(6) 荒ぶる季節の乙女たち。
小鳥遊家の夕餉は少し遅めに開始される。
弘海は現在母子家庭の一人息子。母親は作家業でなにかと忙しい。そんな母親のため、中学の頃から基本的に晩御飯は弘海がつくっていた。当初は四苦八苦していた料理だが、最近はだんだん小慣れてきて楽しくなってきた頃合いである。
そんな弘海が今晩つくったのは生姜焼きだ。今朝起きてからすぐ生姜汁に漬け置きしておいたため、分厚い豚肉には味がしっかり沁み込んでいる。母親の風香は濃い味付けが好みなので、茶色に焼けた豚肉の表面にはすりおろしの生姜がたんまりと乗っていた。
そして今はやっと自室から出てきた母親と食卓を囲んでいる最中である。
「あんたー、夜道には気を付けなさいよ。いきなりだれかに刺されるかもしんないわ」
噛むたびに口のなかに広がるジューシーな肉の食感とつんと刺激的な生姜の風味に、弘海が料理人として大満足していると……、ぴしっ、と突然風香に箸先を突き付けられた。
「はしたないよ母さん。……で、なにがあって急にそういう話になったんだ?」
「部活のことに決まってんでしょー! ったく、大人しく聞いてたらさあ、なに? 綺麗でえっろい先輩に、ちっこくて可愛い部長に、明るく元気なギャルに、今度はクールでツンツンした新入部員だーあ? なんだそのハーレム、エロゲかよ」
「おいこらやめろ」
母親として最低な感想だった。どうしてこの人はいつもこうなんだ。
「安藝先輩に失礼なこと言うんじゃねえ。あの人はすごく素敵な人なんだ」
「はぁー? なあにが素敵な人よ。プラトニック気取っちゃってさあ。ケツの青いドーテーのくせに」
「かっ、関係ないだろ! てか高一なんかみんな経験なくて当然だろ!」
「ふっ、甘いわね……そう思ってんのはきっとあんただけ。最近の若者は進んでんのよ。今だってきっとあんたの知らないところで、あんたと仲の良いクラスメイトたちがズッコンバッコンと……」
「やめろやめろ!」
脳裏に淡島くんや谷口さんの顔が不意に浮かんで、弘海は慌てて思考を振り払った。
「ま、でも安心しなさい。あたしの見立てじゃ、あのちんまい部長ちゃんは勿論、ギャル子ちゃんも十中八九、生娘だから」
「頼むから黙ってくれよ……」
夏休みが開けて少し経った頃、弘海はアニ研の部員たちをこの家に招待した。そのときに風香はアニ研のみんなと面識を持ち、このリビングで色々と話し込んではいたが……あんな短い時間でなぜそんなことがわかるのか。
「ただまぁー、あのおっぱいちゃんはわかんないのよねえー。なぁんか隠すのが上手いっていうか、純粋だけど腹の底が見えないっていうか、ありゃまた違った意味で百戦錬磨よねぇ。うんうん」
「なんでもいいけど先輩のこと変な名前で呼ぶなよ」
「変じゃないわよー。ちゃんと敬意を払って呼んでいるもの」
「どこがだよ……」
「あんたもさー、一度揉ませてもらったらわかるわ。あの胸は至宝よ。いや神秘よ」
「まさか揉んだのか⁉」
「まあねえ。あんたが席を外している間に、しっかり頭を下げて頼み込んだわ。あのときのおっぱいちゃんの恥じらう顔ときたら……ああ、ご飯が進むわ!」
「おい、なにをおかずにしてやがる‼」
いきなり白ご飯をはふはふと頬張り出す。最低だ。最低すぎる。
「んぐんぐ……ぷはあ‼ くぅぅ、うっめえ‼」
「恥ずかしい……こんな人の息子であることが……」
ぐびぐびと豪快にビールを飲み干す母親の前で弘海はがっくりと突っ伏した。
「あんたがあの部活に入ってくれて、お母さんほんとよかったよ」
「もっと普通の流れで言えなかったのか、その台詞」
この流れじゃ変な意味にしか聞こえないぞ。
「——でさ。あんたたちって、いつまであんな感じなわけ?」
「は? どういう意味だよ」
意味がわからず訊き返すと、風香は意味深に笑う。
「べつにー。わかんないならそれでいいんだけどね。ただお母さん的には、ちょっと不思議だなあって思っただけだから」
「なんだよそれ」
「まーまー気にしないで」
風香は「……あんたたちがいいなら、それでいいのよ。きっとさ」と含みのある言い方で呟いた。
「なんだよ」
「いいのいいの。……あ、そうだ。今週の土曜はうちのリビング使うから。あんた外出といてね」
「ん……? 編集と相談なら、いつもファミレス使ってるよな?」
「色々あんのよ。大人には」
とにかくよろしく、とすぐに話を打ち切り、また風香は生姜焼きに舌鼓を打った。
——なんとなく。
いろんなことを、誤魔化された気がする。
(ま、いいか……)
釘を刺されなくとも、今週の土曜なら予定がある。
「わかったよ」
頬杖をつきながら、弘海は溜め息交じりに言った。
**
そして例の予定がある土曜日がやってきた。
休日だが今日はテニス部の部活はお休みだ。せっかくなら学校のコートで自主練でもしないかと部員の山吹くんに誘われたが弘海は丁重に断りを入れた。今日に限ってはアニメ研究会のほうで先約があったのだ。
弘海はテニス部と文芸部(アニメ研究会)とで兼部をしている。これは我らがイツ高ではそこまで珍しいことではない。基本的にイツ高では若者の自主性を重んじていて、無理のない範囲で生徒たちの自由を受け入れる方針だ。とくに弘海のように運動部と文化部を掛け持ちする生徒たちは少なからず存在していた。
さて午前十時過ぎ。
弘海は最寄りのバス停からバスに乗り、集合場所である大きな駅へと到着した。
バスから駅前広場に降りてみれば、駅近くは人々の往来で混雑している。
見れば私服の若者が多くを占めていた。休日を利用して遊びに出かける者たちが大半であるようだ。つまりは弘海たちと同じである。
「みんなはまだ着いてないかな……」
集合時間にはまだ早い。これは一番乗りだろう。
そう思いつつも、弘海はきょろきょろと辺りを見回す。
すると、見慣れた金髪の後ろ姿が目に留まった。
駅前ロータリーに設けられた植込みに身を隠すようにしてしゃがみ、ぷりぷりと形の良いお尻をデニムパンツ越しに揺らしているのは茜谷さんだ。
「あのー、茜谷さん? どうしたの?」
今日も今日とて鮮やかな金髪は清潔な白のシャツの背中に流れている。弘海がその後ろ姿に喋りかけると茜谷さんは大きく肩をびくつかせた。
「ひ、ヒロミンも、急いで隠れて!」
「ええ?」
促されるまま弘海もその場にしゃがみ込む。「一体なにしてんの?」と訊ねれば、茜谷さんは興奮した面持ちで遠くを指差した。青色のネイルの指先を辿って弘海も植込みから顔を出す。
なにを指差しているのかはすぐにわかった。
駅の壁に設置された木目調のベンチに——安藝先輩が座っていたのだ。
ゆるりと毛先がウェーブがかった長い黒髪は今日はいつも以上に躍動感があって、秋風が吹くたび先輩の肩の上で髪の毛がふわっと息を吸うように動く。服装も今日はなんだか大人っぽくて、首元が露出したボウタイ付きの黒色のブラウスに、紺色の滑らかな光沢が輝くプリーツスカートを合わせている。とても落ち着きのある綺麗な装いだ。
そんな本日は妙に気合の入った服装の安藝先輩は、なんとベンチに座りながら穏やかに目を閉じていた。眠っているのかと思ったがそうじゃない。両耳から垂れるイヤホンのケーブルが、膝の上の手提げバッグに繋がっている。音楽を聴いているのだ。
安藝先輩の表情はすごく穏やかで、口元は微笑みの形をとったまま、静かに音楽に浸っている。まるで映画のワンシーンを切り取ったかのような光景だった。見やれば、その前を行く人はみな、ベンチに座るとんでもない美女を気にして二度見三度見している。
「ヤバい。ほんとヤバい。トキセン、マジ女神……」
そして茜谷さんはそんなことを連呼しながら、自前のスマホで安藝先輩の姿をパシャパシャと盗撮しまくっている。この子はそのうち捕まるかもしれない。
(まあ気持ちはわからなくもないけど……)
「なあ? そろそろ話しかけないか?」
「ま、待って! あとちょっとだけ! マジ映えるの撮るから! マジで!」
「はあ……」
なにをやっているんだか。
「あんたらなにやってんの」
と、これまた呆れた色の声が背後から。
振りかえれば、そこには五百蔵悠が立っていた。
「五百蔵さん。お、おはよう」
「なに驚いてんのさ」
急に声を掛けられたからだが。それとはべつの驚きもあって。
「はあ⁉ なによそのファッション⁉」
五百蔵さんの服装は学園祭のときと同じものだった。
小柄な身体にオーバーサイズの黒パーカーを身に纏った五百蔵さんは、綺麗なボブカットを黒と群青色のツートンカラーに染めて、両の瞳は金色のカラコンを着け、両耳には刺々しいピアスをはめている。朝から見るには派手すぎて、残っていた眠気も吹き飛ぶようだ。
「なにって。ただの私服だけど」
「いやいやナイナイ! これはナイ! ほぼ地雷じゃん!」
「そっちこそ。派手な金髪。ギャルはいいけど量産型ね」
「はああ? だれが量産型よ! そんなにお尻おっきくないし‼」
「それは安産型。全然ちげえよ」
相変わらず犬と猿よりも茜谷さんと相性が悪いらしい五百蔵さんは、「……で、なにをこそこそしてたのよ」と植込みの向こうを覗き込んで、すぐに安藝先輩の姿に気づく。
「はっ? なにあれ? 雑誌の撮影かなんか?」
「待ち合わせ中の安藝先輩だよ」
「マジかよ映えすぎだろ。撮るわ」
ささっとポケットからスマホを取り出し(スマホカバーは普通の革製だった)、さっきの茜谷さん同様、パシャパシャと怒涛の勢いで盗撮し始める。
「ちょっと! あたしが先に撮ってたんですけど!」
「黙ってて。いいの撮れない」
「っ……‼ こいつ……‼」
などとやかましいやり取りをしていれば、ほかの通行人たちに注目されるようになるのは必然のことである。だんだんと弘海たちも目立つようになり。
(あ)
見やると、いつのまにか先輩はこちらを見て微笑んでいたのだった。
予定通り四人全員が集まると、安藝先導の下、弘海たちは電車に乗り込んだ。
車内は沢山の人であふれていたが、そこは運良く四人掛けのシートに座ることができた。弘海と茜谷さん、安藝先輩と五百蔵さんで並んで向き合っている形である。
「歓迎会なんて、いらないから」
そんなふうに冷たく言ってのけたのは、ついさっき安藝先輩の隣席を巡るじゃんけん争奪戦で見事勝利を収め、自慢げに座っていた五百蔵さんだった。
「この前も言ったけど。たかが新入部員が一人増えたくらいで、気を遣ってなにか特別なことをやろうとする必要はない」
五百蔵さんはまるで研ぎたての日本刀のような切れ味で、なにに置いてもばっさりと発言する少女だった。だから一見キツく感じるようなことを言ってもなぜか嫌味を感じない。冷たい反論もそっけない言い方も、むしろ竹を割ったように爽やかだ。
「うちらの厚意なんだから、素直に受け取ればよくない?」
「そういう馴れ合い、好きじゃないの」
「うわー、擦れてるわー、こいつ」
弘海の隣席で、茜谷さんもスマホを弄りながら少し引き気味ではあるが、そこに不快感は見受けられない。人として相性の悪さはあるだろうけれど、茜谷さんもそこまで五百蔵さんを毛嫌いしているわけではなさそうだった。
「わたしはあなたたちと仲良くなるために入ったわけじゃない。それだけは知っておいて」
「とか言ってちゃっかりメイクしてきてんじゃん」
「これは流されただけ」
(正直だな……)
「アニ研は由緒正しい部活だって聞いた。具体的にどんな活動をしているのかはまだ知らないけど、とにかく遊ぶ暇があるのなら、それを活動の時間に充てるべき」
正しい意見かもしれない。五百蔵さんがなにに期待してアニ研に入ったのかは今を以て不明だが、彼女は彼女なりに真剣に活動に向き合ってくれているようだ。
「じゃあ、なんで今日五百蔵さんは来てくれたの?」
「そ、それは……」
青色のネイルが施された指先を、いじいじ……と擦り合わせながら、五百蔵さんは隣でイヤホンをしてまぶたを閉じている安藝先輩の顔を見上げる。
「あ、安藝先輩が……来てほしいって言うから」
「……五百蔵さんは、安藝先輩が好きなの?」
「そんな低俗な単語で表さないで。これは憧憬の念よ」
「ショーケー……って、なにそれ?」
「さ、さあ。おれもわかんない……」
ふたりで首を傾げていると、五百蔵さんは「はあぁ……」と大きく溜め息をついた。
安藝先輩は相変わらずイヤホンで音楽を聴いている。
きっと弘海たちの声など聞こえてはいないだろう。電車に乗るなりイヤホンで両耳を塞いで目を閉じてしまったのには弘海も少し驚いたけれど、とくに後輩たちとの会話を嫌ったわけではないはずだ。安藝先輩はそういう人間じゃない。
「……」
不意に、その柔和な目元が静かに開かれると、安藝先輩の視線は窓外を流れていく街の景色へと移った。長い睫毛に縁取られた両の瞳が、さらに向こうへ思いを馳せるように遠くを見据えるのが妙にドラマチックだ。この人は本当に絵になる。
「あなたたちは安藝先輩の文集、読んでないわけ?」
「読んでなーい。うちにはあるけど」
「おれは読んだけど、まだ最後までは読めてないな」
(あのときは自分の作品で精一杯だったしな……)
「あきれた。自分たちのも読んでないなんて……あんたたちは安藝先輩が部員に選んだ人たちだって聞いてたけど。所詮は普通の高校生ね」
「はあ? そっちだってただの高校生じゃん。なに言ってんの」
「あたしは違う」
五百蔵さんは青い前髪を耳にかけながらきっぱりと断じた。
「あたしは絶対、普通になんかならない」
その声には並々ならぬ信念のようなものが宿っている。
そんなふうに、弘海には感じられた。