(9) 君と僕。
帰りの電車も来たときと同じように混雑していた。
夕方頃は仕事終わりの社会人も増えて人口密度もひとしおである。折良く空いた席に座ることができたのは幸運としか言いようがなかった。果たして四人のうちだれが神様に愛されているのか。きっと安藝先輩だろうと弘海は思った。
「よく寝ているわね」
帰りはロングシートの席だった。車両の両脇のベンチに偶然ふたり分ずつのスペースができ、そこを茜谷さんと五百蔵さんが行きのときと同じく争ったが、それより先に安藝先輩が「小鳥遊くん。一緒に座りましょう」と言ったので、弘海は先輩と並んで座ることになった。
「そうですね」
ふたりの視線の先、向かいのシートで茜谷さんと五百蔵さんはお互いにおでこをくっつかせるようにしてすやすやと寝息を立てている。最初は不満そうに並んで座ったふたりだったけれど、すぐにどちらとも眠ってしまって、今じゃあんな感じだ。
「意外と相性良いですよね。あのふたり」
「奇遇ね。わたしもそう思っていたところよ」
ふふふ、と安藝先輩は微笑ましそうにふたりを眺めている。
「明日はアニ研の本格的な活動だから。その前に少しは距離が縮められたかしらね」
「もしかして……歓迎会って、それが目的だったんですか?」
「もちろんよ。五百蔵さんは遅い時期の転入だったから、まだ色々と慣れないところがあるでしょうしね」
いつか安藝先輩が言っていた、好きなものを語り合うにはまず仲良くなる必要がある、ということを。今日の歓迎会は、どうやらそれが本命だったらしい。
「本当に。五百蔵さんが入ってくれて良かったわ。とても賑やかになったし、なにより一年生がふたりだけじゃ寂しいものね」
「賑やかすぎるのもどうかと思いますけど」
「それくらいが丁度いいのよ。きっと。……これで。わたしたちが卒業しても部のことは安心ね]
「えっ? なんですかそれ……?」
「一応歴史のある部活だし、なによりわたしにとっても思い入れのある場所だからね。なくなるのは嫌なのよ。だからみんながいてくれて良かったわ」
「そ、そんなこと考えてたんですか?」
思わぬ一言に弘海は驚く。
「先輩だってまだ二年だし……そんなのまだまだ先の話じゃ」
「なにを言うの。一年なんてあっという間よ」
わたしがそうだったもの、と安藝先輩は続けた。
「入学した頃から、わたしの周りはなにもかもが目まぐるしくてね。毎日色んなことで手一杯で……気がついたらすぐ二年生になっていたわ。文芸部に入部したことだって、つい昨日のように感じるくらいよ」
「それはたぶん……安藝先輩だからじゃないですか?」
先輩の周りは確かに忙しそうだ。家のことだったり学校のことだったり。色々と。
「そうね。そうかもしれない」
と言って安藝先輩は微笑みを維持したまま、静かにまぶたを伏せてしまった。
行きの電車のときと、その姿が重なる。あのときはイヤホンをしていたけれど。
先輩は時々こんなふうに不意に目を閉じることがある。このとき先輩が眠っているのかどうか、判別するのはすごく難しい。穏やかな息遣いも、微かに上下する胸も、弘海にはいつもと変わらない、おなじものに思えるから。
「そういえば」
「あっ! は、はい」
まるで唐突に唇が動く。どうやら眠っていなかったらしい。
弘海は驚きつつも聞く姿勢を取る。けれど次の続く言葉は予想外だった。
「来るときの電車であなたたち、一体なにを話していたのかしら?」
「へ? 来るとき、ですか?」
「ええ。わたしの名前が聞こえた気がするのよ。気のせいかもしれないけれど」
弘海ははたと思い至った。最初の電車で弘海は五百蔵さんの話を聞いていて、そのとき確かに彼女の口から先輩の名前が出たのだ。おそらくそのことを言っているのだろう。
でも。
「えっ? き、聞いてたんですか? あの話」
「正確には聞こえただけよ。なんの話をしているかまではわからなかったわ」
「でもあのとき先輩って」
そうだ。五百蔵さんが安藝先輩の名前を口にしても、安藝先輩はまるで聞こえてない風に目を閉じていたのに。
「ずっとなんの話をしているのか気になっていたのよ。もう気になりすぎて、音楽なんて満足に聴けていないわ」
「じゃあそのときに訊いてくれれば」
「無理言わないで。せっかく後輩たちが仲を深めているのに、急に先輩が口を挟んでは水を差してしまうでしょう?」
(無理って……)
「先輩にとってそれって無理なことなんですか?」
「ええ」
だから聞こえていない体を装って、車窓の景色に気を取られている振りをしていたのか。
「そもそもわたしがイヤホンをしていたのは、最初からあなたたちの会話を邪魔しないようにするためよ」
「わ、わざわざそんなことしなくても」
「先輩のわたしが混ざってしまっては、後輩同士でしか話せない話もできないでしょう」
それは、そうかもしれないが。
(ん……待てよ? そういえば……)
「あの……先輩。少し変なことを聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「今日のお昼頃、先輩が休憩を提案したときがあったじゃないですか。覚えてます?」
「ええ。はる陽ちゃんとはぐれてしまったときね。それがどうかしたの?」
「いえ。その……あのとき先輩、足が疲れて動けないから休もうって言ってましたけど。もしかして、本当は違うんじゃ……」
弘海の予想に驚きを示すように、安藝先輩は瞬きを何度か繰り返した。
「ええ。五百蔵さんがとても疲労している様子だったから、一芝居打ったけれど」
「やっぱり……」
(だからあのとき様子が変だったんだ)
まるで疲労のヒの字も窺えない涼しげな表情で「疲れた」なんて言い出すものだから違和感しかなかったのだ。夏休みの間一緒に京都を駆け回ってもピンピンしていた安藝先輩なのに。
「そういう弱音、あの子は言い出せないでしょうしね」
たしかに五百蔵さんはそういう性格だろう。
でもそこまで安藝先輩が後輩相手に気を遣う必要があるのだろうか。
「なんか、先輩って…………」
と口を開いて、弘海は言い淀んだ。
安藝先輩はいつもの『女優の微笑み』を浮かべながら「なに?」と小首を傾げた。
「…………すみません。なんて言えばいいか、わからないです」
「そう」
安藝先輩は「ふふふ、変な子ね」と微笑んだ。
「……」
アニ研に入って数か月。
たった数か月しかなかったけれど、弘海はこの短い時間で安藝先輩のことをそれなりに知ったつもりだった。理解しているなんて烏滸がましいことは言えないけれど、先輩の秘密を知って、徐々に安藝朱鷺子という人間がどんな人間なのか、わかってきた気がしていたのだ。
けれど——それがまたわからなくなった。
はっきり掴みかけていた実像に突然靄がかかって、その輪郭がまたぼやけてしまったような、そんな感覚を弘海は覚えていた。
(なんだろ。この気持ち……)
寂しい。ではない。
悔しい。でもない。
ただ、なんだか、
(先輩のことが……知りたい、のかな? おれ)
「小鳥遊くん」
「えっ? あ、はい」
「どうかしたの? 眉間に皺が寄っていたけれど」
「ああ、いや。なんでもないです」
どこかから湧き上がってきた知らない感情に戸惑いつつも、弘海はとりあえず、それを無視することにした。
「そう。では、心配ついでにもう一つ。言ってもいいかしら?」
「は、はい。なんでしょう」
安藝先輩の視線が弘海の手元へと落ちる。
「見えてしまっているわよ。それ」
「へっ?」
その視線の先、弘海が持っている手提げ鞄から、薄い本の表紙がはみ出ていた。「ハッッ……⁉」弘海は顔を青ざめさせる。それは弘海が買った同人誌だった。この位置なら、おそらく安藝先輩からはシーツを被った少年と少女がはあはあと息を乱しながら見つめ合っている表紙の全様が見えてしまっているだろう。
「ちっ……‼ 違うんです、これは……‼」
「大丈夫よ。問題ないわ。わたし、理解はあるほうだから。いえべつに読んだことはないのだけれど、やはりそういった男性の趣味も尊重しなくては、いい夫婦になることはできないでしょう。ええ、何事もまずは受け入れることから始めることが大切なのよ。だからこれはきっとわたしが努力するべき問題であるわけで」
「な、なんの話ですか? というか違いますから聞いてください! これは五百蔵さんが汚しちゃったからしかたなく買い取るしかなかっただけで」
「はしたないわ。小鳥遊くん」
「なんで⁉」
その後弘海は目的の駅に着くまでの時間をすべて言い訳に費やしたのだった。