(19) 未解決で進行形
その日の夕暮れ。
マンションに帰宅した弘海は学生鞄を下ろす暇もなくリビングで立ち尽くしていた。
「……つまり、どういうことなんだ?」
弘海の対峙する先には、食卓用のテーブルで足を組んで座っている不肖の母親。優雅にコーヒーなんか淹れちゃって、マドラーでミルクやら砂糖やらをくるくると掻き混ぜながら、もったいぶった仕草でこちらに視線を向けてくる。
「つまり、まいるちゃんはあたしの娘になったのよ」
「寝言は寝て言えよ」
地の底よりも冷たい声音で一蹴した。
弘海のあきれきった眼差しには、この母親とうとう頭がおかしくなりやがったか、という憐憫の色すら浮かぶ。そこに母親に対する信頼はひとかけらもない。
「あ、あの」
そんな部屋中に不穏な空気が立ち込めるなか、あわあわと成り行きを見守っている少女が一人。猪熊部長だ。服装は学生服のまま、リビングに入ったときと同じ立ち位置で居心地悪そうにしている。彼女はたまらず口を開こうとしたようだが、交差する視線で火花を散らすふたりの間には入っていけず、ついに引き下がってしまう。
「なによー。嬉しくないわけ? まいるちゃんみたいなお姉ちゃんがいれば、あんたの灰色の日常もようやく鮮やかに色づくかもしれないのよ?」
「だれが灰色だ。勝手に決めつけんな」
「ツンケンしちゃってぇー。ああ、もしかしてそれ弟ムーブってやつ? お姉ちゃんにかまってもらいたくてわざとムカついた振りしてます、的な?」
「違ぇし。ムカついてんのはあんたにだよ!」
頼むから一度口を閉じてくれとお願いすると、風香はすぐに黙って悠然とした仕草でコーヒーに口をつけた。色々と掻き混ぜられたベージュ色の飲み物はすっかりカフェオレになっている。五百蔵さんが見たら顔をしかめそうだ。しかし昔から舌が子供っぽい母親は「ふぅ……」と精一杯優雅を演出していて、満更でもなさそうなのが余計に腹が立つ。なんで喋ってないのにこんなに人をイラつかせることができるんだ。
「馬鹿なこと言ってないで、さっさと説明しろよ。ったく……」
「ホントだもん。養子のことは」
「はあ……?」
「養子ではなく、弟子ですけどね」
いよいよ困ったような笑みで口を挟んだのは、猪熊部長だった。
「弟子って、どういうことですか?」
「わたしが少し前にお願いしたんです」
お恥ずかしい話ですが、と恐縮しながら部長は説明を買って出てくれた。
その説明に寄れば、なんでも初対面のときにお互いの連絡先を交換して以来、ふたりは頻繁に連絡を取り合っていたのだという。
「先生はずっとわたしの話に付き合ってくれていて、時々意見もいただいていたんです」
「意見っていうのは」
「はい。創作の意見です」
猪熊部長は一瞬、バツが悪そうに視線を逸らした。
「部長、書いてたんですか……」
「中学のときから、ほんとうに時々……まあ下手の横好きですが」
「んなことないわよ。まいるちゃんにはちゃんと才能がある」
風香は元来嘘がつけない性格で、本音かどうかは息子の弘海でなくともわかりやすい。単なる励ましでないことは明らかだった。猪熊部長は視線を落として少し頬を赤くした。
「それがわかったから、うちに招待してたんだもん」
「ちょっと待て」
今のは聞き捨てならない。
「招待……してた?」
旦那の浮気を疑う正妻のような眼つきで弘海はふたりをにらんだ。部長は断罪を待つかのように下を向く。風香がなんの反省もなく白状した。
「ええ。来てたわよ。この部屋に。休日はほとんど毎週」
「なんだって!」
(部長がうちに毎週通ってた……⁉)
そんな気配は微塵もなかったのに。馬鹿な。
「ぶ、部長……今の話は……」
「事実です」
バサッっ、と猪熊部長は勢いよく頭を下げた。
「すみませんでした。今まで黙っていて!」
「まいるちゃんは悪くないわよ。あたしが息子には黙っといてって言ったんだから。つーかあんたも気づかなすぎ。そんなんじゃ将来、間男にもたやすく侵入されちゃうわよ?」
「なんの話だよ! てか開き直ってんじゃねえ!」
盗人猛々しいとはこのことか。いやこの場合盗人は部長になってしまうから違うのか。いやどちらでもいいし、そんなことはどうでもいい。
「てか、そういうのって小説家的にどうなんだよ」
「べつにいいでしょ。お金取ってるわけじゃないんだし。あんただってまいるちゃんには世話になってんでしょ? あたしは愚かな息子の代わりに恩返ししてるだけよ」
「ぐぐ……」
言い返せない。どう聞いても屁理屈なのに。
「ぶ、部長もいいんですか? こんな日陰者の作家なんかが師匠で」
「オイコラ」
「いいもなにも……わたしにとっては憧れの先生なので。そんな方に意見をいただけるどころか直接指導してもらえるなんて、わたしには分不相応といいますか」
「まいるちゃんは自分を卑下しすぎ。ちゃんと熱意を持って取り組んでることは、文章を見ればわかるんだから」
「熱意を、持って……」
ややあって、弘海は肩身を狭くしている小柄な先輩を見やった。
「部長は、もしかしてずっと」
「ご、誤解しないでください」
慌てて部長はかぶりを振る。
「わたしはアニ研の活動に不満を抱いたことはありませんよ? 部の在り方に、疑問を覚えたことなんて一度も」
しかし言葉とは裏腹に、その声には揺れがあった。
「でも、遠慮がなかったかと訊かれると……嘘になってしまう。と思います。さっき部室で、小鳥遊くんの話を聞いて、そのことに気づきました」
「それで、手を挙げてくれたんですか?」
猪熊部長は、皮肉げに笑って、
「もしかしたらわたしも、見えないようにしていただけなのかもしれません。部長としての責務を言い訳にして、空気を読んで、みんなとおなじようにって」
「部長……」
「だからありがとうございます。小鳥遊くん。勇気を出してくれて」
部長の笑顔はまだぎこちなかったけど。
その言葉だけで弘海はどこか、救われたような気がするのだった。
「うっしゃー! こうなったらあとは、あのオッパイちゃんを攻略するだけよ!」
「次その呼び方したら晩飯抜くぞ」
途端に風香はおとなしくなった。食事を人質にされてはダメらしい。
「茜谷さんもいますけど……」
「ギャル子ちゃんは流されやすいタイプだからダイジョーブよ。なんとかなるわ」
(茜谷さんに謝れ)
「じゃあ頑張りなさいよ! すべてはあんたの手にかかってるわ」
「は? なんでおれだけ……」
部長だっているんじゃ、と視線を向けると、猪熊部長は静かに首を振って、
「わたしが話すと、また遠慮してしまうと思います。それにきっと、小鳥遊くんの声なら、朱鷺子ちゃんも耳を傾けざるをえないかと」
「な、なんでですか……?」
疑問を口にしただけだったが、部長はなんだか神妙な顔つきで見つめ返すだけで、なにも言ってくれなかった。
ええ? と弘海は首を傾げる。
カン、とマグカップを置いた風香が、深々とため息をついた。
「この朴念仁が」
「……ですね」
「ぶっ、部長まで⁉ な、なんなんですか? なにが、どういう……⁉」
そんなこんなで。
アニ研の一存は弘海に託されてしまった。どうしてだ。
**
話し合うという行為について、小鳥遊弘海はちゃんと考えたことがない。
きっと大多数の人々がそうだろう。だれも彼もみな、物心ついた頃から当然のように言葉を交わし、それをわざわざ改めて意識することなどない。会話という二文字の意味は辞書を引く前から知っていて、その手段はいつのまにか備わっている。
まして弘海はまだ十五歳の少年。その眼には生まれてこのかた「前」以外のものを映したことがなく、一度原点に立ち返って思考を巡らせるような暇なんてないくらい、とにかく毎日がいっぱいいっぱいだった。
けれど。
半年に一度くらいのペースでふと、そういう益体のない思考がよぎる時間が、たしかにあって。それは決まって数秒程度のたそがれに終わるのだが……ここ最近は、その都度思うことがあった。
安藝先輩なら、どんなふうに考えるのだろう。——と。
自分より一学年の上の先輩。一つ年上の女性。たかが一年違いで、おなじ多感な時期に考えることなど知れているのかもしれないが、それでも弘海にはその一年の差が、途方もなく大きなものに思えてならない。
そしてお互いの考えがすれ違うたび、弘海はその差をひどく痛感するのだ。
(だから、話し合うんだろ)
翌日の昼休み。
四時限目のチャイムの余韻がまだ遠くで続いている。そんな頃合い。
「……よし」
弘海は決然と立ち上がった。
第三者から見れば告白でもしに行くような面構えに思えただろう。なかにはその先の校舎裏であえなく玉砕する未来まで視えた者もいるかもしれない。弘海は朴訥とした少年で、実直さが取り柄なのだが、基本的にどこか頼りないのだ。
「やけに緊張してるじゃない」
「うおっ」
彼女もそんなふうに思ったうちの一人なのだろう。
いつのまにか弘海の横に立っていた五百蔵さんは、なんだか神妙に腕を組みながら弘海の顔をじっと見上げていた。
遅れて、ざわ……、とした教室の騒めき。あの転校生がクラスメイトにみずから喋りかけるなんて、と珍妙な光景を前に教室が張り詰める。だが弘海の顔を見つめる五百蔵さんはまるで意に介していないようだった。
「さながら戦場に赴く敗残兵の顔つきね」
「な、なんで赴く前から敗北してるの」
「そんぐらい悲愴な表情だってことよ」
弘海としては決意の表情のつもりだったのが。どうやら知らぬ間に当たって砕けろ的な特攻の顔つきになってしまっていたらしい。
「安藝先輩のとこ行くんでしょ。そんな顔じゃびっくりされるわよ」
「……もしかして五百蔵さん。心配してくれてる?」
「まあ一応、あたしが引っ掻き回したようなもんだしね」
ちら、と顔を逸らしながら五百蔵さんは言う。
「そっか。ありがとう。気にしてくれて」
「…………やっぱ調子狂う」
「えっ?」
「なんでもない」
なんと呟いたのか。急で聞き逃した。慌てて訊き返そうとすると、それより先に五百蔵さんが「あんまり気負わなくても大丈夫よ」と気を取り直すように言った。
「一度勇気出したんでしょ。あんた」
「五百蔵さん……」
「だったら大丈夫よ。……たぶん。知らんけど」
(最後のは余計じゃないか?)
弘海は苦笑いを浮かべた。
**
(マジか……)
弘海が内心で呟いたのは、それからおよそ四十分後のことだった。
断罪を下すような予鈴のチャイムを聞き流しながら、弘海はだれも訪れなかった殺風景な文芸部室を見回した。
安藝先輩自作のお弁当をいただくのはここ最近の恒例だった。弘海は先輩と話すため、なんの疑いもなく部室で待機していたのだが……、なんと予想に反して待ち人来たらず。ついぞ顔も合わせないまま昼休みが終了した。
事ここに至って弘海はいよいよとある可能性について吟味した。
要するに「おれ、避けられてない?」である。
いやいやあの優しい先輩に限ってそんなそんな、と弘海は馬鹿な想像をした自分を鼻で笑ったものの……そもそも本当に優しい先輩なら、なにかあったとしても一声くらいかけてくれるはずだ。やはり昨日のことで怒っていると思ったほうが納得できる。
そんな想像が現実味を帯びてきたのはその日の放課後、テニス部に参加する前に一度、二年の教室を訪れてみようと思い、席を立ったときだった。
「小鳥遊くん、急いでください」
いきなり切羽詰まった感じで猪熊部長に声をかけられて、弘海は「うおっ!」と昼休みにもしたような反応で仰け反った。そして驚きに瞬きを繰り返す。
「な、なぜ一年の教室に部長が……」
「さっきホームルームが終わったんです。ちょっぱやで来ました」
「ちょ、ちょっぱや……?」
時代遅れな言葉遣いが思わず飛び出ているのを鑑みるに、なにか状況が切迫しているのは明らかだった。その証拠に猪熊部長はまるで間を置かない。
「そんなことより小鳥遊くん。もしかして昼休みは朱鷺子ちゃんと話せなかったんじゃないでしょうか?」
「ど、どうしてそれを」
「朱鷺子ちゃんは昼休みに教室を出ていましたが、ずっと小鳥遊くん用の青い風呂敷はカバンのなかでした。それで」
探偵のごとき洞察力である。まったくその通りだと弘海が頷くと、部長はキラリと縁なし眼鏡を光らせる。
「では早急に会いましょう。朱鷺子ちゃんはさっき足早に教室を出て行きました。それはもう見たことがない歩行速度で。まるで競歩選手です。圧巻です」
「その情報は本当に必要ですか」
「とにかく追いかけてください。できれば全速力の競歩で」
「いや普通に走りますから……」
とにかく部長が焦っているのは明白だった。つくづくアドリブに弱い人である。
「お? 小鳥遊くん帰る感じ?」
「ごめん。山吹くん。おれ、どうしても今日は」
「無問題。イワセンには上手く言っとくから、安心しろよ」
気のいい笑みを見せる山吹くんに感謝を告げて、弘海は一息に教室を飛び出す。
通学路の坂道で、やっとその後ろ姿が見つかった。
帰宅途中の生徒の何人もごぼう抜きした末に、滑らかに揺れる長い黒髪をやっと視界に認めた弘海は、もはや坂道を転げ落ちる勢いでその背中を目指した。
「先輩!」
麗しの先輩女子は、ぴた、と立ち止まって後ろを振り返った。
「小鳥遊、くん?」
「はぁ、はぁ……やっと会えた……」
両膝に手をつき、ひとまず呼吸を落ち着かせる。
そんな息も絶え絶えな年下の後輩を、安藝先輩はハトが豆鉄砲を食らったような顔つきで見下ろしていた。見事に眼を丸くしてパチパチと何度も瞬く。さしもの『女優の微笑み』もこの事態にはかたなしの様子だ。というか普通に驚いていた。
「なんかおれ……最近走らされてばっかな気がします」
「そう、なの?」
と素直に返答してしまってから、安藝先輩は思い出したようにハッとした。そして「……コホン」と気を取り直すように咳払いを一つ。
「な、なんの用かしら。そんなに急いで」
「先輩と、話をしに来たんです。部のことについて」
「い……今は、話したくないわ」
くるり、と背を向けてしまって話を拒む安藝先輩。その立ち姿こそ美しく、いつも通り背筋もぴんと伸びているけれど、その動きはそっぽを向く子供のようだ。
それを見た弘海の身体のなかで、カチ、となんらかのスイッチが入る音がした。
あるいは、それは覚悟が決まる音だったのかもしれない。
「なら。話したくなるまで待ちます。いつまでだって」
「……そんなに積極的な人だったかしら。小鳥遊くん」
「わかんないです。でも今のおれは割と、イイ波に乗っています」
「そ、そうなのね」
安藝先輩の頭上に「?」とはてなマークが浮かぶのが視えた。けれどそんなことは今の弘海には気にもならない。
どうも五百蔵さんの言葉は的を射ていたらしい。一度勇気を出してしまえば、なんだか目に見えない力に押されるみたいに手足は軽快に動くし口もよく回る。絶好調という言葉は、こういう状態を指すのかもしれない。
「それに今日は、先輩にだって責任があるんです」
「んん……たしかにわたしは今日、まいるのことも小鳥遊くんのことも、避けてしまったかもしれないけれど……」
「違います。そうじゃないです」
やれやれと首を振ってみせると、先輩は「え……?」と声を漏らした。
「お昼ご飯ですよ。忘れちゃったんですか? 毎日先輩がつくったお弁当をご馳走してもらえる約束でしたよね?」
「え、ええ」
「なのに今日はいただけませんでした。おかげでお腹ぺこぺこです」
「それは……悪いことをしたわね」
「過ぎたことはしかたありませんし、責める気もないです。ただ、その件で先輩には少し責任を取ってもらいたい、という口実はできます」
「口実なのね」
勢い余って口を滑らせた。が、激しい運動と空きっ腹でアドレナリンをドバドバと分泌させた弘海にとっては些末な墓穴だった。
「そうですけど。先輩は無下にはしませんよね?」
それにきっとこの人は、こういう方向から攻めるほうが正しい。
その証拠にほら、たまらず安藝先輩は顔を逸らしてしまって。
「……わたし、電車通学なのだけれど」
「ついていきます」
いつになく強引な弘海に、やがて観念したように息をつくのだった。