(24) 夜更かしのうた(二)
ボックスから取り出したピンク色のブルーレイディスクをトレイに置くと、すぐに本体のなかへ吸い込まれていった。すぐにリモコンを操作して、テレビの電源を入れ、テレビ画面を切り替える。それをおこなうのはなぜか弘海である。
ちなみに頼まれたわけではない。ただ気づけば弘海は率先して準備を進めており、安藝先輩は後ろでそれを見守っていた。日頃からこの部屋を利用している先輩ができないはずがないし、弘海がこれをやらなければならない理由もないのだけれど、なんとなくこの構図が弘海にはしっくりきている。不思議だ。
(まあ、おれも慣れてるしな)
現代はサブスクや配信が流行し、弘海もなにかと楽なので重宝してはいるが、もっと子供の頃はDVDを借りてきて視聴していたものである。昔取った杵柄と言えば聞こえがいいか。その証拠にリモコンを操る指先は滑らかだった。
まもなくテレビの液晶にはアニメのトップ画面が表示された。本編やチャプターほか、おまけの欄など並ぶなか、でかでかと主要キャラクターである魔法少女っぽい服装に身を包んだ少女たちが箒にまたがって夜空を駆けている。タイトルは『魔法少女ひなこちゃんの長い夜』。
「このアニメって……たしか先輩が好きだって言ってた……」
思わず弘海は後ろを振り向く。
けれど中央に敷かれた布団のうえで正座していた安藝先輩は、ただ穏やかな微笑みを返すだけで……やがてじぶんの隣を、ぽんぽん、と優しくたたいて、後輩の青年をうながした。座れということだろうか。
「し、失礼します」
少々どぎまぎしつつも、弘海はその横にあぐらを掻いて座った。
そしてリモコンを受け取った安藝先輩は、いつもそうしているのだろう、すっとテレビへ向かって腕を伸ばすと決定ボタンを指で押す。ふと、数秒の暗転。のちにパッと画面が明るくなり、オープニングとともに本編が始まった。
「むかしはどの作品も、導入はオープニングから始まるのが定番だったわね」
「えっ? あ、ああ……そうですね」
「今はプロローグから始まったり、オープニングを一話の最後に回したり、初回ではオープニングを流さないような作品も増えてきたわ」
安藝先輩はどこか懐かしむように語った。
文化に変化は付き物だ。アニメもまた、時代とともに変わりつつある。最近の作品を見ていると弘海もひしひしと感じるものだ。そしてその変化はきっと良いことで、間違いなく喜ばしいことで、けれどどこかで一抹の寂しさを覚えてしまうのも事実だった。
「んん……?」
ふと、そこで違和感。
「なんかこの曲、聞き覚えが……」
「そういえば、小鳥遊くんは電車で聴いていたわね」
「……あ」
そうだ。
この穏やかなピアノのイントロ、ソプラノ声のボーカルが歌うメロディは、電車で安藝先輩から渡されたイヤホンから流れていたアニソンだった。
(お、オープニングだったのか……!)
バラード調のAメロは開幕の歌としては珍しいくらいしっとりとした雰囲気で、また魔法少女ものの主題歌としてもほかとは一線を画していた。てっきり子供向けと思いきや、しっかり大人の心も掴んでやろうという狙いが見える、のっけから異色作の気配が漂う。
「オープニングでこのバラードは、なかなか前衛的よね」
「はい。……でも、不思議と合ってるような気もします」
「気が利いているわよね。今は名監督との呼び声高い、九重達己監督の記念すべき最初の作品だから、それなりに気合も入っていたらしいし」
「へぇ……」
「まあ、意欲作が名作になるとはかぎらないけれど」
「え?」
弘海は反射的に振り向いた。
テレビ画面を見つめる安藝先輩の横顔には、いつも通りの微笑みが浮かんでいる。
(気のせいか? 今、なんか……)
やがてオープニングが終わり、やっと本編が始まった。
画面の向こうは夕暮れの校舎、運動部の掛け声や吹奏楽部の演奏が響いている。
やがて映し出されたのは教室で居眠りする桃色の髪の女生徒だった。他にはだれもいない放課後の教室で、すやすやと幸せそうに涎を垂らして爆睡中の少女。その呑気な光景は、彼女こそが今作のヒロインなのだとわかりやすく示していた。
「桃崎ひなこ。中学二年生で今作のヒロイン。趣味は居眠りで好物は甘いもの、苦手なものは勉強。弱虫ですぐ泣いてしまう女の子よ。王道でしょう?」
「ははは……」
やがて帰宅時間を告げるチャイムが鳴り、寝ぼけ眼を擦りながらヒロイン、ひなこが目を覚ます。無人の教室を見回し「いけない!」と慌てて鞄を引っかけるが、直後、可愛らしいカワウソのような謎の生き物が教壇に立っており、驚きの声を上げた。
「あの、先輩? ところで話というのは……」
「そのうちわかるわ」
とだけ返して、安藝先輩はそれ以上なにも言わなかった。
先輩の意図はわからない。おとなしく視ているだけで、なにがわかるのだろうか。
アニメの展開は目まぐるしい。喋る生き物(トゥーリという名前らしい)と出会ったヒロインは、この街が化け物によって壊滅する数日後の光景を見せられ、まもなく魔法少女になることを決意する。やがて霊界と呼ばれる別世界で、初めの戦いが始まった。ここまでものの数分の出来事だ。
「なんか、すごくテンポがいいですね」
「ええ。『まほヒナ』は、そのテンポの早さと驚きの展開で人気を博した作品なの。子供向けと思わせておいて、かなりビターな結末や救われない展開の連続で、放送当時は視聴者たちを驚かせたらしいわ」
「魔法少女ものなのに、ですか? スゴイですねそれ」
「そういう意味では、少し玄人好みだったのかもしれないわね」
(んん……?)
気のせいだろうか。
いつものように好きな作品を語っているはずの安藝先輩が、今はちっとも楽しそうにしていない気がするのは……。
「わたしが最初に見たのは年末特番だったけれど、作品の持つ突飛さや熱量はちゃんと伝わってきたわ。なにより理不尽な目に遭いながらも、何度も立ち上がる主人公が、当時のわたしには輝いて見えて……。あの頃は家で何度も、繰り返し視聴したものよ」
当時を懐かしむ言葉は、一方で淡々とした響きを伴っていて、肝心の感情がどこか遠くぼやけているかのよう。
「本当に、大好きだったわ」
大好き......だった。
それは、いつもだったら気にもならない言い回しのはずで。
言葉の綾だと聞き流して、そのうち忘れるくらいのものでしかなかったはずで。
しかしなぜか、そのときの弘海の鼓膜には、たしかな違和感を持ってその言葉がこびりついてしまった。ひやり、と背筋が冷たくなった。
(そう、いえば……)
ふと脳裏に蘇るのは、電車でふたり、おなじイヤホンを分け合ったときのこと。
なんでもない平穏なひと時、イヤホンから流れ出す歌に、先輩があのときなんと言ったのか。弘海の記憶はどうしてか、明確に再生することができてしまった。
そう。先輩はあのときも、こう言ったのだ。
——むかし好きだったアニメの曲よ。
と。
「せ、先輩」
気のせいだろう。
「先輩は今でも、この作品が好きなんです……よね?」
そうに決まっている。
けれど依然として安藝先輩の本心は靄がかっていて、その輪郭すらはっきりしなくて。
そうして、迷いなく頷いてくれるはずだった先輩は、
「さあ、どうなのかしらね」
「ぇ……」
アニメから一切目を離さず、無感情にそう言った。
「たくさんほかの作品を見て、気づいたの」
画面のほうでは魔法少女に変身したひなこが、正体不明の、魔法少女ものにしてはグロテスクな見た目の怪物と戦いを繰り広げていた。
最初は戸惑いを隠せず、攻撃するのすら覚束ないひなこだったが、やがて気持ちを切り替え、魔法少女としての才能が開花してからは、すぐに敵を追い詰めていく。
「テンポが良いのと急ぎ足なのは違う。テンポが良い作品というのは、ちゃんと緩急があって、見ている人を飽きさせない創意工夫がある。けれど『まほひな』はただ駆け足なだけで、何度見てもそれが見受けられなかった」
「せん、ぱい……?」
あっという間に最初の敵を打倒してしまったひなこは、ただの平凡な少女だったはずのじぶんが神に選ばれた者であることを確信し、勝気な笑みを浮かべる。
「ジャンルの先入観を逆手に取った狙いも、挑戦的な試みと言えば聞こえが良いけれど、肝心のキャラクターの深堀が甘くて、出オチの域を抜け出せていない。もっと主人公に明確な戦う理由があればいいのにって、何度思ったことかしら」
『みんなを救えるなら、わたしはどんな相手とだって戦ってみせるよ』
『その意気デス! ひなこ様!』
魔法の力を授けた謎の生命体トゥーリに決意を語るひなこ。そこには戦う前の気弱な少女の面影は存在しなかった。恐れもなにもない。その眼差しは戦士のように使命感に燃えている。「この台詞だって、そう」安藝先輩が言う。
「正義感に燃えるカッコいい主人公を描くシーン。わたしがあの頃、何度も胸を熱くして、憧れた場面。……けれど、ひなこは、もともとは内気で弱虫な性格だったはずなの」
言葉尻は乾いて、低くしぼんで。
「なのに。たった一度戦いに身を投じただけで、ここまで覚悟が固まるものかしら? 平凡なじぶんから抜け出したいって、前振りもちゃんとあったわ。けれど、それにしたって劇的すぎる変わり様だわ。まるで別人みたいじゃないの」
抑揚のない声には、やがて歯痒さがにじんだ。
「作品側にも都合があるのは理解しているわ。弱気なヒロインが初めて強さを表すことに胸を打たれる人もいるでしょう。そういう一種のお約束は古き良き文化だとも、重々承知しているつもりよ。……けれど。どうしてもわたしにはこの台詞が、だれかに言わされたものにしか聞こえない」
先輩の口調はもはや憐れむようでもあった。一体だれを? と訊かれれば、だれをなのだろうか? もしかするとそれは先輩にもわからないかもしれない。
「これは本当にひなこの気持ちに寄り添った言葉なのかしら? 雰囲気だけでごまかしてはいないかしら? オトナの事情で歪められてはいないかしら? それとも……わたしがひねくれているだけなのかしら」
それはともすれば悲鳴にも近い響きで。
冷えた部屋に薄っすらと木霊するようだった。
「……とまあ、そんな具合にね」
安藝先輩はそこで一転して、つとめて平静を取り戻すように声を大きくした。
「こうしてアニメを視ていると、時々、そんな馬鹿馬鹿しい思考がめぐってしまって止まらなくなるときがあるのよ。……ほんと、いつからなのかしら」
アニメでは桃色の髪を流したパジャマ姿のひなこが、トゥーリをぬいぐるみのように胸に抱いてベッドで横になっていた。
「わたしはただ、なにも考えず空想の世界に浸っていられれば十分だったの。大好きなあの子たちの物語を、大好きなまま見守っていられれば、それだけで」
液晶画面の奥、愛らしい生き物と小さな少女がふたり仲睦まじく寄り添って、まぶたを閉じて穏やかに眠っている。そこへ、アコースティックギターの優しい音色が流れ、ふたりにとって決定的な一日の終わりを微笑ましく演出した。
それはだれが見ても和やかな場面のはずで。
「あの頃は純粋に見られていたはずのものが、理屈を知るにつれ、だんだんそうは見えなくなって……そのうち、どんなふうに視ていたのかも思い出せなくなって」
けれどそれを見据える安藝先輩の表情は、苦痛に耐えるかのようだった。
「そうなることが、わたしは怖くてたまらないわ」
「先輩……」
こんなふうに考える人もいるのだ。
弘海は唖然とするしかなかった。
「だからね。いつからか、そういうのは考えないことに決めたわ。好きな作品の、好きなところをだけを見つめて、覆い隠して、ほかの余計なものは見えないように……小鳥遊くん。わたしはね、なにも嫌いになりたくなかったの」
理屈を知るにつれ、ものの見え方は変わっていく。
抗うことのできない、それは自然の摂理のようなものだ。だからわざわざそれを気にするようなやつなんていない。
知って。変わって。その連続がヒトの在り方であり、だから何かの拍子に我に帰ったところで、たいていは関心もなく通り過ぎてしまうのが普通で。
けれど彼女は、そんなものに逐一立ち止まっては、そのたび心底から憂いていたのだ。自分のなかの『好き』が離れていくのを恐れて、今にも零れ落ちてしまいそうなそれを、必死に胸のうちに留めようとしていた。
「こんな幼稚な人だなんて。幻滅したでしょう?」
「そんなこと。おれは」
「いいのよ。それを思い知らされたからこそ、わたしはあなたの案に賛成したのだから」
そして安藝先輩は、どこか遠くへ思いを馳せるように。
「変わらないものなんて。ないのね」
ぽつり、と呟くのだった。
時は移り行く。無情にも儚く。
諸行無常という言葉がある。なんかの教科書に載っていた。
どこかの時代の、偉そうなだれかが書いた説教臭いその一節は、聞いてもいないのに僕たち私たちに残酷な真理を謳う。ほんと、ありがた迷惑極まりない。そんな説教臭い講釈を垂れなくとも、嫌でもいつか、それを肌で実感するときがくるというのに。
「そんな顔しないでください。先輩」
反応はない。ただ憂いを帯びた横顔が下を向いている。
たった十六歳でそんな真理に辿り着いてしまった少女は、今まさに晩秋の紫陽花のように瑞々しさを失いかけていた。
(この人は、どれだけ)
先を歩いているのか。じぶんと一年しか変わらないはずなのに、その一年が、弘海には果てしなく遠い差に思える。きっとどんな速さで走ろうと、追いかけようと、この距離が埋まることはないのだろう。
「先輩」
逆を言えば、だからこそ、この手を伸ばすことに意味があるはずだ。
「ちょ、ちょっと」
動揺を露わにした声。
弘海が突然、その手を取ったからだ。
少女の膝のうえで重ねられていた両手を取ると、弘海は胸の高さまでそれを持ち上げて、じぶんの両手で包み込んだ。そして驚きに目を見開く少女と強引に眼を合わせる。
「おれは先輩より年下だし。バカだし。出会ってまだ全然間もないから、先輩の気持ちがわかるなんて口が裂けても言えませんけど、先輩の気持ちはわかります!」
「い、言ってるじゃない……」
言葉を整理する余裕などなし。ただ今はとにかく、この冷たくて震える手をどうにかして解きほぐしてやりたい。
「聞いてください。安藝先輩。先輩はたぶん今、前に進んでいるんです」
「前に……?」
「そうです。むかしの思い出を振り返って、それがとても遠くにいってしまったように感じるなら、それはきっと先輩が前を向いて、たくさん歩いてきた証拠です」
なにもない草原をひとり歩く安藝先輩を想像する。
先輩はふと立ち止まって、風になびく髪を押さえながら、後ろを振りかえる。その向こうには長い長い道が果てしなく続いていて、その先はもう遠く見えなくなっている。先輩は憂いを帯びた表情を浮かべる……。
でも、だからなんだというのか。
進んできた道がなくなったわけじゃない。見えなくても消えたわけじゃないのだ。
「ちゃんと成長してるんですよ。先輩は」
「そう、言われてもね……」
「不安に思うならおれが言います。どこでも何度でも。なんなら今叫んだって!」
「それは近所迷惑だから勘弁してちょうだい」
捲し立てる後輩の勢いに、安藝先輩はかなり気後れしている様子だった。もしくはドン引きされているとも言うが。しかしなぜだかその反応に弘海は勝機を見出していた。
「それにむかしは純粋に見られてたとか言いますけど、おれにしてみれば安藝先輩は今も十分純粋ですよ。正直ちょっと心配になるぐらいです」
「そ、そうなのかしら?」
「そうですよ! なに言ってるんですか!」
些細なモノの機微にここまで一喜一憂できる人を、弘海はほかに知らない。
弘海は持ち上げていた両手を下ろして、今度はその細い指先を優しく握った。
「だから先輩は、もっと今のじぶんに自信を持ってください。胸を張って、むかしのじぶんに誇ってください」
この人はいつも自己評価が低すぎる。
校内で知らないヤツはいないぐらいの美人で、後輩たちにも慕われていて、いろんな人に信頼されている素敵な先輩なのに。たまにはそういう他者評価を聞いて有頂天になったりしても罰は当たらないのに。
見ているこっちがもどかしくなってしまうぐらい、そういうことに対して先輩は極度に鈍感だ。
「むかしのわたしが今のわたしを見たら、きっとがっかりするわ」
「そんなことないですよ。今の先輩は素敵です」
「あの頃好きだったものが、もう響かなくなっているのに?」
「それでも、先輩は今も『まほひな』が好きなんですよね? あの作品からすべてが始まったって。あの言葉が嘘だとは思えません」
好きなはずだ。
その『好き』に自信が持てないだけで。
「そんなの、好き勝手に過去を美化するのとおなじことよ」
「おなじじゃないです。全然違います」
「……でも、思い出補正という言葉もあるし」
「どこで覚えたんですかそんな単語! さっさと忘れてください!」
(ネットも使えないくせにそんな俗語を……!)
「思い出を大切にしてなにが悪いんですか。そんなあやふやなものに惑わされないでください」
「ご、ごめんなさい」
途端縮こまって反省する先輩。後ろ向きでも殊勝なところは相変わらずだ。
おそらく今は唐突な身の周りの変化に追いつけず、感情のメーターが少しマイナス寄りになっているだけなのだろう。きっと安藝先輩も、わかっていないわけじゃない。
いいですか先輩、と弘海はじっと目を合わせながら、
「気に入らないと思ったことも、不満に感じたことも。ぜんぶ先輩のもので、先輩自身です。だから嫌わないであげてください」
「小鳥遊くん……」
「むしろ望むところと言いますか。いやもう勢いあまって歓迎しちゃうぐらいの意気込みというか、心持ちというか、その」
矢継ぎ早に喋りすぎてつい終着点を見失いかけるも、なんとか散らばった言葉を手繰り寄せる。
「とにかく、そうなったらきっと、先輩は無敵です」
なにが、そうなったら、なのか。
それがどうなったら、という意味なのか。
具体的なことはまったくもって伝わっていないはずで、なんなら弘海自身にもそれがどういう意味なのかは曖昧で、だから安藝先輩も今、目の前で困惑したような顔をしているのだろうけれど。
「先輩ならできます。信じてください」
「……」
そんな後輩の、あきれるくらい力技の励ましに……やがて安藝先輩は大きく目を見開いて、驚きの反応を示した。
「信じろ、というのは、小鳥遊くんのことを?」
「へっ? ああ、いや」
(そ、そこ……?)
「ま、まあ......そういう意味も、ないこともないです」
「……そう」
じゃあ、そういう意味がいいわ。
そう呟くと、弘海が握っていたはずの手を返して、安藝先輩は逆に弘海の手を握った。細い指先がつるりと肌をなぞる。ドキリと心臓が跳ねた。
「せ、先輩?」
「小鳥遊くんはさっき、わたしのことを素敵だと言ったわね」
「そ、そうでしたっけ」
「言ったわ。はっきりと」
先輩の手に力が籠もる。その指先は、巣に捕らえた蝶に絡みつくクモのようにしたたかだった。
「もう一度。言ってほしいわ」
「な、なぜ」
「早く励まさないと、わたしはまた自信を失ってしまうかもしれない」
「いやいや……ふつうに恥ずかしいんですけど」
「今更ね。あれだけ青クサい台詞を吐いておいて」
「そんなクサいこと言ってませんよおれ」
「あら。天然ものなのね」
末恐ろしいわ、としみじみ呟く安藝先輩。一体どういう意味か。
とりあえず先輩に引く気はなさそうだった。ついでに指先も絡め取られてしまっていて弘海に逃げ場はない。万事休すである。弘海は覚悟を決めた。
「せ……先輩は素敵です」
「もう一回」
「せ、先輩は素敵です」
「ちゃんと目を見て」
「先輩は素敵です!」
(一体なにをやってるんだ、おれ……)
ただ先輩を励まそうとしていたはずが、いつのまにか主導権を握られついでに手まで握られ、自棄っぱちに口説き文句のような言葉を叫ばされている。どうしてこうなったんだ。
けれど恥ずかしさを押し殺した甲斐もあったか。
安藝先輩はおなじことを何度も弘海に言わせたのち、それはそれは満足そうに微笑んだ。
「なんだか癖になりそうね」
「か、勘弁してください」