後を追う。
「それに小鳥遊くんなら大丈夫よ。あたしが保証する」
「なんで?」
「この一ヶ月、あんたは話し合いに一番参加してたでしょ。着眼点も鋭いし、代案もちゃんと出してたし、間違ったことは言ってない。そういう人は、大体書ける人よ」
「そう、なのか?」
珍しく面と向かって褒められ、弘海は気恥ずかしさに頬を掻く。
「どちらかというと、安藝先輩のほうがダメかもね」
「……」
しかしこちらの発言には言葉を詰まらせた。
(……安藝先輩)
たしかに安藝先輩は、この一ヶ月間うまく批評に参加できていなかった。もちろん努力はしているけれど、苦戦を強いられていたのは否めない。これを五百蔵さんの論に照らし合わせるならば……そういうことには、なるんだろう。
「ま、あれよ。書こうとするだけでも良い経験だし、気持ちは無駄にはなんないから」
「なんで書く前からフォローしてるんだよ……。先輩が可哀想だろ」
「とにかくあの人のことは気にしないで。あんたは伸び伸び書けばいいのよ」
去る者追わずといった具合にどこまでもサバサバとした態度の五百蔵さんの後ろ姿を、弘海はなんともあきれた表情で見つめたのだった。
それは帰り際のささやかな。
期末試験直前の静寂に満ちる校舎であった、ふたりしか知らないやり取りだった。
一人は先輩部員をやや見限りつつ、もう一人も彼女の今後を憂いた。
……しかし。
今回に限っては、彼らの見識は浅かったと言わざるを得なかった。