(3) 好きっていいなよ。
「申し訳ありませんでした!」
——数分後。
武道館外部から張り出した段差の上で弘海は本気の土下座を披露していた。
制服の汚れなど気にしている場合じゃない。いっそのことコンクリートに顔面がめり込んでもいい勢いでみっともなく頭を地に擦りつけていた。不倫が露見し後がなくなった夫もかくやといった捨て身の姿勢である。
「つい魔が差してしまって……盗み見なんて恥ずかしい真似をしてしまいました! もうお詫びのしようもございません! 煮るなり焼くなり好きにしてください!」
ごつっ、とまた強く頭を地に伏せる。間違いなく弘海の生涯で一番の情けない格好だった。見事なまでの土下座はいつかの茜谷はる陽をも彷彿とさせるが、安藝先輩はどこかあかれた雰囲気だ。
「べつにそこまでしないわ。いいから顔を上げてちょうだい」
「い、いえ! 今のおれにはこれぐらいがお似合いなんです! 今日は昼休みが終わるまでずっとこの体勢でいるので、先輩は気にせず教室に帰っていただいても……!」
「なおさら放っておくわけにいかないわね」
安藝先輩は、ほぅ、と静かにため息をつく。
それでも弘海がしばらくそのままでいると、やがて「……小鳥遊くん」とより近くで名が呼ばれた。まるでその声に誘われるように、弘海は土下座の体勢のままゆっくり首だけを動かして目線を上げていく。
すると弘海の鼻先に、ひょこっ、と水色の風呂敷が差し出された。
「え、ええと、これは……?」
「お弁当よ。今朝作ってきたの」
「は、はあ」
「小鳥遊くんのために」
はあ、と気のない返事を繰り返そうとする弘海だったが、
「んん……え……はああ⁉」
飛び跳ねるように上半身を持ち上げた。
「す、すみません! 今おれ、すごい聞き間違えをした可能性が……」
「小鳥遊くんのために、お弁当を作ってきたわ」
「き、聞き間違えじゃなかった!」
情報の処理が追いつかず思考をショートさせる弘海を、安藝先輩はどこか得意げな表情で見下ろす。
「サプライズ大成功、といったところかしら」
「そ、そりゃもう、ひっくり返るくらい驚いてますけど……お、おれみたいな下々の民にお弁当なんて、なんでそんな恐れ多いことを」
「どこまで自分を卑下しているのよ。もうそれはいいから……もちろん日ごろの感謝に決まっているじゃない。他意はないわ」
「いやいやいや、おれはべつに感謝されるようなことなんて」
「なにを言っているの。あなたはわたしの『好き』を守ってくれたじゃない」
夏休みに起きた御船アキオ先生とのひと悶着。
あの一件は良くも悪くもアニメ研究会に大きな影響を与えた。
弘海にとってもあれは一つの節目だったかもしれない。
「小鳥遊くんが人肌脱いでくれたおかげで、わたしは今も『オオ恋』のことが好きでいられるの。だからとっても感謝しているわ」
その感謝のお礼として、今回はお弁当を作ってきてくれたらしい。
「せ、先輩……」
「待たせてしまってごめんなさいね。本当はすぐに部室で食べてもらうつもりだったのだけれど、少し邪魔が入ったせいで、予定が崩れてしまったわ」
「じゃ、じゃま……」
「まあ丁度人気もない場所だし、仕方ないからここで食べましょうか」
ここは一応つい先程あなたが熱烈な告白を受けていた現場なんですけど……、安藝先輩にとっては本当にもうなんでもない場所なのかもしれなかった。
安藝先輩はするりと弘海の隣に腰を下ろすと、青色の風呂敷を解いていく。
「一応、わたしなりに勉強して作ってみたわ。料理なんてやったことなかったから」
「そう、なんですか? 意外です。先輩なら、小さな頃から花嫁修業とかやっているものだと……」
「いつの時代の話よ。……まあ、『小鳥遊様へのお弁当なら私が作ります』なんて、おばあ様は言ってきたけれどね。丁重に断らせてもらったわ。ふふふ、小鳥遊くんも随分好かれたものね」
弁当箱はよくある二段サイズの青い箱だった。それがパカリと開かれれば、なんとも色とりどりのおかずが目に入ってくる。定番の黄色い卵焼きに丁度いい焦げ目のウィンナー、プチトマトはまだ瑞々しく、一口サイズの肉巻きにはアスパラを巻いたものや人参やネギを巻いたものなど色んなバリエーションがあった。
(め、めちゃくちゃ美味そう……)
「これ、全部先輩が作ったんですか?」
「ええ。わたし、頑張ったわ」
珍しく褒められ待ちの子供みたいに得意げな安藝先輩である。気のせいだろうか、妙に浮かれているようにも見えた。
「じゃ、じゃあ……早速いただきます」
「ええ。召し上がれ」
促されるまま、弘海は一口サイズの肉巻きを頬張った。
もしゃもしゃ、と安藝先輩の真心に感謝の念をこめてしっかり味わっていく。
「ぶふっっ……‼」
「え」
だが直後、弘海の口から肉巻きの残骸が吐き出された。
「う……ごほっ……ごほっ‼ な、なんだこれあっま‼ しかも苦ッ‼」
口内に広がるのは、猛烈な甘さと苦さだった。
「あら? お口に合わなかったかしら?」
「そ、そんなレベルじゃないです。これは…………」
(な、なんだ、この嘘みたいな不味さは……)
「嘘だろ……こ、こんな美味しそうな見た目なのに」
「小鳥遊くん?」
「いや、さすがに肉巻きだけとか……他のも……」
焦げ目が食欲をそそるウィンナーを箸で摘まみ、口に運ぶ。「ぐふっ……⁉」めちゃくちゃ塩っ辛い味がした。ぺっ、と即座に吐き出す。
「そんな……」
一見旨そうな弁当箱のおかずたちを弘海は戦慄した面持ちで見つめる。
黄色く光り輝く卵焼きを一口……(不味い!)
瑞々しいプチトマトを一口……(不味い!)
日の丸弁当の白飯を一口……(なんか酸っぱくてべちょべちょしてる!)
「ぶふッッ……‼ コホッ……‼」
勢いよく、まるで散弾銃のように弘海の口から吐き出されたご飯粒の一つ。
それはやがて……ペタッ、と安藝先輩の頬にくっ付いた。
「コホッ、コホッ……‼ 先輩……この弁当、食えたもんじゃないです」
「意外と容赦ないのね。小鳥遊くん」
昭子さんが『私が作ります』と提案した本当の理由がわかった気がした。これはさすがに……、
「ふ、ふふ、ふふふ……」
「せ、先輩?」
「ふふふふ……」
隣を見やると、安藝先輩は能面のような微笑みを張りつけながら、明らかに変になっていた。怖い。一見いつも通りの穏やかな表情に見えるのが特に怖い。
「ふふふ……まさか、このわたしがメシマズ系ヒロインだったなんてね、ふふ……」
「な、なんですかそれ」
「あら? 知らないの?」
勉強不足ね、と先輩はよくわからないダメ出しをしてから、気を乗り直すように背筋を伸ばして座り直す。
「時に小鳥遊くん。あなた、ラブコメアニメは見るかしら?」
「きゅ、急な質問ですね……まあ、そ、それなり見ることは、あ、ありますけれど」
「声が震えているわよ」
「すみませんめちゃくちゃ見ます」
人はなぜ『アニメは好き?』には難なく頷けても『ラブコメは好き?』には余計な意地を張ってしまうのだろうか。相手が女の子だからか。自分が男だからか。
「特にオタク向けの作品では顕著な話だけれど、ラブコメに出てくるヒロインには属性と呼ばれる概念が存在するわよね」
「クールキャラとか中二病キャラとかですよね」
(あとはギャルとか眼鏡とか……)
「そう。そして可愛いヒロインが沢山出てくるラブコメでは、往々にして『誰が主人公と結ばれるのか』という点に注目が集まるものね。……ところで小鳥遊くん、あなたはラブコメにおいて最も主人公と結ばれやすいヒロインの属性って、なにか知ってるかしら?」
「あー……まあなんとなくですけど、たぶん、ツン―—」
「そう、ツンデレよ」
最後まで言わせてくれよ。
「統計に寄れば、多くのサブカル作品においてメインとなるヒロインには、このツンデレ属性があると言われているわ」
「一体なんの統計なんですかそれは」
「勿論時代に寄って傾向も移り変わり、現代ではだんだん流行からは外れてきているようだけれど、それでもやはり、ツンデレヒロインの勝率は未だにトップレベルよ。……そして。そんなツンデレヒロインとセットで扱われやすいのが、メシマズ属性なの」
「そんな情報どこに載ってるんですか……?」
「ソースはわたしよ」
(偏見じゃねえか!)
「そうでなくても特に人気なヒロインはメシマズ属性を持っていることが多いのよ。たしか、いえきっと。おそらくね」
「めちゃめちゃ曖昧じゃん……」
すっ、とやおら立ち上がった安藝先輩が、静かに前へ歩みを進めていく。
「メシマズは……最強なのよ」
振り返らずそう言ってのけた麗しき先輩女子の背中から、どこか哀愁のようなものが漂っているように感じたのは、弘海の気のせいだったのだろうか。
安藝先輩は黄昏るように、しばらくそのまま立っていた。
「ところで、今日呼び出した本題なのだけれど」
相変わらず安藝先輩の頬にはご飯粒がくっついたままだった。
指摘するべきかしないべきか。どうでもいいことに迷っていると、先輩は気を取りの直したように隣に座ってそんなことを言い出す。
「え? 本題あったんですか?」
「ええ。わたしにとっては勿論あちらが本題だったのだけれど、こちらはこちらで呼び出す口実としては重いというか、いささか気になる点もあるし、なにより本題が失敗に終わってしまったからには気を紛らわすためにも話題転換は必要というかね」
「すみません。なにを言ってるかわからないです」
「作品紹介の進捗について訊きたかったのよ」
先輩がそう言うと、弘海は「んぐ……」と声を詰まらせる。
「その反応……やっぱり駄目そうなの?」
「い、いえ書けました。書けましたよ。ちゃんと。……でもけっこう短くて。たぶん文量としては、1ページぶんくらいしか」
「…………そう。書けたのね」
弘海の予想に反し、安藝先輩は、ぱっと両手を合わせて喜んでくれた。
「すみません。おれ、みんなみたいにたくさん書けなくて」
「なにを言っているの? 書けたのならいいじゃない」
「で、でも、全然ろくなこと書けてないし、すごく短いし、もう水増しにもなってないっていうか……部員としては、ほとんど貢献できてません」
「そんなこと、気にするような人はうちの部にはいないわよ。それより、ちゃんと完成したことのほうがすごいじゃない。今までは一文字も書けなかったのに」
安藝先輩の言う通り、弘海は今まで、好きな作品のタイトルすら満足に書けない有様だった。それが今は最後まで書けるようになったのは、確かに大きな変化と言えるかもしれない。
「でも……未だに、話すことはできないままです」
「それは、声のこと《・・・・》?」
弘海は俯きながら、こくり、と頷く。
——そう。
あれは突然のことだった。
淡島くんたちを誘って、教室でやった『合評会』。あの日、弘海は教壇に立って好きな作品を紹介したのだ。みんなの前で。意気揚々と。
けれど……それはうまくはいかなかった。
途中までは普通に話せていたのに、突然弘海は声を出せなくなったのだ。まるで喉に蓋を閉められたかのように。急に口から声が出なくなり、弘海は不測の事態に焦った。焦って、それでも懸命に声を出そうとしたが……結局最後まで、言葉は音になってくれなかったのだ。
「みんな解散して、教室から出るときにはもう声は出るようになってました。でもあれから何度やっても、その、急に声が出なくなって……」
「『好き』を語ることができない?」
「……はい」
過去の自分は乗り越えることができた。それは事実だ。自信をもって言える。その証拠に吐き気はもう襲ってこなくなったから。
けれどだからこそ、今度の問題に関しては原因すら掴めず、弘海は途方に暮れていたのだ。
「ためしにやってみましょうか。小鳥遊くん、原稿は持ってる?」
「あ、はい。メモですけど……」
スマホを取り出し、メモアプリを開く。そこには作品紹介の原稿が入力してあった。
「聞き役はするけれど、わたしのことはメイクイーンとでも思ってくれればいいからね」
「それはどこの女王様ですか?」
「じゃがいもよ」
最初からそう言ってほしかった。
安藝先輩は悪びれるふうもなく、むしろ肩の力を抜いて「ふふ」と微笑みながら、弘海の発表を待っている。真っすぐ見つめられて、不意にどきりとする(ほっぺたにはしつこくご飯粒がくっついたままだが)。
弘海は深呼吸を挟んだ。そしてスマホの原稿を片手に、いざ口を開く。
「わ、私が紹介する作品は『ゴーストスマイル』という映画です。映画といっても劇場アニメで、知らない方も多いかと思います。ストーリーは幽霊の少女と、それを見ることができる少年の一風変わったボーイミーツガールで」
流暢とは言わずとも、これといった躓きもなく弘海は原稿を読み上げていく。
が、
「特徴的なのは、切ない内容なのにもかかわらず、物語全体にずっとどこか明るい雰囲気があるところで、それがすごく、すっ………んん! とっ、特にわたしが良いと思ったところは、その、最初の出会いの、部分で、少女が……そぅ…………ぁ……っ」
だんだん、自分の声がかすれて……消えていく。
弘海は慌てて片方の手で喉を押さえた。
「しょ……ぅ…………ぁ、ぁ……うぅ……!」
(出ない……)
そしてついに、なにも声が出なくなった。
(嫌だ……‼)
それでも必死に弘海は声を出そうと試みる。喉の奥に力を入れて、無理やり声を捻り出そうとするが、努力はむなしく、ただまぬけにパクパクと口を開閉させるだけに終始する。しまいには呼吸まで苦しくなってくる。
「落ち着いて」
―—ぽふ、と。
弘海の顔に温かい感触が広がる。
気づくと、安藝先輩が腕を伸ばして、両手で弘海の頬をぎゅっと包み込んでいた。
「まずは鼻から息を吸いなさい。それから呼吸を整えるの」
「ぁ……ぅ………」
突然のことに目を白黒させながら、弘海はとにかく言われた通り、呼吸を落ち着かせていく。頬を包む先輩の柔らかな両手に意識が取られる。意外と小さな手のひら、滑らかな指先から、先輩の体温がしみ込んでくるようだ。
「……ふぅ…………はぁぁ……」
していると、いつのまにか、息も声も落ち着いてきた。
「落ち着いたかしら?」
「へぁ、へぁい。おちちゅきあひた」
「そう。良かったわ」
するり、とあっけなく。
先輩の手が離れる。
「…………」
心地いい体温が消え、若干の名残惜しさに包まれるけれど……気づけばもう呼吸は元通りになっていて、まるでなにごともなかったかのようになっていた。
「どうかしたの? ぼーっとして」
「いや……なんか、魔法みたいだなって。おれ、先輩に触ってもらうだけで、すぐに辛くなくなっちゃいました」
「ふふふ、可愛いことを言うわね」
先輩はなんだかすごく嬉しそうだった。
「でも、やっぱり結局駄目でしたね」
「そうみたいね。……けれど途中まではちゃんと言えていたわ。今はそのことを喜びましょう」
「はい……」
「大丈夫よ。あなたはちゃんと前に進んでいるわ」
そうなのだろうか? 弘海はまったくもって自信がなかったが……そう言ってくれる安藝先輩を信じてみることにした。
「というわけで、今日から毎日一緒にお昼ご飯を食べましょう」
「一体どういうわけなんですか……」
「なんてことはないわ。とにかく今の小鳥遊くんに必要なのはリハビリよ。人に『好き』を伝えるためのリハビリ。その練習台に、わたしがなってあげると言っているのよ」
「いやいや……それなら茜谷さんとかに頼みますよ。わざわざ先輩の時間を奪うわけには」
遠慮する弘海だが、安藝先輩はいっそう笑みを深めて距離を詰めてきた。なんだか怖い表情だ。ほっぺたにご飯粒はついているが。
「小鳥遊くんはわたしより茜谷さんがいいの?」
「え? いや、そういうわけじゃ……」
「わたしと茜谷さん……どっちがいいの?」
「え、ええと……」
なんだろうか、この有無を言わせぬ迫力は。
もしくはこれが『女優の微笑み』の真骨頂なのだろうか。
ご飯粒はついているが。
「あ、安藝先輩です……」
「そうね。そうよね」
下民に逆らう術はなかった。
——キーンコーン……。
——カーンコーン……。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
空いた時間で安藝先輩のつくってくれたお弁当をすっぺりを平らげた(気合いとお茶で腹に流し込んだ)弘海は、若干ぐってりとしながら、そのチャイムを聞いた。
「予鈴ですね。そろそろ帰りますか?」
「ええ。そうね」
自分がつくった料理を完食されて満更でもなさそうな安藝先輩は、青色のきんちゃく袋に弁当箱をまとめると、やおら立ち上がった。
「あ、そういえば先輩」
ふと思い至って、弘海は彼女を呼び止める。
「さっき、ヒロインの話してましたよね。勝率最強の属性とか」
「ええ」
「じゃあ、逆に勝率最弱の属性って、なんなんですか?」
ぶうぅん、とフェンスの向こうの車道を、一台のトラックが通り過ぎていく。
その勢いで木々の枝葉がさざめき、道端の植物は怯み、先輩の滑らかな黒髪はぬるりと翻った。
「年上ヒロインよ」
「……」
「あと幼馴染」
どうでも良すぎる付け足しをして、安藝先輩はようやく振り向く。
「けれどね、小鳥遊くん。これだけはあなたに知っておいてほしいの」
「はい」
「年上ヒロインは、とても貴重なのよ」
弘海を見下ろすは——、凪いだ湖面のような、静謐な眼差し。
まるで百八の煩悩を払い、悟りを開くに至った、それは解脱の微笑みだった。あまりに澄んでいる。澄みすぎて、しぶとく頬にくっついたままのご飯粒も、今やダイヤモンドのように光り輝いて見える……こともなくもない。
「貴重、なのよ」
昼下がりの生ぬるい風に、一片のご飯粒が今、攫われていった。