(20) ふくどめカンタービレ
安藝先輩は話したくないと言い、
弘海は話したくなるまで待つと言った。
そんな両者の意向が尊重された結果、ふたりの帰路はかなり無味乾燥としたものになった。
あたりまえと言えばあたりまえだろう。なにせ片方は黙秘権を行使し続け、もう片方は相手が口を開くまで徹底して待ち続ける覚悟なのだから。自然と学問坂を下りるまで一言も会話はなかった。それから道中の信号待ちでも沈黙、駅に到着して改札を抜けてもなお真一文字に引き結ばれた両者の唇が開くことはなく。ここまで長時間無言のまま肩を並べて歩くのは倦怠期に入ったカップルか、もはや言葉要らずの熟年夫婦かだろう。
そんなふたりの間にようやく進展があったのは駅のホームにて。ふたり並んでベンチに腰を下ろし、きたる電車を待っていたときだった。
「……ふぅ、ご馳走様でした」
最後の一粒までご飯を平らげ、弘海は手を合わせた。
まだ人もまばらなホームに豪快な腹の虫が鳴り響いたのは、つい五分ほど前のこと。見かねた安藝先輩から、やや躊躇いがちな所作で青い風呂敷を渡され、弘海はありがたくそれをいただいていた。
残りを車内で食べるわけにもいかないので、野生児のような食いっぷりであっという間に弁当箱を空にしてしまった弘海を、安藝先輩は驚いたように見ていた。
「すごい食べっぷりね。そんなにお腹が空いていたの?」
「これでも体育会系ですから。お腹が空くのは死活問題なんです」
「そう……お弁当、傷んでいなかったかしら?」
「問題ないです。少し臭いましたけど、いつものことだと思えば」
「気のせいかしら。今とても聞き捨てならないことを言われた気がするわ」
今月は毎日のごとく強烈な味と戦っていた弘海の舌は、ちょっとやそっとの刺激では動じないほどには麻痺し切っていた。
「そこまでひどい臭いの日はなかったと思うけれど……」
ともかく期せずして会話の糸口が開いてくれた。弘海はこの機を逃さぬよう、再び沈黙が訪れる前に訊ねた。
「そういえば。先輩はどうしてアニ研に入ったんですか?」
「どうして、というと?」
「いや。うちってたしか表向きは文芸部で通ってるじゃないですか? おれは先輩が見つけてくれたから存在を知れましたけど、先輩のほうはどうだったのかなって」
かつて数少ない情報から弘海のことを生粋のアニメ好きだと見抜いてみせた安藝先輩。そんな先輩とおなじくらいの洞察力を持った人が、もしかして先代にもいたのだろうか、と弘海は妄想しつつ問うたが、果たして返答は意外なものだった。
「先代たちが初めに勧誘したのは、まいるだけだったわ」
「……そう、なんですか?」
「ええ。わたしがアニメ好きであることは、おそらくだれも気づけなかったでしょう。わたしはどうも、色んなものが隠れ蓑になってしまっているらしいから」
優雅なお嬢様然とした安藝先輩は、だれがどう見てもアニメ好きだとは思えない。その身に漂う高貴な空気感はオタクなんて俗称からは一番遠いところにあって、そのことを安藝先輩はなんとなくだが自覚はしているらしい。
「じゃあ、どうやって……」
「わたしが自分で見つけたのよ」
なんとも安藝先輩らしい答えだった。
「部活紹介のときに、どうも違和感を覚えてね。当時はまいるとも初対面だったけれど、一応問いただしてみたら、そのうち口を割ってくれたわ」
突然安藝先輩みたいな人に詰め寄られる猪熊部長を想像して、弘海は密かに笑い出しそうになった。部の秘匿する真実だ。きっとたまらず白状してしまったのだろう。
「当時の上級生たちは、その」
「先々代は卒業、先代は二年の三月で辞めてしまったわ。受験のためにね」
「先輩のセンパイたち、ですか……」
そういえば弘海は会ったことがなかった。弘海にとってアニ研の先輩と言えば安藝先輩と猪熊部長だったから。けれど去年は当然、先輩たちも新入部員だったのだ。
アナウンスが駅のホームに響く。
先輩の乗る電車が遠くに現れた。ホームに立つ人の数もいつのまにか増えている。
やがて、ふしゅー、と空気の擦れるような音を立てて、眼前で電車が止まった。
安藝先輩は、いつのまにか立ち上がっている。
「ついてくる……のよね?」
迷いなく頷き。
なんとも言えない表情をしている安藝先輩を尻目に弘海は立ち上がった。
するとそのとき、
「あれ? 安藝ちゃん?」
先輩の名を呼ぶ声がした。
優しげな声は女性のものだ。ふたりして振り向けば、そこには赤い厚手のカーディガンを着た女性が立っていた。
「これは……福留先輩。おひさしぶりです」
「うん。ひさしぶりだね。安藝ちゃん」
少しふくよかな、けれど穏やかな雰囲気を持った女性は、安藝先輩よりも弘海よりも背が低かったが、服装とその雰囲気から大学生くらいであることがわかる。
「えっと……」
「あ。もしかして新入部員の子?」
弘海の存在に気づくと、女性はやや早足で近づいてきて、
「初めまして。元アニ研部長の、福留志津香です」
愛想のいい笑みとともに、そう名乗った。
**
元アニ研部長にして弘海より三歳も年上の先輩、福留志津香さんは、やはり弘海の第一感通り、ここから三つほど離れた街にある大学に今年から通っているらしい大学生だった。
今は大学からの帰り。いつもはここより手前の駅で降りるはずが、少しばかり車内でうたた寝してしまい、気づけばここまで流れ着いてしまったのだと、妙にぽやぽやした口調で福留先輩は呑気に説明した。どことなく常習犯の匂いが漂う。
そんな偶然か必然か、判別しづらい出会いと再会を果たした三人が、ただ挨拶を済ませて終わっては味気ない。それは全員の共通認識だったらしい。
おなじ車両に乗り込んだ三人は四人掛けのシートに座った。窓際に安藝先輩、その隣に弘海が座って、福留先輩は安藝先輩の正面、窓際の席に腰を下ろした。初めは弘海が安藝先輩の席に座る流れだったが、それをなんとか回避してのこの座席である。なんとなく福留先輩の正面は気まずかったからだ。
「ふふ、なんか小鳥遊くんって、カワウソみたいだね」
「ど、どういう意味でしょうか」
「小動物っぽいってこと。可愛い」
なんてことを言う福留先輩の座高は、弘海よりもはるかに低くて、ほっぺのあたりなんかふよふよと柔らかそうで、よっぽど小動物然としていた。愛想の良さも含めて、なんとなく周囲に愛されて育った感じがするのも、どことなく子犬のようである。
「……ん? というかおれの名前、知ってるんですね?」
「モチのロンだよ。わたしはなんでも知っている」
「福留先輩はまいるから部のことでよく相談を受けているから。その流れで聞いたのでしょうね」
「あーん。ネタ晴らし早いよ安藝ちゃーん」
どうやら福留先輩はかなりお茶目な人のようだ。
不覚にも一瞬、どこかの馬鹿な母親を想起してしまったが、あれはただふざけているだけなのでまったく種類が違う。
「福留先輩は優秀な方よ。当時は部長を務めながら生徒会長も兼任していたほどでね」
「あんまり褒めてもなんも出ないよー?」
と言いつつ満更でもなさそうな福留元部長。
しかし安藝先輩の言には弘海も少なくない驚きを覚えた。
なにせイツ高の生徒会長選挙は熾烈を極めることで有名だ。他校の比にならない数の立候補が毎年各学年から上がり、期間中はあちこちでアピール合戦が見られ、それぞれが精力的に教室を巡り、推薦演説はゆうに二時間を超える始末。ちまたじゃ賄賂が裏で横行していたりするんじゃないかとか、馬鹿な噂も立つくらいにはいろいろと本気だ。
ゆえにイツ校の生徒会長の座は栄誉ある地位として広く知られている。
「生徒会ってアニメじゃ一つのお約束みたいなもんだし。一度くらいやってみたかったんだよね。ほらあるじゃない? メインキャラがみんな生徒会のやつ」
「そんな理由で立候補したんだ……」
「さすがに校内放送で電波ソング流したときは怒られたけど。懐かしいなあ」
破天荒だ。この人。
「まあふたを開けたら事務作業ぱっかで、全然アニメみたいな感じじゃなかったけどね」
「それでも激務と言われるイツ校の生徒会長をこなしながら、アニ研の部長としての責務をまっとうした福留先輩は尊敬に値します」
「やだなあ。だからなんも出ないってー」
またしても満更でもなさそうな先輩であった。
そんな人が今や電車寝過ごしの常習犯であることも弘海は忘れていない。きっといろんな意味で愛された会長だったのだろう。
「にしても、ホントひさしぶりだね。安藝ちゃん元気してた?」
「はい。福留先輩のほうも、ご壮健なようで」
「まあね。こうして喋るのって一年ぶりぐらい?」
「そうですね。先輩方は皆さんご多忙で、送別会を開く暇もありませんでしたから」
「うわ。そうだったよ。ごめんねー。あのときはなんか無駄に慌ただしくて」
「いえ」
ふたりの会話を横で聞きながら、弘海は「ん……?」と首を傾げた。
安藝先輩は元部長のことを慕っていて、福留先輩も可愛い後輩に親しんでいる。なんでもない元部員同士の風景だ。
なのになぜ、今自分はささやかな違和感を覚えたのだろう?
(——そうだ。違うんだ)
弘海は気づく。
おのずと比較したのは弘海たち後輩と、猪熊部長たち先輩との距離感。
弘海にしてみれば先輩たちとの関係なんて近くも遠くもなく、部活中もつかず離れずの安心できる距離感があった。それはきっと弘海の知らないところで先輩たちがいろいろと考え、気を回してくれているからなのだろう。時に歩み寄り、時に突き放すようなバランスで、今のアニ研は回っている。
目の前で談笑するふたりも、まあ似たようなものだ。
けれど一方でどこか決定的に違う。なにが違うのかは不明だ。ただ一定の距離感に揺れはなく、まるで平行線のうえに立ち対岸同士で会話をしているような寂しさが漠然とあった。それを生んでいるのは果たして、目上に忖度して主導権を譲る安藝先輩か、マイペースをつらぬく福留先輩か。
「そういえば知ってる? 藤村くん、今大学でゲーム制作してるらしいよ」
「藤村先輩が、ゲーム、ですか……?」
疎い話題だったのか、安藝先輩は眉をひそめる。
「うん。サウンドノベルってゆーやつ。要するに同人ゲームだよ。おなじ大学の何人かで集まってさ。『鋭意製作中! 出来たら後輩たちに見せたい!』って楽しそうに豪語してたよ」
「そう、ですか」
「いいよねー。そういうのって」
安藝先輩は同意も反意もしなかった。
「安藝ちゃんたちは? 今はなにをしているの?」
「恒例の合評会が終わって、少し前までは学園祭の出し物の準備をしていました」
「うちが出し物? 珍しいね。なにやったの……って。あ、待ってね」
当ててみるから、と福留先輩は思案顔で腕を組んで、
「文芸部っていうのもあるからね。やっぱりみんなで短編でも書いたんでしょ……⁉ どおどお……⁉」
「ハズレです」
「いやー、違ったかあ」
無邪気に残念がって「じゃあなにをつくったの?」と訊く。
安藝先輩はすかさず流暢に答えた。
「簡単なチラシです。『おすすめの作品』というテーマで、各々の好きな作品を紹介、および好きな部分を発表する冊子をつくりました。これなら文芸部としての体裁は保てますし、なによりアニ研の『好き』を語るというスローガンにも則ることができます」
種明かしをするように語った安藝先輩はどこか誇らしげに思えた。アニ研の表面と裏面、どちらにも沿った見事な折衷案だろうと胸を張るような声にも聞こえたのは弘海の気のせいではなかっただろう。
「えっ? まだそんなことやってたの?」
けれど。
「…………ぇ……」
誇らしげな声は、一瞬で消え入るような声になり果てた。
たとえば突然足元の床が抜け落ちたなら、こんな声にもなるかもしれない。
そして抜け落ちたこと自体に、彼女はまだ気がついていない。
「あっ……ご、ごめんなさい! わたし今すごくヤな言い方を……」
焦ったように両手で口を覆う福留先輩。
「……」
安藝先輩は半ば放心状態だ。
「ち、違うの。そういう意味じゃなくて、今のは……ほら、もうそろそろ、自分たちで作品を書いたりしてるものだと思ってたから、その……」
「ちょ、ちょっと待ってください」
今のは聞き捨てならない。
「自分たちで書いたりとか、そういうのアニ研ではやらないんじゃないんですか?」
「そ、そうだね。でもアニ研って、文芸部でもあるから」
「……? それって、どういう」
意味がわからないと弘海は首を傾げる。そんな部に入ったばかりの後輩に、OBである福留先輩は噛んで含めるように教えてくれた。
「元々アニ研って、文芸部の派生だったの。初めはお互いの作品の批評ばかりしてて、でもそれだと部員の仲がだんだん悪くなっちゃったから、それを見かねた当時の部長が、好きなところもちゃんと語れるようになろうって言って始めたのが、アニメ研究会」
「アニ研が……後から? でも文芸部は仮の姿だって」
「部員たちの意向で、いつのまにかそうなっちゃったの。だから七年前から正式にアニメ研究会って名前で活動するようになって、それが今も続いているって感じだね」
寝耳に水、どころか起き抜けに硬い氷までぶつけられた気分だった。
「部員たちの意向、っていうのは……」
「うーん。その辺りの事情は詳しくは知らなくて」
福留先輩は「ああ、でも」と続けて、
「予想ぐらいならできるというか。やっぱり、そういう流れになっちゃうのが必然なんじゃないかな」
「な、なんでですか?」
「だって、好きなことを話すって楽しいじゃん」
それは子供でもわかるような、至極単純な答えだった。
「好き好きに話しても、部の活動ならみんな耳を傾けてくれるし。それって、けっこう得難い場じゃない?」
わたしも三年間楽しかったな、と先輩は朗らかに笑ってみせる。
「アニメ研究会って名前にしたのも、そういうことなんだと思う。小説も楽しいけど、やっぱり難しいし。アニメのほうが話しやすいから。都合が良かったのかも」
その朗らかさはまるで屈託がなさすぎて、ほかのだれかにとっては毒にもなり得そうだと、弘海は思った。
「そんな話は……聞いたことがありません」
たとえば茫然と呟く、安藝先輩にとっても。
「入部してから、そんな話は一度も」
「小野原先生は聞かないと教えてくれないから」
(またあの先生か……)
けれど今回ばかりは手抜きとも言えない。部の意志は一方を向いていて、それを尊重する立場の小野原先生が今更むかしのことを掘り返してわざわざ伝える必要もないだろう。
「だったら先輩。さっきの『まだ』っていうのは、どういう意味なんですか?」
三年間アニ研に属し、ずっと部長として手綱を握り、しかし一度も部の方針に異を唱えずただ活動を楽しんでいた福留先輩が、なぜそのまま地続きで活動する現在のアニ研の在り方に、疑問を持ったのか。
「それは、その……」
ちら、と福留先輩は弘海の隣を一瞥する。
それから少しバツが悪そうに笑った。
「わたし、まいるちゃんと安藝ちゃんは、そういうのがやりたいんだろうなって、思ってたから」
「え……?」
がたり……、と車内が少しだけ揺れた。
小さな揺れは四人掛けのシートに座る弘海の臀部に伝わって、きっと、かすかに動揺の声を発した安藝先輩にも伝わっていただろう。おそらくそれに、気づいてはいないだろうけれど。
「ずっと、無理してるんだろうなあ、って思ってたの。どこかで遠慮して、ただ談笑したいだけのわたしたちに合わせてくれてるんだろうなあ、って」
そういう、ことか。
弘海は今やっと、このふたりの間に漂う違和感の正体が、わかった気がした。
「だから送別会とかもちょっと気まずくて。……ごめんね安藝ちゃん。あのときわたし、ちょっと薄情だった」
「福留先輩……」
「わたしは、あの頃も今も、そういう熱量はあまりピンとこなくて。楽しいのが一番じゃんって思ってたんだけど。……でも、今の藤村くんたちの活き活きした顔を見てるとさ、ちょびっとだけ『ああ、こんな感じかな』って思うよ」
「お、おれも……!」
ここはきっと自分が発言するところではない。
頭でそうわかっていながらも、弘海は勢い込んで身を乗り出した。
「福留先輩の気持ち、少しだけ、わかります」
「小鳥遊くん」
そんな、小さな小さな後輩の暴挙に、福留先輩は目をまん丸にして、当然びっくりした顔をしていたけれど……、
「うん。ありがと」
最後には、やっぱり笑ってくれた。




