(5) 謎の彼女X
十月上旬。
逸原高校の学園祭は快晴の青空の下に執り行われた。
いつもは静かな校舎が例年この日だけは賑やかに様変わりする。日頃勉強に励む学生たちもこの日に漲るエネルギーをすべて出し、若さを爆発させるように各所で大いに盛り上がった。
敷地内には多くの幟が立ち、庭の通りには部活毎に営む屋台が並び、その間を学生たちが駆け回る。校内各所ではクラス毎の出し物が催され、体育館では演劇部の劇や有志の学生たちの芸が披露されている。どこからともなく響くのはライブ会場になっているグラウンドからの軽音楽部の演奏だ。ステージでは後にクイズ大会や文化部の発表もあるらしい。
そして飾り付けられた校門からは今も多くの客が出入りしている。学園祭は今年も盛況だ。お昼に差し掛かっても客足は途絶えず、賑やかな音色で校舎は溢れていた。
それに比べて文芸部の部室は静かなものである。
生徒間では美術棟とも呼ばれる別棟の建物は、本校舎の賑わいから隔絶されたかのように人気がなく、よく言えば落ち着いている。長めの渡り廊下を挟んで辿り着くここは、文化部の展示が主で、自然と喧騒からはかけ離れた場所になるのだ。
それでも人混みを嫌う者や、文化部関係者、そして小さな好奇心で足を運ぶ者たちも一定数いるおかげか、静かな空間にも様々な話し声が聞こえていた。
弘海が店番する文芸部部室も、がらんどうではない。
一定の時間を刻んで「ここはなにか?」とやってくる者が、文芸部の作った冊子をさらりと読んですぐ、興味を失くしてその場を去っていく。そんな光景が朝から繰り返されていた。
(まあ、売れないよな)
わかっていたことだが、文芸部の冊子の売れ行きは渋かった。派手な出し物や面白い発表が目白押しななかで、地味で簡素な文芸部の文集擬きは埋もれに埋もれ、誰の眼にも留まることもない。あくまで売れないことを予想して少なめに刷った冊子の山は、朝からほとんど高さを変えることなく、弘海の目の前に積まれている。
「安藝先輩は、今頃演劇かな」
壁時計を見ながら弘海は呟く。
安藝先輩のクラスの出し物は演劇で、なかでも彼女はクラスメイトからの推薦もあり、メインヒロイン役に抜擢されていた。その演技力は凄まじいものらしく、気になった淡島くんが練習中の上級生の教室に入り込もうと計画を立てていたくらいだ(谷口さんにしっかりバレて止められていたけど)。今頃は素晴らしい演技を披露して観客を魅了しているに違いない。
そして安藝先輩と同じクラスの猪熊部長と言えば、その演劇ではやることがあまりないようで「美術担当は前日で終わるので、当日は交代で店番をしましょう」と最初は言ってくれていた。しかし当日が目前になって急に忙しさを増した裏方たちに「頼むよ猪熊!」と泣きつかれてしまい、根が善人な部長は断ることができなかったらしい。数日前はこのことについて何度も部長に頭を下げられ、「気にしないでください」と弘海も何度も返したのを覚えている。
そんなわけで、本日の弘海の予定は一日中店番だ。
一言で言えば退屈である。だが、弘海はそれでよかった。日頃お世話になっている先輩たちのためにできることがあるなら弘海は率先してやるつもりなのだ。
とはいえ、こうもやることがないと辛くもあるが。
「おう、やってるか。坊主」
そんなふうにあまりの退屈さに欠伸を噛み殺していたところ……、軽快な声で部室を訊ねてきた者があった。居酒屋にでも来たようなテンションだ。
「み、御船先生」
「ひと月ぶりだな。元気してたか?」
にっ、と白い歯を覗かせて笑うのは、相変わらずの金髪ベッカムヘアーに胡散臭いサングラスをかけたスーツ姿の長身の男——御船アキオだった。
「な、なんでこんなところにいるんですか?」
「んだよ。来ちゃわりーのか?」
「そ、そうじゃないですけど……でも御船先生がこんなわざわざ」
「ははっ、そんな売れっ子作家じゃあるめえし、顔を出すくらいの暇はあるっての」
漫画家、御船アキオは安藝先輩の大好きな作品『オオカミくんに恋の首輪を』の原作者で、今でも現役の人気作家の一人だ。
弘海たちは一か月程前、とある数奇な縁によって彼と直接出会った。その際一悶着あったことで一時期はアニ研と彼との間には大きな溝ができてしまったが、今では和解し、それ以来御船先生はこうしてなにかと弘海たちのことを気にかけてくれていた。
「おまえらがなんか出し物やるって話だから、あんたが売り上げに貢献してやれって。風香に言われたんだよ」
「す、すみません。うちの母親が」
「気にすんな。俺は俺で、おまえらには恩を感じてるからな」
ポケットに手を突っ込みながら御船先生は人のいない部屋を見回す。
「にしても。見事に閑古鳥が鳴いてやがんな」
「は、はは……」
「店番はおまえだけか? ほかの奴らはなにしてやがる?」
「先輩たちはクラスのほうで忙しくて。おれは暇なんで、まあ適材適所です」
「ん……? あのギャルっ子はどうしたんだよ? あいつも部員だったはずだろ?」
「茜谷さんは、その……たぶんまだ起きてないので」
「おいおい」
ずぼらな茜谷さんは今日も今日とて重役出勤である。あらかじめこうなることを見越し、元から戦力としては加算していないので、予定通りと言えば予定通りだった。
「そんで。これがおまえらの作品か」
御船先生は百円玉をトレイに置くと、冊子の山から一冊を手に取って矯めつ眇めつ……やがて、ぺらりと最初のページを開き、さらさらと軽く読んでいく。
「…………」
「あの、どうかしましたか?」
「や、なんでもない」
今一瞬、御船先生の眉間に皺が寄ったような。
(……気のせいかな?)
「くくっ、にしても部長さんのページが多いな。こりゃ好きな作品が多すぎて選べなかった感じだな……で。あのお嬢様は一本に絞ったか。ほお……SF作品か、意外だなあ。少女漫画専門ってわけじゃねーのな」
やはり気のせいだったのだろう、先生はとても楽しそうにページを開いていく。
「ギャルっ子もそれなりに多いな。……へぇ、なるほど。エログロ好きか。くくっ、なかなかいい趣味してやがる。そんで? 坊主のは……」
そして冊子の後半に差し掛かったとき、その手が止まった。
「一ページだけか。一番短いな」
「ええと、それはその」
「あー、安心しろ。おまえの事情は知ってんだ。風香に大体訊いたからよ」
「え? そうなんですか?」
「ああ。なかなか面倒なもんを抱えてやがるみてえじゃねーか。……だってのに、よくもあんなハッタリをかましたもんだぜ。まんまと出し抜かれちまったよ」
それはきっと、以前先生と家で対峙したときのことを言っているのだろう。
「……! ごっ、ごめんなさい! 先生を騙すような真似をしてしまって、その……」
「わかってる。みなまで言うなって」
慌てて頭を下げようとする弘海だったが、すかさず肩に手を置かれて制された。
「おまえには感謝しかしてねーからよ。気にすんな。それよかこっちこそ悪かったな。いろいろと気ぃ遣わせてよ」
「い、いや。おれは」
「それで、だ。……今日はな。実は坊主に話があって来たんだ」
サングラスのブリッジを指で押し上げながら、御船先生はにっと笑う。
そのとき部室の入り口に小柄な人影が現れた。真っ黒なオーバーサイズのパーカーを身に纏う、フードを目深にかぶった体格的におそらく少女だった。部室が物珍しいのか、きょろきょろしながら入ってくる。その姿に店番として声をかけてやりたかったが、今は御船先生の話が気になりすぎた。
「話ですか? それって」
「ここじゃ長くなるんだ。坊主は、今日はずっと店番なのか?」
「はい」
「じゃあ日を改めよう。今度俺のほうから連絡するから、そんときにな」
一体なんの話だろう。気になる。
不意に、すっ、と横合いから真っ白な腕が伸びてきた。さっきの黒パーカーの少女が冊子を手に取っている。「これ。いい?」短く訊ねられ、弘海は「あ、はい。どうぞ」と頷く。
「そういやおれの作品、ここに並べてくれてるんだな」
気づけば御船先生は壁際の大きな本棚を眺めていた。外から一番見える位置には『オオカミくんに恋の首輪を』が全巻分、整然と並べられている。几帳面な猪熊部長が並べたのだ。それも今は学園祭仕様になっていて、最初の一巻が立てかけられ、本屋のようにポップが立っている。ポップをつくったのは茜谷さんだ。
「帰る前に、あいつらにも挨拶しとかねーとな」
「先輩たちなら二年二組の教室ですよ」
「おお、そうか。ありがとな」
んじゃな、と気さくに手を振って御船先生は入り口から去っていく。
一瞬、御船先生と久しぶりに再会する先輩たちの反応が気になったが……、あのふたりのことだ、きっと大丈夫だろう。むしろどちらかと言えば御船先生のほうが心配かもしれない。先生はあの一件にとても罪悪感を覚えているようだから。案外、ふたりに再会して早々土下座でもするかもしれない。そうだったら騒ぎになるだろうな。
(さて。さっきの子は……)
気を取りなおし、先程は満足に応対してやれなかった少女の姿を探す。
部室は狭い。その姿は勿論すぐに見つかった。……が、
「……え?」
そのとき少女は丁度冊子を手に持ったまま、そろりと入り口から出て行こうとしていた。
「ちょ、ちょっと君⁉」
「……ッ!」
弘海の大声にびくりと反応した少女だったが、むしろそれが引き金になったか、こちらを振り返ることもなくその場から走り出した。
「う、うそだろっ」
突然の事態に頭が真っ白になる。
が、すぐに我に返り、弘海は慌ててその背中を追いかけた。
しかし弘海が入り口から出ると、すでにその背中は遥か遠く……まさに脱兎のごとく逃げ出した少女の姿が廊下の角の向こうに消えていくまで、あっという間の出来事だった。
「ええぇぇ……………………」
弘海はしばしその場に立ち尽くしていた。
**
あれから二十分程が経過し……。
「元気だしなってー、ヒロミン」
弘海は店番もそっちのけで机に突っ伏して頭を抱えていた。
そんな彼の背中を撫でて励ますのは先程遅れてやってきた茜谷はる陽である。遅刻はしたもののしっかり学園祭で浮かれているのか、いつも以上にメイクもばっちりで、鮮やかな金髪も毛先が緩くウェーブしていてラフな感じに決まっている。
「仕方ないじゃん。うちらもさすがにこんな百円チラシ万引きされるとか思わんし」
「でも、あんな目の前でさ……」
「しゃーないしゃーない」
ばしばしと背中を叩かれるが、まだ弘海に顔を上げる気力はなかった。
なにせあんな近くで犯行を働かれたのだ。しかも女の子相手に。いくら直前まで御船先生に気を取られていたとはいえ、ああも堂々と目の前で物を盗まれ、みすみす取り逃してしまうなんて店番として不甲斐なさすぎる。
「どんな顔で先輩たちに報告すればいいんだ……」
「ヒロミンヘコみすぎー。そんな一枚盗られたくらいどうってことないじゃん」
「それはそうだけどさ……」
「あれだったらあたしが報告してこよーか? ちょうどこれからトキセンんとこ遊びに行くつもりだったし」
「ああ、うん。お願い……」
(店番代わってくれるつもりはないんだね……)
思ったより早く登校してきたので少し期待してしまったけど。やっぱり茜谷さんは茜谷さんだった。
「そういえば、さっき御船先生が来たよ」
「うぇ! マジ……⁉」
「うんマジ。もう帰るみたいだったけど。その前に先輩たちのところ寄るみたいだから、今頃二年の教室にいるかも」
「うっしゃあー! じゃあ今から行ってこの前の借り返してやる!」
「先生恨まれてるなあ……」
茜谷さんはぴょんぴょんと金色の髪を弾ませて意気揚々と部室を出て行った。弘海は心のなかで先生に「ご愁傷様です」と呟いておく。
「さて……気を取り直して」
長い長い店番の再開だ。
と、あらためて姿勢を正した瞬間のことだった。
——バンッ……‼
すごい勢いで、部室の扉が開かれた。