(3) 雨空のまにまに
とまあ。
諸々の事情によって、この一ヶ月で弘海の日常の景色は変化していた。
がらりとまではいかないまでも、ゆっくりとグラデーション的に日々の色合いが変わっていく感覚がある。果たして鮮やかに色づいていくのか、はたまた淡く色あせていくのか。先のことは本人もわからないが、漠然となにかが先に進んでいる気がするのはたしかだ。
もちろんそれはアニ研にも言えることで。
変わり映えのしない活動に明らかな変化が訪れていた。
それは——。
「そもそもあそこの告白シーンって必要なくない? 土壇場でああいう展開を差し込んで話に起伏を出そうって狙いはわかるけど、なにもあの瞬間でなくてもいいでしょ。台詞も『好き』だとか『愛してる』とかストレートすぎて逆に興ざめだし。今までさんざん決定的なことは言わないで、そういう深みを醍醐味にしてきたのにこれじゃ台無しよ」
(よく一息で言えるなあ)
流暢に捲し立てるは黒髪ボブカットの女生徒。部室の長テーブルに頬杖なんかついて、気を抜くとハッとするくらい綺麗な顔立ちを今日も今日とて険しくさせ、なんとも不機嫌そうに鼻を鳴らしたその女の子。
五百蔵悠は正式入部が決まってからこっち、毎度部活に顔を出していた。
「たしかに学園バトルものにしてはかなり品がありますね。キャラクター一人一人の口調も独特で、遠回しの会話はちょっぴり貴族っぽくて、この雰囲気は新鮮でした」
「でしょ? なのにせっかくの世界観にこのシーンは合ってない」
「なるほど。そういう見方があるのね」
部員一同が放課後の部室に集まられたのは、部長のお達しがあったからでも顧問の呼び出しがあったからでもなく、ひとえに彼女、五百蔵悠からの招集だったりする。
休日の昼間しか活動しない部の体勢に「ぬるい」と彼女が異を唱えたのは、今から一ヶ月ほど前のこと。曰く「時間は有限」であると。「余裕があるのにやらないのは怠慢」なのだと。もっともな意見を突きつけられて部員一同反論ができなかった。
しかし、だ。とはいえ平日の放課後にやれることなんて限られているじゃないか。と、部員たちの思いはみなおなじだった。
そこで「だったらやってみようじゃない」と啖呵を切ってくれたのはこれまた五百蔵さんだった。そして「一日一話ずつアニメを視聴して、次の日に感想意見を出し合う。これを続けられるまで続ける」「もし全然続かなかったら、無理があったってことで今までの体制に戻せばいいわ」との提案。小野原先生の賛成もあってあっさり受理された。
しかし毎日アニメを視るなんて……部員たち(主に先輩方)もそこまで暇じゃないだろう。きっとどこかのタイミングですぐ途切れてしまうに決まっている。
弘海もそう踏んで、試験的なその活動に一応真面目に取り組み始めたのだったが、ふたを開けてみれば…………、
「えー、あたしはエモくて良かったんだけどなぁ……そのあとの戦闘シーンなんか血がブシャブシャ飛んでて最高だったし!」
「そういう問題じゃねーよ」
あれから一ヶ月と少し。
今日この日まで、なんの問題もなく毎日続いてしまっている。
(そういえばみんな生粋のオタクだったな……)
つくづく酔狂な者たちが集まった団体である。
テニス部で毎日は参加できない弘海は、そんな彼女たちが少しうらやましかった。
「なに笑ってんのよ。あんた」
「ああ、ごめん。ちょっと」
「つーかヒロミン、一人だけなんも言わないのズルくなーい?」
「そういえば……小鳥遊くんはなにか意見ありませんか?」
「おれですか? えっと、そうだな」
今回議題に上がっている『青の剣舞とユートピア』は去年放送されたばかりのライトノベル原作のアニメである。本編十二話、OVAを含めると全十三話のワンクール作品であり、少年マンガのような熱い展開と、小説特有の中二病的な長い言い回しが売りのバトル作品だ。
ちなみに選んだのは茜谷さんだ。意外にもラノベは少したしなむようで、なかでもバトル作品は大好物らしい。例に漏れずグロテスクな描写が多かったが。
と、気づけばみんなの視線が集まっていた。そろそろ話すか、と弘海は咳払いを一つ。兼部の事情で毎日は参加できない弘海だが、なんら問題ない、ちゃんとみんなとおなじペースで話は追っているのだ。
「やっぱり、戦闘シーンのところが気になったかな」
「はあ? どこが? チョーゼツカッコ良かったんですけど?」
「台詞だよ」
そして言いたいことも、ちゃんと頭にメモしていた。
「みんな物凄いスピード感で戦ってるのに、それとおなじくらい言葉でもやり合ってるだろ? それもずっとさ」
「それがいいんじゃん! なに言ってんのかはわかんなかったけど!」
(わかんなかったのかよ)
「そうだけど。時々ちょっとやりすぎかなって。おれは戦いに集中したかったんだけど、お互いすごく捲し立ててるから、いまいち入り込めなかったというか」
「たしかに。あたしも冗長に感じたわ」
これには五百蔵さんも頷いてくれた。
「まあ原作が小説だからしかたない部分もあるんでしょうけど。映像になると途端に鬱陶しくなったりするから、そのバランスが取れてないシーンは目立ったかもね」
「うん。かかってるBGMも壮大で、効果音とかも迫力があって、作画なんか本当にすごくて。それなのに台詞まで長尺で畳みかけられると、なんというか……ちょっと悪い意味で圧倒されるよ。もちろんそうじゃない人もいるんだろうけどさ」
「いたずらに情報量を増やしても、むしろ逆効果になるかもしれない、という話でしょうか」
「アニメ独特の着眼点ね。いいじゃん。間違ってないと思うわよ」
「ええ~……」
「そういう見方もあるのね」
約一名を除き、みんなの反応は総じて好感触だった。とくに滅多に太鼓判を捺さない五百蔵さんからも支持を得られたのは弘海も嬉しい。
「あとはBパートの始まりなんだけど、ちょっとおかしい部分があって」
「へぇ、どこ?」
「ヒロインの桜花が話しかけるところだよ。そこの台詞がさ——」
昨晩は何度も繰り返し視聴した。だから話したいことも沢山ある。
その正誤を判断するためにも、みんなで理解を擦り合わせるためにも、やや調子に乗って舌が回った弘海は滔々《とうとう》とじぶんの思ったことを語っていった。
(なんか、楽しいな……)
こうしてみんなと話して、意見を交換し合っているだけで、弘海はどこか胸が満たされるようだった。今まで満足に参加できなかった彼だからこそ、その喜びはひとしおだ。みんなには内緒だが、弘海はやっとこの部の一員になれた気がしていた。
——けれど。
一方で、借りてきた猫のようになっている女子が一人。
「朱鷺子ちゃんは、どうですか?」
安藝先輩だ。
「ああ……そう、ね」
(……先輩?)
部長に水を向けられた安藝先輩は、どこか様子がおかしかった。まるで寝起きの子供のようにぼやっとした反応で、身体の動きが一テンポ遅れている。考えごとでもしていたのだろうか? と思えば、気を取り戻すように微笑みをうかべて、
「とても良い十一話だったと思うわ。とくに後半のあたりは今までの伏線が颯爽と回収されていって目が離せなかったし。最終話に向けてだんだん熱量が上がってきているようで、とてもワクワクしたわ」
「わかる~! さすがトキセン!」
なんだ。いつもの安藝先輩じゃないか。
と、弘海は思ったが、
「それで、意見はないの?」
「んん......」
後輩に訊ねられた途端、安藝先輩はギクリと肩を弾ませた。
「今のはただの感想でしょ? あたしは先輩の意見が聞きたいです」
「そ、そうね。そうよね……」
らしくもなく動揺を見せる先輩女子。取り調べを受ける物盗りもかくやといった狼狽え様で、視線なんか右へ左へ忙しなく、綺麗な眉尻も見事に下がっている。
「そ、そういえば桜花ちゃんの決め台詞はとても気になったわね。辛くも勝利を遂げた瞬間、積年の恨みを晴らしつつも過去のじぶんをも乗り越えたようなあの決別の台詞はちょっと素敵すぎてどうかと思ったわ。ええ、そうとう罪深いわ」
「褒めてるくない? それ」
まさかの茜谷さんの裏切りだった。
安藝先輩は数秒言葉に詰まる。
「冗談よ。お茶目なところを見せてしまったわね」
(お茶目なんだ、今の……)
「エンディングの入り方なんてどうかしら? 本編の終わり際から前奏をフェードインさせることでとても印象的なシーンにしていたけれど、あれじゃあ次回への期待感が高まりすぎて見たい気持ちが止まらなくなってしまうと思わない? エンディング後の次回予告もとことん洒落が利いていたし、十二話の始まり方なんてとてもドラマチックだし、そこから怒涛の勢いでオープニングが始まって」
「見ちゃったんですね。最終回……」
「あっ」
慌てて手で口を押さえる安藝先輩。
が、時すでに遅し。
「ちょっ、え~⁉ トキセン次の回見ちゃったの~⁉ みんなでペース合わせようって話してたのにぃ‼ ズルいズルい‼」
「ほんの出来心だったわ。でも悪気はなかったの。ただこの手が勝手に」
「万引き犯みたいな言い分ですね……」
これには猪熊部長も苦笑いだった。
「……はぁ」
と、浅くため息をつくのは五百蔵さんだ。そこに含まれるのはあきれか失望か。もしくは諦めだったかもしれない。
「少し失礼します」
すたっと席を立つと、五百蔵さんはだれにも視線をくれず部室を出て行った。
女性なら大体はお化粧直しだろうけれど……。
彼女が今ただ用を足しに行ったわけじゃないことは、きっと部室にいる全員がわかっていた。
「あいつトイレ近いよねー!」
約一名を除いて。
**
ポツポツ……ポツポツ……と。
廊下の窓ガラスを雨粒がしたたかに叩く。
昼間から降り始めた雨は、放課後になると本降りになっていた。このぶんだと深夜まで降り続くだろう。テニス部員である弘海としては早く止んでほしいと思わざるをえなかったが。
さて。
アニ研の活動が終わると、女子部員たちは各々やることがあるらしく、それぞれが違うほうへ旅立った。一匹狼の五百蔵さんは一人そそくさと、先輩たちはふたり仲良く並んで、茜谷さんは単位のことで職員会議があるらしく小野原先生とともに部室を発っていった。
弘海と言えば本校舎へ戻り、テニス部の室内練習に途中参加した。
雨天時、運動部は校舎に籠ってひたすら体力づくりだ。練習メニューは色々とあるが恒例は階段全力ダッシュ。弘海が顔を出したタイミングはちょうどこれの真っ最中で、顧問教師は入ってきた弘海を見るや強制参加させ、問答無用に全てのノルマを課した。
「はぁ、はぁ……やっと終わった」
おかげで最後まで終えた頃には、弘海はへとへとになっていた。
「おつかれさん。小鳥遊も大変だな」
ほかの部員たちが続々と帰宅するなか、律儀に見守ってくれていた山吹くん(本名:山吹柳之介くん)が、息も絶え絶えに階段に倒れ込む弘海を笑ってねぎらう。
「ははは……しょうがないよ。おれが遅れてきちゃったから」
「そうでもないぞ? イワセン、小鳥遊のことけっこう目の敵にしてやがるからな」
「ええ?」
イワセンというのは我らがテニス部顧問である岩崎篤郎の部内でのあだ名だったりする。逸原高校でも古株の教師で、弘海の文芸部との兼部を最後まで反対していた少々時代錯誤なきらいのある教師だ。
「女子ばかりの部に現を抜かしてる軟派な野郎だってな。おまえらはああはなるなよってほかの部員たちに言い含めてやがる。嫌だよなあ、学生時代モテなかったやつの僻みってのは」
どうやら思わぬところで恨みを買っていたらしい。
「そっか……まあ間違いじゃないよ。実際おれ、あっちの部活のほうが楽しんでるし」
「イイじゃん。それで。高校生なんて楽しんだもん勝ちだろ? 俺はあっちでも小鳥遊が大切なことやってんだって知ってるからさ。胸張れよ」
眼鏡を掛けながら気のいい笑みをみせる山吹くんは、なんだかとても爽やかだった。「……ありがとう」階段で身を起こしつつ弘海もつられて笑う。
「山吹くんは、女の子にモテて大変そうだよね」
「んだよ、藪から棒に」
「べつに。……なんでもない」
絶賛片想い中のクラスメイトの顔を思い浮かべて、弘海は笑みを噛み殺した。
「小鳥遊こそどうなんだ? 興味はないのか? そういうの」
「おれは……」
額から流れた汗の粒が、弘海の顎を伝って足元に落ちた。
「……まだわからない。かも」
「ハハッ、そっか」
雨脚は、依然と強まるばかりだった。
ざあざあと激しい雨音が校舎に木霊している。最近ずっと降っていなかったからか。まるで今までのぶんを取り返すかのように、降る雨の勢いは留まるところを知らない。
(こんな日に傘を忘れてたら、地獄だったな)
そうなったじぶんを想像し、ふと弘海は苦笑した。
昼頃から降水確率は九十パーセント。前日に予報はあった。その上今朝は曇り空で、ひとたび外出すれば周りは傘を持つ人ばかり。気づかないやつのほうが少ない。
それでものうのうと無防備にやってきた生徒がいるのなら、そいつはちょっと脇が甘いと言わざるをえないが……。まあそうそういないだろう。
「気をつけてね」
「ありがとうございます」
ひらひらと手を振ってくれる気さくな女教師に頭を下げて、弘海は下駄箱へ向かう。靴を履き替え、いつかコンビニで買った上等な黒傘を片手に、さあいざ豪雨のなかへ……。
「ん?」
(あれって……)
見覚えのある背中が、そこにあった。
下駄箱を出たすぐのところ、校舎から張り出た屋根の下、まるで世界の終わりを見届けるかのように寂然と雨空を見上げてただ立ち尽くしているのは——安藝先輩だった。
「えっと……先輩?」
先輩は静かに振り返った。そこに弘海がいたことにも、唐突に名を呼ばれたことにも、動揺一つ見せずに。
「な、なんでそんなところに立ってるんでしょうか?」
まさかな、と思いつつ訊ねる弘海だったが、
「傘を忘れたのよ」
「マジですか……」
……いた。脇が甘い人。
しかもこんな近くに。
「ぶ、部長はどうしたんですか? 一緒に帰ったはずじゃ」
「まいるなら先に帰ったわ。わたしは途中で職員室に呼ばれてね。今やっと解放されたところなの」
「それで傘を忘れたことに気がついて途方に暮れてたと……?」
「驚き桃の木ね。……あと一つはなんだったかしら?」
「山椒の木です。もう死語ですけど」
軽口を叩き合っている場合でもない。
少し逡巡もあったが……。
弘海は腹を括ることにした。
「良かったら入っていきますか? おれ傘持ってきてるんで」
持っていた傘を掲げてみせる。
すると安藝先輩は「……いいの?」と小さく目を見開く。
「むしろ先輩はこれからどう帰るつもりだったんですか?」
「ふふふ。これでも田舎出身だから、むかしから水浴びは得意なのよ」
「勘弁してください」
このままびしょ濡れで帰らせたら、きっといろんな人に怒られるんじゃないか。
弘海は頬を引き攣らせながら傘を開いた。
やってみてわかったことだけれど。
相合傘というのは意外と難しいものだ。
相手が濡れぬよう気を張っていると、いつのまにかじぶんの肩周りが雨ざらしになる。それを回避しようと身を寄せれば、今度は相手と密着してしまって落ち着かない。恋人ならいくらでもくっ付けるだろうけれど、ただの後輩と先輩の距離感でやるには傘の内側は手狭すぎる。なかなか奥の深い陣形だ。
「最後に良いことが起きたわ。今日は」
「なんですか、まるでそれまで良いことがなかったみたいな」
おのずと足取りも遅くなり、ふたりはまだ校舎内を歩いていた。
女性にしては背の高い安藝先輩だけれど、弘海のほうが少し高いおかげで、彼の差す傘のなかでも窮屈そうにしていない。むしろどこか上機嫌に見える。
「ええ、その通り。今日はあまりついてなかったの」
安藝先輩は今日一日を振り返るように遠くを見据える。
「授業の課題は間違うし、雨は降るし、傘は忘れるし……先生には進路は早く決めなさいと言われるしね。ほんと、踏んだり蹴ったりだったわ」
「進路って……今から決めるんですか? 早すぎません?」
「わたしは今から決めておいてほしいのだそうよ。面倒な話ね」
ほぅ、と憂うように安藝先輩が息をつく。その拍子に肩同士がわずか触れ合った。ドキッとして弘海は少し身を引く。
「けれど……やっぱり一番申し訳ないのは、五百蔵さんを怒らせてしまったことね」
「さっきの部活ですか? でもあれは……」
ふるふる、と安藝先輩は首を横に振った。
「わたしが悪いのよ。いつまで経ってもうまくできなくて、この一ヶ月あの子の信頼を裏切り続けているのだもの」
ここ最近、アニ研の方針が少し変わった。
今まで『好きを語る』ことをスローガンの一つに掲げていた我らがアニ研だが、そこに五百蔵さんが一石を投じたことで、そうじゃない部分についても語り合うようになったのだ。
それによって、およそ同好会然としていた集まりから、作品を批評し合う、より踏み込んだ関係へと進展した弘海たち。もちろん当初はそれぞれ遠慮がちだったが、そのうち慣れて、今では意見をぶつけ合うまでになっていた。
それでも未だ、漠然とした緊張感を拭えずにはいるが、それも言ってみれば研究会らしい空気だろう。
着実にアニ研は変わりつつあった。……のだが。
「やっぱり難しいわね。好きじゃない部分を話すというのは」
安藝先輩だけは、まだその空気に追いつけていなかった。
「言いたいことはたくさん浮かぶのだけれど。どうもその伝え方に悩んでしまってね」
「……伝え方、ですか?」
「ええ。どういうふうに言葉を変えれば、一番誤解なく伝わってくれるのか。そんなことを考えているうちに話し合いが次に進んでしまって……あとはその繰り返しね」
言葉の端々から、先輩が自信を失いかけているのが伝わった。
安藝朱鷺子という少女の、それは思わぬ弱点だった。いや「思わぬ」というのは語弊があるかもしれない。あれだけ全身全霊で好きなことを語れる彼女が、今度はまったく反対のベクトルにおなじくらい熱量を注げるとはかぎらなかっただけだ。
「先輩が部活でこんなに苦戦してるところ、初めて見る気がします」
料理という分野を除き、安藝朱鷺子は基本的に物事をスマートにこなす。こんなふうに悪戦苦闘している姿を見れるのは、だからけっこうレアだ。
先輩は「……そうね」と微笑んで、
「ふふふ、なんだかあの頃とは真逆になってしまったみたいね」
「ん? どういう意味ですか?」
「わたしと違って、小鳥遊くんは活き活きと話し合いに参加しているでしょう? あんなに積極的な小鳥遊くんも、わたしは初めて見るわよ」
ぴたりと、少年の足が止まった。
安藝先輩の反応も素早く。傘から出そうになった身体を即座にひっこめる。
「おれは、その……だって」
「ん……?」
傘の内側で、しばらく見つめ合うふたり。
なんとなく、気まずい空気が流れて……。
「どうやら、なにか言い方を間違ってしまったようね」
先輩は傾きかけた傘の縁を優しく手で押し上げた。
「わたしはね、小鳥遊くん。どんな形であれ、理由であれ、あなたがアニ研の活動に参加できていることが、嬉しいわ」
「先輩……」
「と、言いたかったのよ」
先輩は上目遣いで微笑んだ。
「前に進んでいるのでしょう? わたしたちは」
「そう、でしたね」
歩みを再開したのは安藝先輩のほうからだった。それもなんとも迷いのない足取りで歩き出したものだから、傘を持っていた弘海は彼女が濡れぬよう慌てて歩みを合わせた。
「ただ、そうね。各々が成長するのももちろん大切だけれど、そろそろふたりの間にも進展があってしかるべきだと思うの。ええ。思うのよ」
「は、はぁ」
(どういう意味だろ?)
「というわけで小鳥遊くん。今度の日曜日だけれど、一緒に映画でも観に行かないかしら?」
「はあ。映画ですか」
「ええ。先週上映が始まったでしょう。ほら、なんと言ったかしら? そう、たしか『一等星のキミ』だったかしら? 今すごくネットで話題じゃないの」
「あ……あぁー……」
「ま、まあ原作がとっても泣ける恋愛小説らしいし、その、男の子が見たいような作品ではないかもしれないけれど、わたし前から目をつけていたし、せっかくだから一緒に見に行こうという提案ね。他意はないのよ? あ、いえ、この場合の他意というのはそういう意味の他意じゃなくてね。ただ若い男女ふたりきりで観に行くにはハードルも高いでしょうし、もしなんだったら、まいるもつれて三人でというのも」
「すみません。安藝先輩」
「え?」
矢継ぎ早に捲し立てていた声が一瞬で停止する。
「もしかしてわたし、振られたかしら?」
「いやそうじゃなくて。実はおれ、あの映画もう観てるんです」
「あら……?」
安藝先輩の微笑みが、なんだかすごくぎこちないものになった。
「あの作品って、けっこう女性向きだった気がするのだけれど……。小鳥遊くん、実は原作ファンだったりするの?」
「いえ。読んだこともないです」
「じゃあどうしてそんなに早く」
と、そこである可能性に気づいたらしい。ぴたりと言葉を止めた。
「まさか。すでにだれかほかの人と?」
「はい。実は五百蔵さんと。この前ばったり会ったときに」
「……」
校門の前で。
今度は先輩が立ち止まってしまった。
「そう。なるほど。これは誤算だったわ。ええ、なるほどなるほど」
「め、めちゃくちゃ瞬き増えてますけど……。大丈夫ですか先輩?」
「問題ないわ。ええ」
ええ、ええ、と壊れかけのロボットみたく連呼していた。ほんとうに大丈夫なのか、と弘海が覗き込んでいると、先輩は「こほん」と咳払いをして、
「一応訊いておくけれど、五百蔵さんとは本当にばったり会っただけなのよね? 予定を合わせたわけではないのよね?」
「は、はい。ショッピングモールで偶然会って、そのまま強制的に映画館に連行されました」
「なるほど……ふむ」
安藝先輩は少々考える素振りを見せてから、
「これは思わぬ伏兵かもしれないわ」
と、これまた意味不明なことを呟いていた。