(2) パパの言うことがわからない。
小鳥遊瑞彦について、語っておく必要がある。
弘海と血のつながった正真正銘実の父親であり、けれどその実父親らしいことはほとんどやってくれなかった彼について、弘海が語れることなんてたかが知れているのだけど、それでも話しておかないと後で痛い目を見ることになりかねない。
大袈裟な前置きに聞こえるだろうが、そういう油断は命取りだ。
なにせ実の息子である弘海自身、瑞彦のことはよく知らないのだから。
彼はじぶんのことを基本的に話さなかった。それも息子が生まれたときからずっと。弘海が物心ついてから今まで、なにが「好き」とか、なにが「嫌い」とか、そういった雑談すらろくに交わした覚えもなく、いつのまにか離婚が決まり家を出て行った。
とはいえ夫婦仲が悪かったかと言えばそんなことはない。
そもそも大学のサークル仲間で、その頃から気が合い、やがて結婚まで発展したふたりだ。家では幼馴染のように決まってリビングで一緒に過ごしていたし、忙しい合間を縫って連絡もこまめに取り合っていたらしい。ゆえに中学で弘海がイジメに遭い、それがきっかけで夫婦間に不和が生じるまでは、ほんとうにご近所でも評判のおしどり夫婦だったのだ。
だから唯一すれ違ったものは、育児という観点だけ。
暇があれば鬱陶しいぐらい息子に話しかけていた母親と。
他人のごとく距離を取って必要以上に言葉を交わさなかった父親と。
子供への接し方があまりに正反対だったふたり。その極端すぎるギャップが、あるいはふたりを別離へと誘ったのかもしれない。
とにかく弘海にとって父親とは得体の知れないもので、家族という暖かな印象からは程遠いものだった。
「でも嫌いなわけじゃないんだよなあ……」
「そうなの?」
父親について難しい顔つきで語る弘海に、安藝先輩やや意外そうな反応をした。慣れた手つきで空になった弁当箱を片付けながら。
「んー……むしろあのずぼらな母親よりは何倍も信用できる親と言いますか。干渉はしないけど放任もしないと言いますか、まあとにかくそんな感じで」
「悪い父親ではないように思えるけれど……小鳥遊くんは、お父様のなにをそんなに怖がっているのかしら?」
怖がっている。
そんなふうに見えたらしい。先輩には。
いや……見えたのではなく、きっと事実だ。
「それがわかんないんです。でも、とにかく家じゃずっと気が休まらなくて」
「ふむ……」
「なんか、決定的なことがあったような気がするんですけど」
「それがわからない、と?」
「……はい」
そんなこんなで、困り果てているのだった。
**
冬が近づくにつれ、だんだん日が落ちるのも早くなってくる。
テニス部のコートは校舎の端にあり、ナイター照明が届くギリギリに位置する。そのせいで夜間の活動はそう長くも続けられない。
そのためいつもより早めに下校することになった弘海が、やがてマンションに帰宅する頃には、もう外は真っ暗になっていた。
「おかえり。弘海くん」
リビングに顔を出すと、エプロン姿の瑞彦がキッチンに立っていた。
弘海の通う高校に属するどの教師よりも高い背丈に、少しひょろっとした手足、肩幅は広いものの成人男性としては頼りない体格の男が、赤縁メガネの奥で柔和な微笑みをうかべて実の息子を出迎える。家族としては普通の光景か。けれど弘海はまだ慣れない。
「ただいま」
弘海が小さく返せば、瑞彦はそれ以上なにも口にせず、再び作りかけの料理に向き合う。
なんとも薄味なやり取り。けれどそれが弘海には懐かしい。父親との会話はいつも短文で完結していて、一見薄情にも思えるほどだ。けれど実際はそうではなくて、事務的でも無機質でもなく、ただふたりの間には遊びがなかった。
「いただきます」
晩御飯を食べるときも、それはおなじだった。
テーブルに向かい合うように座って、瑞彦のつくった野菜炒めを箸でつつきながら、父子の間には世間話すらない。
インスタントの味噌汁をすすりつつ、ふと弘海が見やれば、瑞彦はスマホを見下ろしながらビール缶を開けていた。少し面長な顔立ちに知的な眼差しが、ただ液晶の一点を見つめてぴくりとも動かない。仕事のメールか、もしくは原稿でも読んでいるのだろうか。「なにしてるの?」そぞろに弘海が訊ねてみれば、
「担当してる作家さんが、ね」
とだけ言った。
(作家さんが、なんなんだよ……)
まさに暖簾に腕押しだ。
この手応えのなさも思えばむかしからで、そのうち弘海のほうが折れて会話を諦めるところまでが通例ではあった。
(これが母さん相手だと饒舌になるんだからなあ……)
相手が違うと態度も変わると言うが。それが愛する相手だとなかなかあからさまで、息子としては心中複雑である。まあこれに関してはあの母親が特別、この父親の興味を引き出すのが上手いという意味もあるのだが。
(要するにおれはそこまで愛されてないってことですかね……)
いやいやいや、と弘海は首を横に振った。
「へ、編集者の仕事って大変?」
「そうだね。大変だよ」
「……そう」
会話のキャッチボールを試みるも、投げた球は返ってこず。とうとう馬鹿らしくなった弘海はそそくさと食事を済ませて席を立った。
そして翌日の朝。
『おー。なかなか良い感じにやってるみたいじゃーん』
「どこがだよ」
マンション近くのバス停にて。
屋根付きベンチに座りながら、弘海は母親からかかってきた通話に応じていた。
「今の話のどこに良い感じの要素があったんだ」
『そりゃあ元旦那と息子が仲睦まじくご飯を食べたってところよん』
「いや言ってねえし」
捏造するんじゃない。
「マジでさ。信じられないくらい冷え切ってたんだからな? もう喋らなすぎて寺の食事かと思ったわ。食器の音もろくに立てられねえよ」
『おお……知らない間に息子が変なたとえを出すように……』
「寝れてないんだ。しょうがないだろ」
今日も今日とて弘海はうまく眠れなかった。
「頼むから早く帰ってきてくれ。あの人がいる家じゃ全然落ち着かない」
そう言って悲嘆に暮れる息子だったが、母親は『んー……』と渋い反応だ。
『それがもうちょっとかかりそうなのよねえ……。こう、今までサボってたツケがさあ、ぶわっと一気に回ってきた感じなのよぉ。もう終わるまで部屋から出してくれなそうな勢いで。ホント困っちゃうわ』
『困ってるのはこっちですから……! 締め切りも近づいてるんですよ先生……!』
通話口の向こうから女性の切羽詰まった声がした。おそらく担当の編集の人だろう。こんな面倒な人のお世話までさせられるとはなんて不憫な。
『ごめんてー。通話終わったら頑張るからさ。許して許して』
「あんたって人は……」
うちの母親がご迷惑をおかけして誠に申し訳ありません。
『でもさー。マジな話、あんたむかしはふつーにしてたじゃない? パパが家にいても、緊張なんかしてなかったし』
「まあ……一応父親だからな。あの人のああいうところは慣れてる」
『でも今は変に気が張っちゃうんでしょー? ほんとになんでよ?』
「……それがわかったら苦労しない」
ほとほと困り果てている弘海だった。
『なんかさー、心当たりとかはないわけー?』
「……んん、それが実は……」
と、気づけばバス停に人の姿が増えている。弘海はすかさずベンチから立ち上がると、バス停から少し離れたところでまた声を潜めた。
「心当たりはないけど、逆にあるというか」
『なにそれ? どういう意味?』
「思い出せないんだよ。あの頃のことが、どうしても」
昨晩はまるで眠れなかった。そのうち弘海は一人で思考し、やがてとある違和感に気がついた。
「ちょうど母さんたちが離婚したあたりの記憶が、まったく思い出せないんだ」
『ムム……?』
そうなのだ。
両親のことはもちろん覚えている。三人家族でどんなふうに過ごしたのか、その記憶は鮮明だ。しかしその最期、三人家族がどんなふうに終わってしまったのか、そのあたりのことがどうしても思い出せない。まるで何者かに妨害されているかのように。
『そりゃまた妙なことになったわねえ……』
「じぶんでもびっくりだよ。こんなことに今まで気づかなかったなんて」
『あんたそんなに嫌だったの? あたしらが離れるの』
「いや全然」
『即答かよ』
元々そこまで温かな家庭でもなかったのだ。しかたない。
いつだって両親は忙しそうにしていたし、あまり遊んでもらった記憶もない。他愛もない会話なら幾度となく交わしたが(主に母親と)、家族らしいことはまったくしていない。だからか、弘海のなかで親に対しての執着はあまりなかった。
「たぶん、まだ中学のことが尾を引いてるんだと思う……。おれはもう克服したつもりだけど、いざ思い出そうとするとやっぱり、どっかでブレーキがかかるみたいだ」
『はぁ……厄介なもんねぇ』
あの夏休みを機に、弘海は中学時のトラウマを乗り越えた。それは紛うことなき事実だ。
しかし後遺症というやつは面倒で、今でも弘海の深層意識は当時の記憶を拒んでいた。
『——ま。でもいいんじゃない? 思い出せなくてもさ』
「は?」
おもわず声が出た。
「な、なにがいいんだよ? なんにもよくないだろ。そんなの……」
『そぉー? あたしはなんも問題ないと思うけどなー」
急になにを言い出すんだ。この人は。
『べつに特別なことじゃないわ。思い出せないってことは、忘れるべきだったってことよ。あんたにとって大切なのは、あんたが今覚えてることだけってね』
「いやいやそんな」
『人間なんてそんなもんよ。無意識に取捨選択して、思い出さなくていい記憶はさっさと忘れちゃう。あんたの頭がそう判断したんなら、それは正しいことなのよ。きっと』
「んなこと言われても……納得できないし」
『どっちにしろ、あんたが向き合うべきは今のじぶんだし、今のパパ。それは変わんないでしょ?』
「んん……」
それは……そうかもしれないが。
どうしてだろう。
なんだかうまく丸め込まれた気がしてならないのは。
『過去のことばっか考えてないで、あんたはちゃんと今に向き合いなさいよ」
「いやでもさ」
なおも言い募ろうとする弘海だったが、
「きみ! 乗らないのかい?」
「え?」
と、弘海が振り返ると、いつからだろう、バス停にはバスが停まっていて、すでに弘海以外の客は全員乗車していた。親切に声をかけてくれたのは弘海を知る車掌の男性だ。「あ、のっ乗ります!」と弘海は慌てて返事する。
「ごめん母さん。話はまた聞かせて」
『はーい。次いつ会えるかわかんないけどねー』
スマホの通話を切り、大急ぎでバスに乗り込んだ。




