(7) 彼だけがいない街
それからしばらくは電車を乗り継ぎ乗り継ぎ……。
ようやく目的の駅に到着したのはおよそ一時間後のことだった。
ホームから降りていく沢山の乗客たち。ぞろぞろと歩いていくその人波に流されるように一行は進んだ。開発が進んだ駅内はとても入り組んでおり、迷路のように観光客たちを迷わせる。巷では「ダンジョン」などと呼称されてもいる、その複雑に絡み合った通路を弘海たちはお互いを見失わぬよう慎重に歩いていった。
やがて改札をくぐり、一行は並んで駅から出て行く。
「おおおお!」
やっとの思いで人混みから解放され、建物から外に出た途端、思わず快哉を叫んだのは茜谷さんだった。勢いそのまま子供のようにとたとたと駆けていく。その足はすぐに止まって、茜谷さんは後ろを振りかえって両腕を大きく広げて満面の笑みを浮かべた。
「アキバーーッッ‼」
茜谷さんが天に届く勢いで掲げた両の手の向こう——そびえるのは青空を覆い尽くすビルとビルとビルの森林。
東京都は秋葉原の電気街。
あまねくヤングカルチャーの中心地にして唯一無二たるサブカルチャーの楽園。
ここはオタクの聖地「アキバ」だった。
森林の奥深くを目指すようにビル群の中心に向かって歩いていくと、通りはどんどん広くなり、それにつれて人の往来も爆発的に増した。
電気街の中央通りは混沌としている。
高層ビルはガラス張りの摩天楼のごとくただ爽やかな青空を側面に移し、「激安販売」や「高額買取」の文字が掲げられた黄色い家電量販店や、アニメのイベント情報が壁面のデジタル画面に表示されている真っ赤なゲームセンターや、ほかアニメショップやカードショップなど色とりどりの外壁の建物が隙間を埋めるように軒を連ねていた。
そんな中央通りの一角で弘海たちは立ち止まる。
「というわけでアキバよ」
安藝先輩はなぜか得意そうに腕を組んだポーズでそう言った。
「ふうう! ただいまアキバッ、おかえりアキバッ!」
「茜谷さん、アキバ来たことあったの?」
「ないけど! でもなんか『ただいま』って感じなの!」
「なんだそれ……」
とりあえず茜谷さんが有頂天なことはわかった。文字通り浮足立っているし。
「今日は五百蔵さんの歓迎会も兼ねた小旅行よ。なので各自、あまりハメを外しすぎないようにしましょうね。……五百蔵さんも、行きたいところがあったら言いなさい」
「あたしはべつに。アキバなんて何回も来てるし」
「遠慮はいらないわ。わたしはあなたのような子が入部してくれてとっても嬉しいのよ。だから今日は目一杯みんなで楽しみましょう?」
「ハ、ハイ。ありがとう、ございます……」
五百蔵さんはもじもじと照れ臭そうにしている。よく見ると頬もほんのり赤くなっていた。なんだかんだ言って満更でもなさそうである。
「小鳥遊くんも、アキバには来たことがあるのよね?」
「ま、まあ……と言っても、数えるくらいですけど」
「ふふふ、今日は案内役のまいるもいないから、アキバ経験者はあなたと五百蔵さんだけよ」
「そういえば部長は、今日はなにを?」
「詳しくは教えてくれなかったわ。けれど、とても大切な用事みたい。なにせ大好きなアキバにみんなで遊びに行くのを我慢するくらいだから」
猪熊部長は秋葉原に足繫く通っているようだった。
「だから頼りにしているわよ。小鳥遊くん」
安藝先輩は優しく微笑みながら「わたしも初めてだから」と続ける。それはいつもの『女優の微笑み』だったけれど……こころなしか、いつもより砕けた表情のようにも思えた。もしかしたらこのなかで一番今日を楽しみにしていたのは安藝先輩なのかもしれない。
「あたしアニメハウス行ってみたい! あるんだよねどっかに!」
「えっと、それなら確かあっちに……」
「うっしゃー、じゃあ出航だヒロミンッ!」
「ちょっ、手引っ張るのやめて! 痛いから! ちょっと茜谷さん!」
そんなこんなでアキバ探訪が始まったのだった。
**
あれから数時間。
弘海たちは時間を忘れてアキバを満喫した。
初めに立ち寄ったアニメショップでは人気アニメのグッズが目白押しだった。とくに茜谷さんが目についたグッズを片っ端からカゴに入れていき、後先考えず散財の限りを尽くすのを、そばで五百蔵さんがドン引きした表情で見ていたのが、弘海には印象的だった。
その後みんなで入ったのは大型ゲームセンター。目玉のUFOキャッチャーで昨今大流行中のアニメのヒロインのフィギュアが景品となっているのを見て目の色を変えた茜谷さんが、また湯水のごとくお金を注ぎ込んだが……、結果はうまくいかず。しかしそれを見かねた五百蔵さんが、そこで思わぬ才能を発揮してくれた。泣き喚く茜谷さんの代わりに自ら百円を投入し、なんとも淀みないボタンさばきを披露し、なんと一発で景品を仕留めてみせたのだ。「ありがとおおイオッチぃぃぃいい‼」と感涙の茜谷さんに抱き着かれて「ちょ、離れてよ!」と顔を真っ赤にしてたじたじとなっている五百蔵さんは新鮮だった。
お昼を過ぎると今度はなぜかメイド喫茶に入ることになった。道端でキャッチをしていたメイドさんの呼びかけを安藝先輩が断れなかったのだ。流石に全員勝手のわからない初心者だったため、とりあえずみんなでオムライスを頼んで食べることにした。可愛いメイドにケチャップでハートを描かれ、さらに萌え萌えキュンなおまじないをかけられてデレデレと頬を緩ませる弘海の姿に、女子三人が冷えた眼差しを送っていたのはこの際割愛しておこう。
ほかにも気になった場所はすべて立ち寄っていき、四人はアキバの街を練り歩いた。
「おおっ! あれなんかのイベントじゃね! あたしちょっと行ってくる!」
両手に沢山の戦利品を提げた茜谷さんが、また遠くに気になったものを見つけ、居ても立っても居られず人通りを駆け抜けていく。
「元気だなあ、茜谷さん」
「体力バカ……」
遠ざかっていく金髪の後ろ姿を見て、五百蔵さんはうらめしそうに呟いた。さすがに歩き回りすぎて疲れたのか、額にも汗が滲んでいる。
そういえば安藝先輩の姿がない。——と、弘海は探して振り返り、少し後ろのほうで棒立ちしていた麗しき先輩女子の姿を見つける。弘海は急いで駆け寄った。
「先輩? 急に止まってどうしたんですか?」
「足が動かないわ」
「え?」
安藝先輩は穏やかな秋風に身を委ねるような美しい立ち姿で、その表情に静謐な微笑みをうかべた。
「まるで鉛のようね。びくともしないわ」
「えっと……ひょっとして歩くの疲れました?」
「そうとも言うわね」
「いやそうとしか言わないですから」
(こんな涼しげな表情で弱音を吐く人初めて見たよ……)
というより意外だった。安藝先輩はもっと体力があるものだと思っていたが。
五百蔵さんも遅れて近づいてくる。「どうしたのよ」と億劫な足取りで歩いてくる五百蔵さんに弘海は早速休憩を提案した。
「茜谷さんは……まあ、スマホもあるしなんとかなるか」
というわけで弘海たちはそこから三人で少し移動した。
近くにあった大きな複合ビルのなかへ……重い足を引きずって二階へと上れば、目当ての休憩スポットである広々とした空間に到着する。
青空の下、解放的な木製デッキには同じように休日戦線で疲れ切った戦士たちがまばらに座っている。弘海たちは並んでデッキの段差に腰を下ろして一息つく。沢山の人々が揃って同じ方向を向いて座っている光景はなんだか河川敷のようだ。
「ハァァ、マジ疲れた……あいつ振り回しすぎ」
ショートパンツから伸びる両足を五百蔵さんは惜しげもなく伸ばして脱力する。
対して安藝先輩はなんとも上品な姿勢でプリーツスカートに包まれた両足を揃えて腰を下ろすと、汗が一粒も見えない澄んだ表情で微笑んだ。
「とても良い場所ね。ここ」
「景色はそんなに良くないですけどね」
木製デッキから望む街の景色は、残念ながら周囲に林立するビル群に阻まれている。眼下の道も、相も変わらずぞろぞろと人々が歩いていて、お世辞にも見ていて気持ちよくはない。
「秋葉原は、今やオタク文化の聖地と呼ばれがちだけれど、少し前までは雑多で古びた雰囲気の街だったらしいわ」
「そうなんですか?」
「ええ。古くは戦後の闇市として栄え、やがて主にラジオや家電などで埋め尽くされた鉄の街だった……それが若者文化の台頭によって活気が生まれ、幾重にも実施された土地開発によって大きく発展した」
安藝先輩の静かな語りは、しかし街が辿ってきた時間の重みが乗ったような、厳かな響きを伴っていた。微笑みを崩さぬまま、先輩は目の前の景色を見つめる。
「この街は最先端の文化が集まる場所であると同時に、今もなお古き良き技術に支えられている歴史の街でもある。トレンドとレトロを内包した特別な街。その発展がこの景色には表れている気がするわ。素敵ね」
「さすが。やっぱり安藝先輩は言うことが違う」
「と、まいるが言っていたの」
五百蔵さんが笑顔のまま固まった。どうやら受け売りの話だったようだ。妙なところで締まらない先輩である。
「あら? すごいのがあるわね」
と、真下の道を見下ろして先輩が言う。なんのことかとその視線を辿ってみれば、真下の道には派手なピンク色の自動車が停車していた。しかもただの派手さじゃない。その車体にはアニメチックにデフォルメされたメイド姿の少女のイラストがでかでかと描かれていたのだ。
「う、うわすご……ああいうのって痛車って言うんでしたっけ?」
「ええ。初めてみたわ」
安藝先輩はさらに愉快そうに豊かな胸の前で手を合わせた。
「『世界改変少女』のハラマキ・美咲ちゃんね。ふふふ、可愛いわ」
「あ、知ってますそれ。三年くらい前にやってたアニメですよね? 確かWEB小説発祥の、最近すごく流行っている異世界転生系の王道作品で」
「あれはそんな単純なファンタジーじゃない」
と、きっぱりと口を挟んだのは五百蔵さんだ。
見やると五百蔵さんは膝の上で頬杖をつきながら、なんだかいつも以上に退屈な表情で眼下の自動車を見下ろしていた。
「入り口はありふれた異世界ファンタジー、に見せかけて本命は超重厚なSFバトル。異世界の魔法文明に日本の科学文明が立ち向かう流れで、アンドロイドにサイボーグに巨大人型ロボットまで出てくる、作者の趣味全開の戦争物よ」
「そ、そうなんだ。詳しいね……」
「まあ全巻読んでるから」
なんと五百蔵さんは読者だったらしい。
ふふふ、と安藝先輩が微笑む。
「わたしはアニメしか視ていないけれど、とってもエンタメにあふれる良い作品だったわ。とくに序盤から悪の組織のように扱われていた帝国の脅威『東亜教』が、実は転生した元日本人たちが集まったテロ組織で、元日本人を虐殺してきた歴史を持つ帝国に反旗を翻す正義の集団だったという展開には、なかなか驚かされたわ」
「そう。そして主人公のアーデルは『東亜教』に入り、帝国との戦争に身を投じていくことになる。ハラマキ・美咲はその『東亜教』の特級戦闘師にして二丁拳銃の使い手。メイド服も実は対魔法付きの特別仕様で、あらゆる魔術的干渉を弾くいわば鎧」
あんな可愛い子がバリバリの銃撃戦を繰り広げるのか。メイド服も戦闘服だったとは確かに作者の趣味全開だ。
「五百蔵さんは、SFが好きなのね?」
「……やっぱり、変ですか。SFが好きな女子高生って」
「まさか。とっても素敵よ」
安藝先輩は慈母のごとき微笑みでもって答える。
すると五百蔵さんは先輩から目を逸らして俯いてしまった。弘海はどうしたのかと思ったが……、よく見ると両耳がほんのり赤く染まっている。
もしかすると五百蔵さんは褒められるのに慣れていないのかもしれない。嬉しいけれど気恥ずかしい。そんな少女のいじらしい様子を見て、だんだん弘海も微笑ましく思えてきた。
「五百蔵さんはあの作品のファンなんだね」
「いや全然」
(え?)
「あっ……ん? ええ?」
唐突に真顔で否定されて弘海は一瞬耳を疑った。
「よ、読んでるん……だろ? ぜんぶ」
「もちろん追ってる。最新刊まで欠かさず」
「それって立派なファンじゃ」
「違う。むしろ嫌いよ。あんな作品」
冷たく言ってのけた五百蔵さんは立ち上がって、また眼下を見下ろした。
「単純なファンタジーじゃないって言ったけど、べつにそこまで目新しい発想でもないわ。原作はピストル構造の緻密な書き込みや機関銃の細かい描写に気合いが入ってて目を見張るものがあるけど、所詮はそれだけ。山場のシーンはどっかで見たことあるような構図や台詞ばかりだし、結局、量産型の枠からは抜けられてない。設定は好きなものを詰め込みすぎて散らかってるし、世界観も流行に寄せたはいいけど風呂敷を広げすぎて畳み方を見失ってる。きっと見切り発車で書き始めたのね。WEBのほうは途中から更新が止まって、今じゃ年に一度更新するのがやっとの体たらく」
「…………」
一息で捲し立てた少女の気迫に、弘海は言葉を失った。
「だから、あたしは嫌い」
「…………じゃ、じゃあなんで、五百蔵さんはそれを読んでるの?」
かろうじて唇を動かし、思ったことを訊ねる。
少なくとも弘海にとっては至極真っ当な質問のつもりだった。
「あんたにはわかんないわよ」
けれど五百蔵さんは目も合わせず、そっけなく言うだけだった。
なんだろう。今一瞬。
そう。たった一瞬で、なにか少女との間に大きな一線が引かれてしまったかのような、そんな錯覚をおぼえて、弘海は少し寂しくなった。
「安藝先輩なら。わかるんじゃないですか」
五百蔵さんはもう弘海を見ていない。その視線はまっすぐ先輩に注がれている。
そして安藝先輩は、
「そろそろ戻りましょうか」
いつもの『女優の微笑み』でその視線を受け流すと、果たして音も無く立ち上がるのだった。
「えっ。ああ、はい」
五百蔵さんは当てが外れたような反応で、やがて歩き出す先輩の背中を慌てて追いかけていく。
「な、なんだ。今の」
弘海はその一部始終を、一番困惑の顔つきで見ていたのだった。