(15) ようこそ作品至上主義の教室へ
冷や汗が、止まらない。
テラスから吹く涼しい風も発汗を緩めるには力不足だった。風香の仕立ててくれたカットソーの通気性ではしかたない。むしろ流れた冷や汗がくっついて余計に気持ち悪いくらい。帰ったら文句でも言ってやりたい。
目の前にはプリントアウトされた紙の束。言うまでもなくこれからみんなで評価をし合う対象の作品だ。それも作家を志す者の心血が注がれた大切な作品。かなり力が入っているだろうことは何度も目を通した弘海には重々理解できている。それに対して今から自分は評価を下すのだ。
(ムリだろー)
何度も言うがこちとらズブの素人だ。アニメが好きなだけのただのオタクなのだ。志もへったくれもない。そんなやつが向上心あふれる作品に、あろうことか『評価』なんて。無理すぎる。
しかし今さら悩んだとて時すでに遅し。逃げるタイミングを逃しに逃し、へらへらと場違いな集まりに参加してしまって今現在、弘海はなんだか高級そうなダイニングテーブルのお誕生日席に座って、だらだらと会社倒産寸前の社長のごとき絶望の面持ちで持田さんが戻ってくるのを待っていた。
(そうだ、持田さん……)
ふと思い出したのは、今回の作者のことだ。
(焼畑もえって、女の子の名前だよな?)
現在参加しているメンバーのなかで女性は三人。五百蔵さんを除外するとふたりだ。さらにこのじめじめとした暗い話はイヴには合わない。とするとやはり、この作者は持田さんだ。
(持田さんならそもそもおれに興味なさそうだし。おれがなんか言っても、さらっと受け流してくれるんじゃ……)
悲しいかな、そんな哀れな観測が今や弘海にとって一縷の希望だった。
「戻ったよー」
「うぃーす」
戻ってきた持田さんに続き現れたのは、黒キャップを被る坊主頭らしい青年だった。遅れていたという、最後のメンバーだ。
背丈の程は丁度弘海と同じくらいか。浅く日焼けした肌とハーフのように堀の深い顔立ち、俊敏そうな手足の長い身体付きはモデル体型だ。それに紺色の長袖Tシャツと黒のデニムジャケット、下は細めのジョガーパンツを穿いているのだから、一瞬で弘海の頭には「ラッパー」やら「ヒップホップ」やら縁のない単語が浮かんでは消えていく。
「もう全員集まってんのか。早えなオメーら」
「あんたが遅いんでしょーが。てかなんで頭丸めてんの? 正気かよ」
「今日は凄まじく近寄りがたい格好だね~? 孝介くん、もしかしてラップでも始めるの?」
孝介と呼ばれた青年は遅刻を悪びれるふうもなく「んー?」とキャップのつばを摘まんだ。
「こういう服装が好きだって、日曜日の綾名さんが言うからよ。しゃあねーからさっきまで着せ替え人形になってたんだ。ちなみにこの坊主は水曜の智冬さんに野球部入ってほしいって言われたんでしゃーなしだな」
「は? まさか入部したの? バカでしょ」
「オンナの要望はできるだけ受け入れてやんのが、オトコの技量ってもんだろ」
「イミフねー」
まったく会話についていけない。「に、日曜? 水曜……?」弘海が頭を悩ませていると、比良坂さんがこっそり教えてくれる。
「孝介くんには曜日毎に恋人がいるんだよ~」
な、なんだそれ。
「それも全員年上の女性で大学生から社会人から夫のいる奥さんまでね~」
「し、シフト制恋人……てか、最後のは不倫じゃないんですか……」
「愛さえありゃどんな困難でも乗り越えられるって、オレは信じてんだ」
色男はキメ顔でそう言った。カッコいいようでその実軽薄すぎる発言に危うく空気がピリつきかける(主に女性陣の表情が険しい)ものの、沈黙を脱したのもそんな彼だった。
「そんで? なんだよコイツは?」
「コイツ言うな。あんたとタメよ」
「きょ、今日だけお邪魔してます。小鳥遊弘海です。よろしくお願いします」
「弘海くん、お母さんが作家さんなんだって~」
「へぇぇ……俺は畑孝介ってんだ。覚えとけ。……言っとくが、俺はオマエのバックにどんな奴がついていよーが甘やかすつもりはねえからな? オレは野郎には厳しいんだ」
「えぇ……」
無性に帰りたくなった。
たぶんこの人とは合わない。いや絶対に。本能が告げている。
「なに怖がらせてんのよ」
「ゲッッホ……ッッ!」
五百蔵さんが畑くんの頭頂部にナニカを振り下ろす。ベシッ、と派手な殴打音はよく見ると用紙の束だった。容赦なさすぎる。
「お、オマエなぁぁ⁉ シャレになんねえ衝撃だったぞ……ッッ⁉ つーかオレの渾身の作品を鈍器にしてんじゃねえよ‼」
「丁度よかったから」
畑くんは涙目で頭を押さえていた。少し可哀想に思えてくるが「というか……」すぐにそれどころじゃなくなった。
「今……オレの作品、って……」
(待てよ……畑孝介……はた…………焼畑?)
「まさか焼畑もえって」
「ん? オレのペンネームだな」
(マジかよ……!)
がっくり、と項垂れた弘海を見て、畑くんは「あん?」と首を傾げていた。
**
「それにしても、相変わらず畑くんの作品は暗いわねー」
そう言ったのは司会進行役にして年長者である持田さんだった。
各々が決められた席に座り、それぞれが準備を終えた頃の一言である。ちなみに誕生日席の弘海から見て左側に比良坂さんと毛利くん、右側に五百蔵さんと持田さんが座っており、とくに個人的に気になっていた畑くんの席は、なんの陰謀なのか、弘海の真正面の席であった。各々に定位置が決まっていたようなのでしかたないのだが、さっきから畑くんの鋭い目つきがずっとこちらを射抜いていて、今すぐにでもだれか替わってほしかった。ちなみにイヴは今もテラスでベニーちゃんとたわむれている。メンバーなのにいいのかと思ったが、五百蔵さんが「あの子はあれでいいの」と言ったので、あれもある意味で定位置らしい。
「つーかふつーに陰湿でしょ。最後まで救いなさすぎ」
「ホントよくここまで自分のキャラを酷い目に遭わせられるよね~。僕はもっと青春っぽいのが好きだから今回のも堪えたよ~」
「なあに言ってやがんだ。オレはイヤミスの帝王になるオトコだぜ? まぶしい青春なんか書いてどうすんだよ」
「いやみす……?」
聞き慣れない単語に首を傾げると、畑くんが「なんだあ?」とあきれ顔になった。
「オマエはそんなことも知らねーのか?」
「ミステリーのジャンルよ。読んだあと嫌な気持ちになるミステリー。だからイヤミス、俗称だけど」
「へ、へぇ……」
(そんなジャンル、だれが読みたがるんだ)
「そんなのだれが読みたがるんだって顔ね」
弘海の思考はバレバレだった。五百蔵さんは浅く息をつく。
「近年は一つのジャンルとしてかなりの人気を誇っているわ。事実として去年に本屋大賞を取ったのも『仇花』っていうタイトルの、いわゆるイヤミスの作品だったし」
「おっ、なんだ悠、知ってんじゃねえか」
「佐藤阿弥先生でしょー。わたしも読んだわ。もう怖くて最悪だったー」
「さ、最悪……でも、持田さんは全部読んだんですよね?」
「そりゃねー。おもしろいから」
怖いのにおもしろい。一体どういうことなのだろうか。首を捻る弘海をみかねた畑くんがやれやれといった感じで教えてくれた。
「イヤミスってのはな。よーするにスッキリしねえのが醍醐味なんだよ」
「すっきり、しない?」
「どんな凄惨な事件が起きようが、最後には主人公の手で綺麗さっぱり解決しちまうってのが従来のミステリーの傾向だったんだ。そうやって読後に満足感があるようにってな」
だがイヤミスは違う、と畑くんは言う。
「単純に事件を解決するだけじゃねえ。その奥に潜むイビツな人間関係や、歪んだ人間の心理を気持ちわりーぐらい巧みに書いて、読者の『見たくねえ』っていう感情を刺激するんだ。だから最強のジャンルなんだよ」
「いや、見たくなくなっちゃったらダメなんじゃ」
「ああ? なに言ってんだ」
畑くんは腕を組んで勝気に笑った。
「『見たくねえ』もんは『見たくなる』のが、ヒトの性だろ?」
(んん……)
言い返すことができなかった。
「あんただって、最後まで読んだんでしょ? 孝介の作品」
五百蔵さんの言う通りだ。活字にも慣れていない自分があんな短時間で重たい作品を読めてしまったのは、まさしくその『見たくない』に囚われてしまったからだろう。
「人間は罪悪感によえー生き物だからな。嫌な汗かきながら読む手が止まらねえ、止まらねえのに待ってんのは残酷な展開だけ。そんでどいつもこいつも救われねー結末で終わって、読んだあともモヤモヤが残って……そんでずっと、いつまでも気持ちわりぃ後味に縛られ続ける。こんなに人の心を呑み込むジャンルはほかにはねーよ」
「だから、好きなんだ? 畑くんは」
「ああ。いつか俺の作品で、読んだやつら全員の心を吞み込んで、そいつらの人生に一生消えねえ傷痕を残してやんのが、俺の野望さ」
ぎらついた眼つきで畑くんは野心を燃やす。やっぱり変な人だとは思ったが、これが畑くんの本心なのだろう。
「というわけで本日は、そんな畑くんの作品をボロクソに叩いていこうと思いまーす」
(え……?)
ぱん、と両手を合わせた持田さんがそう言う。それはもう、とてもイイ笑顔で。
「あ、あのー……とわ子さん? 俺まだ語り足りねーんだけどさ」
「じゃあ意見のある人は挙手してくださーい」
「ハイ」
「はい五百蔵ちゃん」
「は、早⁉ てかなんでオマエらそんなにイキイキしてんだよ⁉」
おい! と喚く畑くんだが、全員から問答無用に無視されていた。弘海はまだ困惑したままである。
そして挙手した五百蔵さんはそのままじっと手元の用紙を冷たく見下ろした。
「とりあえず、この主人公がムカつく」
「遠慮もクソもねーなおい……!」
「物語を通じて優香がなんもしてなさすぎ。そもそもこの女の役割ってなんなのよ」
「ああ? そんなもん探偵役に決まってんだろ。転校生の過去の謎を解き明かしていくんだ」
「え~? そうだったの? 僕はてっきり転校生ちゃんの話を聞くだけなんだと思ってたよ~」
「わたしもー」
「右に同じ」
全員が同意を示す。畑くんは「んぐ……」と唸っていた。
「渡辺優香は転校生の笹倉泉美の顔の傷痕が気になって近づく。そして過去、泉美が凄惨なイジメに遭っていたことを知ってしまう。その始まりはいいけど、その後の展開も、ただ本人から話を聞いてるだけでしょ? 後のシーンでも何度か場面転換はしてるけど、結局最後まで優香がやってるのは、ただの聞き役でしかなかった」
「過去の話が多いのも問題よねー。読んでて全然話が進まないっていうかー、ずっと過去回想ばっかりで、ちょっぴり欠伸出ちゃったかなぁ」
「右に同じ」
持田さんがパチパチとキーボードを打ちながら(持田さんはノーパソで読む派だった)苦言を呈す。毛利くんもスマホで原稿を確認しながらそれに同意する。
「し、心理描写はどうだ? 今回はちょっと自信あるんだが!」
「たしかにそこは相変わらず丁寧で、さすがだと思う」
「小癪よねー」
「畑くん語彙力豊富で羨ましいよ~。僕描写は苦手だからさ」
「右に同じ」
「だろ! だろ!」
畑くんは褒められて嬉しそうだったが……、
「けれど流れ作業的な展開の連続が、その良さをすべて打ち消してる」
「せめてもっと伏線があったらねー」
「文章は綺麗なのに構造的なところで損してるよね~」
「右に同じ」
(毛利くん、さっきから同じことしか言ってない)
「ぐぐぅ…………」
畑くんは全員からの集中砲火に多大なダメージを受けて歯を食いしばっていた。ぐさぐさと言葉の槍が胸に刺さって心臓の辺りを押さえている。もう限界じゃないか、あれ。
「ちょっと、さすがに言い過ぎじゃ」
「そう? こんなのいつものことよ」
「むしろまだ優しいほうじゃないかしらー」
なんてことだ。こんなのがまだ序の口だったなんて。
ドン引きする弘海を無視して、五百蔵さんの舌鋒はなおも止まらず。
「大体さ、この主人公の行動目的って曖昧じゃない? 泉美が気になるのはわかったとしてそれだけじゃまだ薄いし、もう一つぐらいきっかけがないとなんでそんなに知りたがってるのかわかんなくて読者との間に距離が開きすぎ。それに気になるってだけで動いて嫌な過去暴いてそれで終わりってそんなの優香が無責任すぎだしそれに——」
その後も畑くんはダメ出しをされまくっていた。
それから三十分以上が経過した頃。
散々な言われ様で完膚無きまでにこき下ろされた畑くんは、ついにテーブルに顔面から伏してしまっていた。さっきまでの威勢はどこへやら。もはや顔を上げる気力もなく時々ピクピクと痙攣している。「テーブルが汚くなるからやめてねー」と追い打ちをかける持田さんは鬼だった。
「そ、そろそろ許してあげてもいいんじゃ」
「ん? まだ休憩までには十分くらいあるけど」
五百蔵さんはまだまだ言い足りない様子だった。それに持田さんも、ほかのみんなもまだ意見があるらしい。けれどこれ以上は可哀想に思えた。
「でもこれ以上は畑くんの身が持たないよ」
「あんたマジでそう思ってんの?」
「え?」
そのときテーブルに顔を伏せていた畑くんが「くっくっく……」と怪しい声で肩を震わせる。
「いやー! やっぱダメダメだなッ!」
身を起こした畑くんは、なんとも爽やかな笑顔だった。
「自分じゃあカンペキに書けてるつもりでも、フタを開けりゃこんなにヘマやらかしてんだからなぁ……! どんだけ半人前だよってカンジだよな! ガハハ!」
(す、すごく豪快に笑ってる)
「いやー、読み返せば読み返すほどヘッタクソだなあ! 俺って‼」
「言うほど悪くもなかったわよ」
「んあ、そうなの? ヤリィ……‼」
すずめの涙ほどもない五百蔵さんのてきとーなフォローに、畑くんは一気に元気を取り戻していた。「単純な人っていいよねー」と持田さんがまたも毒を吐く。
「震えちまうぜぇ……! 自分の伸びしろの多さによぉ……!」
「こいつ。いつもこんな感じだから。大抵のことは心配いらないのよ」
「ええええぇ……」
「うっしゃあ! 次の意見もどんとこぉい!」
打たれ強いにも程がある。
まさに鋼のメンタルだ。あんなに言われていたのに。
「つーかさあ。オマエ、さっきからなんも喋ってなくね?」
「えっ……?」
「たしかにそうだね~、喋ってないね~」
「同感です」
「んー? そうだったっけ?」
「持田さんはもっと他人に興味を持ってください」
その場の視線が一斉に集まる。弘海は肌がぴりつくのを感じた。
「いや、おれは今日は見学しにきただけで」
「けどオマエ、オレの作品全部読んだんだろ? 参加する気あるってことじゃねーの?」
「それは、その」
ちらり、と弘海は五百蔵さんへ視線をやるが、五百蔵さんはどこか見定めるような顔つきでこちらを見ていて、助け舟を出すつもりは一切なさそうだった。
「なんでもいーから。言えよ」
弘海はやがて泳がせていた視線を下ろし、ぽつりとこぼす。
「すごく良かったから、言うことなんてないよ」
しん、とその場が静まり返ったのは、しかし数秒のこと。
「…………そうかよ」
気のせいだろうか。
畑くんはそのとき、とても寂しそうな表情をしたかと思うと、さっと弘海から視線を離した。
——チクリ。
と、心の奥のほうで、小さな痛みが生じた。