(22) 安藝さんちの今日の晩ごはん
「……で。なんでこれなんだ?」
というわけで数十分後。
弘海は米を研いでいた。
なぜ米を研いでいるのかと訊かれれば……なぜだろう。わからない。
わからないが研げと言われたのでせっせとボウルに手を入れて米をかき混ぜている。思えば罰ゲームとは、そういうものかもしれない。この世には罪を犯した者に与えられる罰があり、それは往々にして理不尽なものなのだから。ただ間違いがあるとすれば、弘海は罪を犯したつもりはないし、米は日常的に研ぎ慣れているので罰ゲームにもならないことだ。
「今夜のご飯よ。おばあ様が帰ってくるまでの下準備ね」
と言いつつキッチンで野菜類を刻んでいるのは安藝先輩である。
制服に白のエプロン姿はこんな状況ではあるが目の保養だった。きっと学校のやつらが見たら一も二もなく写真に収めたことだろう。いっそのこと頭を下げて頼めば一枚くらい撮らせてもらえるかもしれないが、そんな勇気は弘海にはない。
「で、なぜそれをおれがやらされているんでしょうか」
「さっきも言ったでしょう? 罰ゲームよ」
「釈然としません……」
と言いつつ米を研ぐ手は休めない。十分な回数混ぜ終わると、水を入れて濁った研ぎ汁を捨てていく。そしてまたボウルの水を入れ替えた。
「そもそもおれ、先輩と話をしに来たはずじゃ」
「正確には、わたしが話をしたくなるまで待つ、だったわ」
「その通りですけど……なんかうまいこと利用してません?」
「なんのことかしら」
安藝先輩は鼻唄でも歌い出しそうな上機嫌さで包丁を動かしていた。まな板のうえでは次から次へと野菜が刻まれていく。見事な包丁使い。これでどうしてあんなに強烈な味が生まれてしまうのだろうか。甚だ疑問である。
「今晩は、おばあ様特製の回鍋肉よ。炊き立てのご飯と一緒にいただきましょう」
「はあ」
「ご飯は少し固めに炊くからそのつもりでね」
どのつもりだろう。微塵もわからない。
「あとアニ研のことだけれど」
「はい」
「わたしも、あなたの提案に賛成するわ」
(え?)
米を研ぐ手が、止まった。
止まらざるを得なかった。
「ああ。それとご飯を炊くときは予約にしておいてね。だいたい七時ぐらいが目安だから」
「えっ……あ、あの、先輩?」
「少しでも冷めるとおばあ様がうるさいのよ。うちは夕飯も早いし」
「せ、先輩!」
言葉を遮るように弘海が名を呼ぶと……、安藝先輩は微笑みを崩さず視線だけを弘海のほうへ向けた。
「なに? いきなり大声を出して」
「な、なにじゃないですよ……先輩今、おれに賛成するって……」
「ええ。言ったわよ。それがどうかしたの?」
「いや、その……」
あまりにあっさりとした回答に、弘海は天地がひっくり返ったような混乱を覚えた。
「先輩、わかってるんですか? おれの提案に賛成するってことは……」
「わかっているわよ」
さっさと下準備を済ませてしまった安藝先輩はレバーを倒し、流れ出した水で包丁を洗い、ついでに手を洗い始める。淀みのない動作。弘海にはそれが、まるで身体に染み付いた習慣をなぞることで心の平穏を保とうとしているようにも思えた。
「どうして、そんな急に……」
「急でもないわよ。小鳥遊くんだってさっき聞いたでしょう? 電車のなかで」
「福留先輩の話、ですか? もちろん聞きましたけど……」
「……先輩の話では、アニメ研究会は最初は正式な文芸部で、元々は作品を書いたり批評をしたりしていたということだったわ。そしてその派生でアニ研は生まれ、やがて手段と目的が入れ替わっていってしまったと」
その声はどこまでも平坦だった。
「だったら積み上げてきた歴史なんて、あってないようなものじゃないの」
「先輩……」
「裏も表もない。ただ部の総意がそこにあって、幸か不幸かそれがだんだん歪んでいって、その流れで形作られたのがアニメ研究会だったとしたら、もうわたしの反論材料は、ひとつも用を成さないわ」
反論の余地なしよ、と先輩は降参を示した。
「スローガンなんてものも、思えば後からできた口実だったのでしょう。ならそれを今一度改めて、元の部の在り方に戻そうという提案に、どうして反対なんてできるかしら」
レバーを引くと、ぴたりと水の流れが止まる。
安藝先輩はエプロンからタオルを取り出して、濡れた手を拭き始めた。
「だからわたしは、あなたの提案に折れることにしたの」
やがて吹き終わった手を自らの背に回して、エプロンを脱ごうとする。
だが、その前に弘海の顔を見て、ぴたりと動きを止めた。
「なんだか……あまり嬉しそうではないわね?」
「へ? ああいや、そんな……」
なんだろう、自分でもよくわからない。
先輩の唐突な手のひら返しに、まだ頭が追いついていないのか。あるいは当初気合を入れて同行してきたぶん拍子抜けしてしまったのか。
「ふふふ、これではどっちが根負けしたのか、わからないわね」
「そう、ですね……」
安藝先輩はやっと愉快そうに微笑んで、いつのまにか外したエプロンを椅子に掛けた。
それと同時に、ガラガラと玄関が開く音。
昭子さんが帰宅したらしい。「帰ってきたわね」と呟くと、安藝先輩はすたすたと歩き、まだ少し放心している弘海の横を通り過ぎた。
「小鳥遊くんは居間に食器を並べておいてくれるかしら? 今日は三人分だから」
「あ、ハイ。わかりました」
大切なはずの会話は、それだけで終わった。
**
そして夕飯となった。
外はもう黄昏時である。
十月は後半に差しかかってもなお暑さの残る気温であり、食事に利用する居間も片側の戸を開けてしまって、縁側からは広い庭が見渡すことができる。解放的と言えばそうだが、広い屋敷に三人分の気配しかない現在にかぎっては殺風景なほどだ。
「「いただきます」」
「はいどうぞ」
畳についた弘海は先輩と声を合わせて合掌した。
対面には安藝先輩がこれまた美しい姿勢で正座し、手を合わせて生命への感謝を表している。相変わらずはっとするほど堂に入った立ち振る舞いは、彼女がこの家で厳しい教育を受けていたことを実感させる。居間と畳と正座がここまで似合う高校生女子はなかなかいない。
「先輩、ご両親は?」
「今日はいないわ」
「成也さんから、今晩は寄合があると聞いていますよ。塔子さんも同行していらっしゃるようで、終わり次第、知り合いの家で一杯やるとのことです。今晩はお帰りにはならないでしょう。それより弘海さん。はいどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
真っ白なご飯の盛られた茶碗を弘海は受け取る。炊き立ての白米は湯気立っていて光を放つかのよう。それを持ち慣れない祝箸をつかって一口頬張る。
「うわあ、美味しいです」
「お米にはこだわっておりますので。たくさん食べてくださいね」
昭子さんが嬉しそうに笑うので、弘海はのせられてさらにもう一口。こだわっていると言うだけあって弘海の家の米とは甘さが違う。それであって食べ応えのある粒立った米は、濃い味の回鍋肉と絶妙に相性が良かった。この家の雰囲気で中華は意外だったが、これはたしかに食べ盛りの客人をもてなすには持ってこいの料理だろう。美味い。美味すぎる。
——と。
(……んん……? あれ……?)
突然我にかえる弘海。
「というかおれ。なんで安藝先輩の家で夕飯を……?」
「どうしてでしょうね」
安藝先輩はただにっこりと微笑んでいた。
「いや! いやいやいやいや……⁉」
思わず立ち上がる。
「どうしたの小鳥遊くん? イヤイヤ期なの?」
「違いますよ!」
と言いつつ「いやいやいや……」と弘海はしきりに首を振る。
「食卓で突然立ち上がるのは品がありませんよ。弘海さん」
「あ、ああ失礼しました…………ってそうじゃなくて‼」
「今日は一段と腕白ね。小鳥遊くん」
ふたりから生暖かい眼差しを向けられて、弘海は一度落ち着きを取り戻そうと再び席に座って、こほんと咳払いを一つ挟んだ。
「呑気に晩御飯食べてる場合じゃないんですよ。おれ、早く帰らないと」
やや恐縮しつつ言い出す弘海だったが……しかし安藝先輩は穏やかに「残念ながらそれは叶わないわ」と首を振った。
「え? なんで……」
「もうすぐ終電が出てしまうからよ」
「へっ」
持っていた箸が指からこぼれ落ちる。
「そ、そんなわけないでしょ? 終電なんて、そんなの早すぎるし……」
「田舎を甘く見てはいけないわ、小鳥遊くん。たとえ来た道を今から走って戻っても、間に合うかギリギリといったところでしょう」
「そ、そんな馬鹿な」
戦慄する弘海だった。田舎ってそんなに恐ろしいところなのか。
「どうやら教えるのを忘れてしまっていたみたいね。わたしも今思い出したもの」
(う、嘘くさ……‼)
「いやでも、おれ帰ってやることが」
「嵐子先生にご飯をつくらないといけない?」
「そ、そうです」
そうだ。うちは母親とふたり暮らしで、食事周りはすべて弘海の担当なのだ。それなのに帰れなくては、あの母親に食事を出す者がいなくなる。
けれど安藝先輩は昭子さんの顔を見て微笑んだ。
昭子さんもまた微笑み返す。
「その件に関してご心配要りませんよ。弘海さん。すでにお母様の了承はいただいておりますので」
「ええ?」
「ついさっき、おばあ様が小鳥遊くんのご自宅に電話したのよ」
弘海は唖然とした。
「『あーハイハイ。どうぞごゆっくり~』とのことでした。弘海さん。良き母親を持ちましたね」
「いやどこがだよ……! 適当すぎるだろ……!」
「さらにうちで一泊することについてもご快諾いただいたわ」
流れるように衝撃の情報を口にされる。
開いた口が塞がらなかった。
「したがって小鳥遊くんは今日、家に帰る必要がなくなったわけね」
「なんだと……」
知らないうちに外堀が埋められまくっている。
それはまるで一手打てば待ち構えていたかのようにその先に一手打ってくる、歴戦の棋士と対峙しているかのような心地で、弘海は初めて先輩に恐怖を覚えた。活路が見えない。
「で、でも、着替えとかは」
「おばあ様」
「こちらに」
阿吽の呼吸で昭子さんが後ろから紙袋を取り出してみせた。そこにはたしかに畳まれた男性用の寝間着らしき服が入っている。
「い、いつのまに」
「さっき買いに行ってくれたわ」
玄関先で昭子さんとすれ違ったときから、すべては仕組まれていたらしい。あのときふたりが内緒で話していたのは、そういうことだったのか。
「来るとき言ってた悪知恵ってまさか……」
「ふふふ」
安藝先輩は確信犯的な微笑みでお茶を一口。
事ここに至り、弘海は自らの未熟さを痛感した。
まさに井の中の蛙。海の大きさも先輩のしたたかさも、尻の青い少年には知り得ず……なんとも情けない話だった。
「食べ終わったらお風呂に入ってくださいね。もう湧いておりますので」
「……はい」
もう、敗北を認めるしかなかった。
**
お風呂の熱さは丁度いいくらいだった。
田舎だから薪で燃やしたりしているんだろうかと馬鹿な想像をしていたが、そこはハイテクの恩恵を受け、ワンボタンでお湯が張る自動タイプだった。
負けを認めてぐったり落ち込んだまま、名誉のなさすぎる一番風呂をいただいた弘海だったが、やはりそこは日本人の性か。肩まで浸かった途端、あまりの気持ち良さにほっと一息つく。
換気扇は最初から駆動していたらしく、ゆらゆらと上っていく霧のような湯気が、一番上のほうであっさり吸い込まれるのが弘海からは見えていた。風呂場は視界良好。
良好すぎてつい、物珍しさから安藝先輩の家の風呂場をこっそり見回してしまう少年だが、だれに見られているわけでもなし、堂々と見回せばいい話である。
「意外と広くない……」
思わずこぼした感想だった。
この家は屋敷のようで、どこもかしかも広々としているが、風呂場は思ったより庶民的に見える。とはいえ、狭くもない。マンション暮らしの弘海の家の風呂場よりは格段に広いだろう。が、やっぱり想像よりは広くなかった。
「淡島くんに言ったらびっくりされるだろうな……」
級友の驚愕顔を思い浮かべて、不意に笑みが漏れた。
あの安藝朱鷺子先輩の家にお邪魔するどころか一泊することになって、現在そこのお風呂に足を広げて浸かっている、なんて。
「先輩は……」
ふと脳裏をかすめる。
エプロン姿の安藝先輩が野菜を刻んでいる姿。
さきほどふたりで交わした会話は、未だ弘海の胸に魚の小骨のように引っ掛かって、いつまで経っても取れずにいた。
弘海が提案したことに、先輩が賛成してくれた。
それはきっと弘海の気持ちが伝わったということだろう。部室では聞く耳を持ってくれなかった先輩が、ようやく考えを改めてくれたのだから。
要するに——喜ぶべきことだ。
なのに気持ちはどこか腑に落ちない。
不完全燃焼というやつだった。
「おれは……」
先の言葉は、いまいち形になってくれず。
弘海は諦めるように水面に顔を沈めていった。
「弘海さん」
風呂場から出て廊下を歩いていると、昭子さんに声をかけられた。
「あ、昭子さん」
「服の大きさはいかがでしょう? 大きくありませんか?」
「いえ。ばっちりです」
(そりゃもう怖いくらい……)
やや疑いつつ差し出された服に袖を通した弘海だったが、果たして寝間着は恐ろしいほど体にぴったりだった。身体のサイズなんて言ったことないのに。
「それはようございました」
昭子さんはにんまりとえびす顔で微笑む。白髪の老人だけど背筋もしゃんとしていて活力を感じる昭子さんは、今は割烹着を脱いでいてとてもリラックスしている様子だ。今から入浴だろうか。そう考えたところで「お部屋にお布団を敷いておきましたので」と昭子さんが言う。
「遠慮せず、お使いくださいね」
「えっと……」
そこで一つ疑問が生じる。当然の疑問だ。
それを弘海は口にした。
「おれの部屋って、どこにあるんでしょうか……?」
「あら? まだ案内されていないのですか?」
はい、と弘海は頷く。
「……? あらまあ、そうでしたか」
昭子さんはなぜか一度不思議そうな顔をした。なにか当てが外れたらしい。そんな妙な間があった。
「では案内します」
こちらへ、と先導されるがまま、弘海は昭子さんの後をついていく。
途中庭に面した廊下を通ると、外はもうすっかり暗くなっていた。田畑の近くだからか、虫の鳴き声がやけにする。けれど逆を言えばそれ以外はなんの音もしなくて。世の中にはこんな静かな町があるのだと弘海は道中大袈裟な感想を持った。
「こちらの部屋でございます」
やがて目的の部屋へ到着を果たし、昭子さんは恭しく戸を引く。
「んん?」
と、そのとき強烈な既視感が弘海を襲った。……が、その正体を理解するより先に部屋のなかの様子が明らかになる。
すぐ目についたのは、壁際に並ぶ巨大な二つの棚。
安藝先輩が購入したと言っていたアニメボックスが整然と敷き詰められたあの棚に、ほかは液晶テレビ、そして昭子さんが準備してくれたであろう布団が中央に敷かれていた。
「こ、ここって、安藝先輩の部屋じゃ……」
「……? なにをおっしゃいますやら」
唖然と立ち尽くす弘海に、本気で眉をひそめる昭子さん。
「ここは朱鷺子さんの物置、もとい書斎でございますよ。元は客室でしたが、このように朱鷺子さんの趣味の犠牲になってしまい、様変わり致しました」
「しょ、書斎?」
「ええ。朱鷺子さんの部屋はもう少し遠くにございますので」
(先輩の部屋は遠くにある……?)
「そ……そういえば……」
と、そこまできて弘海は、やっと案内される直前の言葉を思い出した。
——もちろん部屋よ。
——小鳥遊くんも……気になるでしょう?
(自分の部屋なんて一度も言ってないじゃん……⁉)
はめられた。
あのときから先輩の企みは始まっていたのだ。
己がどこまでも手のひらの上だったことを知り、弘海はがくっと肩を落とした。
「うう……どうせおれは単純な男ですよ……」
「あらあらまあまあ」
なんとなく事情を察したのか、昭子さんが落ち込む青年を見て微笑んだ。
「弘海さんはこの部屋を気に入るだろうからと朱鷺子さんはおっしゃっていましたが……、これは一本取られたようでございますね」
「先輩って……意外と狡猾というか……けっこう悪戯好きですよね」
「ふふふ。たしかに幼い頃は腕白な子でしたね」
本日は何度も意外なズル賢さを発揮している麗しの先輩女子に対して、弘海は頭のなかの「優しい先輩」というイメージが徐々に崩れ去っていく感覚を覚えていた。
「よく動いてよく喋って。泣いて笑って。ほかの子のなかでも一際男勝りな子で、塔子さんも成也さんも、いつも困っておられましたよ」
「先輩にもそんな幼少期が」
素直に驚きだった。
「けれどそれもすぐに落ち着いてしまって……友達と遊ぶことも、いつの日かぱったり、と。気づけばおとなしい子になられて、悪戯な一面も見せなくなってしまいましたね」
昭子さんは、そこで弘海の顔を見上げた。
「だから本日はひさしぶりに童心に帰られたように思います。弘海さんのおかげですね」
「ハハハ……からかい甲斐のあるバカで良かったですよ」
弘海が自嘲っぽく笑えば、昭子さんは静かに首を振って。
「優しいからですよ。弘海さんが」
「……やさしい……おれが?」
「ええ。他人様に迷惑をかけぬよう、幼い頃より厳しく言いつけられてきた子でございますから。そんな朱鷺子さんが、弘海さんをあろうことか家に帰らせぬよう奸計を巡らせるなんて。今までなかったことです」
快挙だと言わんばかりに昭子さんは言葉尻に喜びをにじませた。
「弘海さんに甘えているのですよ。あの子は」
「そう、なんですかね……」
わからない。
先輩のことは、いつだって。
「おれなんか、どこにでもいる普通の奴ですよ」
「では弘海さんは、あの子を幻滅されますか?」
「え? なんでそんな……」
(って……そうか。おれ今、先輩にひどいことされてるんだった)
意図的にこの家に閉じ込められたのだ。
普通なら怒ってもいいことをされている。
けれど。
「しません。幻滅なんか。……さすがに帰れなくさせられたのは驚いたし、そういうことする人なんだって、意外にも思いますけど」
ついでに今までの先輩のイメージも崩れ去ったけれど……。
「そういう一面があることを知れて、おれは嬉しいです」
嬉しい裏切りだってあるのだ。
今日で弘海はそのことに気がついた。
「ふふふ」
その答えに昭子さんは嬉しそうに微笑んだ。
「ほら。優しい」
大事なことを忘れていた気がする。
昭子さんと別れて部屋を出た弘海は、廊下を歩きながら心を整理していた。
自分がどうしてここに来たのか。それを昭子さんとの話で改めて思い出したのだ。
そうだ。自分はまだ最初の目的を果たしていない。なにも果たせていない。
「なんかこの家……涼しいな」
広い家はどこか空気が澄んでいるようで、十月の夜にもかかわらず涼しい空気が常時漂っている。それが弘海には新鮮だった。弘海の住むマンションは人工的に気温が保たれ、基本的に暖かいか寒いかのどちらかだ。けれどこの家はそういったものすべてが自然のきまぐれで成り立っているかのようだ。もしかしたらなにか見えない力に守られているのかもしれない。
「ここって」
開きっぱなしになっている戸から、さっき夕食に利用した部屋が見えた。
部屋は暗く、艶やかなテーブルに月の光が淡く、どこか青みがかった空気が漂う。
そしてその向こう。
縁側へ続く戸も開かれ、そこからは広々とした庭が覗き……。
「……あ」
やがて縁側でふわりと揺れる、艶やかな黒髪が見えた。
「せ、先輩」




