(26) アニメ研究会より
——数日後。
夏の長期休暇を終え、始業式を済ませてから何回かの授業をこなしたのち、やってきた二学期初めての休日。
弘海たちアニメ研究会は部室に集まっていた。
理由は活動ではない。呼び出しだ。
小野原先生の突然の号令により急遽招集された部員一同は、よって、休日の昼下がりに久しぶりに顔を合わせることになった。いろいろと積もる話があったため、早くみんなと会いたいと思っていた弘海にとっては嬉しい招集だったのだが、いざ部室に入ると、それどころではなくなった。
挨拶も早々に、戦々恐々とした面持ちの安藝先輩と猪熊部長、ひとり好奇心で瞳を輝かせた茜谷さんの三人とともに、部室のテーブルのうえに置かれた大きな段ボールを弘海は唖然と立ち尽くしながら見つめる。
「今朝学校に送られてきたのよ~。ほんと急で、先生とっても苦労したんだから~。しかも宛先が『アニメ研究会様』なんだからさあ」
「さ、差出人は、誰だったんですか?」
部長が訊ねると、小野原先生は呆れ顔で答える。
「安藤秋吉さんだって~。知ってるう?」
知らない。だれだろう?
弘海は首を傾げたが、猪熊部長は思い当たる節があったらしい。
「み、御船先生の本名です……」
(え? そうなの?)
みんなの視線が一斉に段ボールへ集中した。
ごくり、と猪熊部長は固い唾を呑むと、部の長としての責任感からか決然と先陣を切った。段ボールのガムテープを丁寧に切ってなかを開く。茜谷さんも待てずに横から覗き込んだ。
「こ、これは……‼」
「なになにっ! なんだったの!」
なかにあったのは……、
「お……『オオ恋』の漫画です。しかも原作者サイン付きで、ぜ、全巻分ありますよッ! それだけじゃなく、こ、こちらはドラマCD付属の特装版にクリアファイル……アクリルスタンドに……あ、藍原ちゃんの限定フィギュアまで⁉」
「キャーッ、なにこれ可愛すぎ‼ こんなのあったの⁉」
送り物の中身はなんと大量の『オオ恋』グッズだった。それも相当豪華な品物らしく、まるで宝石箱を開けるかのようにふたりは色めき立っていた。
「お詫び、というわけかしらね?」
「たぶん……そう、じゃないかと」
「ふふふ、御船先生も、なかなか粋なことをするわね」
安藝先輩は愉快そうに微笑む。そこにもういつかの陰りは見えなかった。
「けれど、どうして学校に直接送ってきたのかしら?」
「サプライズ、ですかね……? もしくは、おれの住所に送ると、うちの母親からなにか言われるかと思った、とか……」
(うん。そっちのほうがありそう)
本当にどんな弱みを握られているのやら。今度聞いてみてもいいかもしれない。
「ふたりとも、とても楽しそうね……」
安藝先輩はグッズを物色して興奮しているふたりの女子を嬉しそうに眺める。
「……おれはてっきりもう、みんな『オオ恋』のこと、好きじゃなくなったと思ってました」
「長らく話題にすることも避けていたものね。もしかすると、このまま忘れようとしていたのかもしれないわ」
「忘れる、ですか……」
「ええ。大きな熱意も過去になればただの記憶になるわ。好きな気持ちのまま感情が風化していくことが、あの子たちにとって唯一の救いなのかもしれない。……なんて、そんな馬鹿なことをわたしは少し前まで考えていたのだけれど」
くすりと笑って先輩はまぶたを閉じる。
「柄にもなく寂しい考え方をしてしまったわ。やっぱりわたしも、少なからずショックを受けてしまっていたみたいね」
「あんなことがあったら、仕方ないですよ」
「いいえ。ああいうときこそ、先輩のわたしがしっかりするべきなのよ」
「部長もですけど、先輩もけっこう水臭いですよね」
「ぅ…………責任感が強い、と言ってくれると思っていたのだけれど」
痛いところを突いてしまったか、珍しくぎこちない口調の先輩だったが、それも僅かな間だけで。「まあ、だから」と腕を組み直して、
「この光景は、あなたのおかげよ」
「……」
猪熊部長と茜谷さんはなおもグッズを漁って瞳を輝かせている。
一度薄れてしまったかのように思えたみんなの熱意が、またこうして今、彼女たちのなかに戻りつつあるように見える。そのことに、弘海は安堵を覚えた。ただそれが自分のおかげだと言われると、まったく実感も湧かないけれど。
あのとき自分が選んだ選択は間違いではなかったかもしれないと、そう思えるくらいには、弘海も目の前の光景が嬉しかった。
「おふたりもこっちに来てください」
「そうだよ! トキセンとヒロミンも一緒に見ようよ!」
「ああ、うん」
(まあ、でも……)
あんなにすぐに立ち直れてしまうのだから、やっぱり、このふたりが図太いだけなのかもしれない、なんてことも思ったりして。
「あ、底のほうに手紙もあります。御船先生からでしょうか?」
「おっ、読んじゃえ読んじゃえ!」
——アニメ研究会様へ。と書かれていた茶封筒から便箋を取り出し開くと、部長は代表して文面を読み上げ始めた。
文面は長く、持って回った言い方も多かったから、少しわかりづらかったけど、要するに『酷いこと言ってすみませんでした』という内容だった。
「ぶっ……‼ センセー、字ヘッタ‼ 読みにくすぎでしょッ‼」
茜谷さんは御船先生の拙い文字に噴き出して笑い転げ、
「わざわざ直筆で書いていただいたんですね……」
文面から不器用な謝意を汲み取った猪熊部長は瞳を潤ませ、
「……」
安藝先輩はなにも言わずただ手紙を胸に抱きしめていた。
「いいことだったみたいね~。よかった」
「あ、はい。なんかすみませんでした。先生」
「いいのよ~。じゃあそれ、持って帰っといてね~」
と言うと、小野原先生はそそくさと部室を去っていた。相変わらずあの人は顧問として真面目なのか不真面目かよくわからない。
とりあえず、と弘海は元通り元気になった部員たちを見回し、笑顔を浮かべた。
「そういえば今度、直接謝罪しに来るって言ってましたよ。御船先生」
「え、マジで! じゃあ次会ったら罰ゲームとかしてもらおうよ!」
「け、けっこう、根に持ってたんだ……」
「センブリ茶って、どこで買えるんでしょうか?」
「え? 部長も……?」
意外とふたりのうらみは深いらしかった。
「というか、どうしてそんなことを小鳥遊くんが知っているんですか?」
「え? あ……」
「小鳥遊くんは先日、御船先生と会っていたのよ」
「ちょ……⁉ 先輩!」
「は? なにそれ! どういうこと⁉」
「わたしたちのために色々と話をしてくれていたのよ。この段ボールが届いたのも、小鳥遊くんのおかげなのよ」
「ぜ、全部言いますね!」
「そ、そうだったんですか。小鳥遊くんがそんなことを……」
「ヒロミンなに話したの⁉ 詳しく聞かせて‼」
「い、いやおれは」
茜谷さんが「つーか水臭くないヒロミン⁉」とぐんぐん詰め寄ってくる。そこに猪熊部長が「わたしも知りたいです」と加勢すると、いよいよ逃げ場はどこにもなかった。あわあわと慌てる弘海は助けを求めて先輩へ視線を投げるが、安藝先輩は「ふふふ……」と微笑むだけで助け舟を出してくれる気配は一ミリもない。
「み、みんな、落ち着いて」
「ヤだ! ヒロミンが話してくれるまで落ち着かないし!」
「わたしも部長として、部員の大事な話は聞かなくてはなりませんね」
「えぇぇ……」
困り果てる弘海の視界の隅のほうで、安藝先輩が悠然と歩みを進める。
おもむろに段ボールのなかから漫画を一冊手に取った。優しい眼差しでその一冊を見下ろし、やがてたおやかな指先で表紙を撫でると、初めて見るような無邪気な笑みを浮かべて、こちらを振りかえる。
「小鳥遊くん。わたしきっと、前よりこの作品のことが好きになったわ」
それは弘海が一番聞きたかった言葉だった。
**
九月中旬。
今日も朝から青空は澄み渡っている。
太陽は絶好調のかんかん照り、地球温暖化の著しい猛暑日だ。
学校へ続くアスファルトの道はうだるような暑さに支配され、自然と他の生徒たちの足取りも億劫そうなものになっている。
夏休みが終わると、すぐに以前までの学校生活が戻ってきた。
長い休暇から生活のリズムを戻していくのは大変だけれど、普段からテニス部の活動で登校していた弘海にとっては、そこまで差を感じることでもなかったりする。
蝉の鳴き声がなおも騒がしい登校坂を上っていき、学校へ着くとすぐに蒸し暑い体育館で全校集会が行われ、その後はいつもの教室でいつもの授業が始まる。
いつのまにか、二学期だ。
半年くらい前、まだ入学式を終えたばかりの頃は、教室のどこを見ても初めての顔ぶれで、この先本当にやっていけるのかと不安になっていた。中学の地域からはできるだけ離れた高校を選んだのだからそれも仕方のないことだったけれど、どこか新しい場所で一からなにかを始めたい気持ちがあったこともたしかだ。
そしてそれが正解だったと今なら言える。
「なーなー、一体なにが始まるんだ?」
がらりとした放課後の空き教室で、適当な席に座りながらわくわくとした期待の表情で周りを見回すのは、弘海のクラスメイトである淡島くんだった。今日も今日とて自慢の外ハネヘアーは健在で、笑うたびに覗く八重歯から人懐っこさが溢れ出ている。
「文芸部の活動、だろ? それに混ぜてくれるって話だったな」
「そりゃそうだけどさー、なにするかは聞かされてねーじゃん!」
「ほんまにうちら参加してもよかったん? やかましくてお邪魔やないかな?」
いつも通り青縁眼鏡に爽やかな面持ちの山吹くんと、夏休み後からいっそう健康的に日焼けした谷口さんのふたりも、その近くに座っている。
「大丈夫だよ。そもそもみんなを呼んだのはおれなんだし」
そして、弘海は教壇に立っていた。
これが一体どういう状況なのかと言えば、山吹くんの言葉通り、表向き文芸部の活動の一環にして、実際はアニメ研究会の活動の日である。まあ、つまるところは要するに。
今日は、弘海の『合評会』だった。
「それならええんやけど……それより、なんで茜谷さんはそないなところにおるん?」
ビクッ、と肩を弾ませたのは、教壇の裏側、ちょうど淡島くんたちから死角になるところに座っている茜谷さんだった。
「は、はは……気にしないで」
弘海はとりあえず笑って、茜谷さんのそばにしゃがみ込む。
「ねえ茜谷さん、実はおれも同じこと聞こうと思ってたんだけどさ」
「し、仕方ないじゃん! あたし、みんなと一度も喋ったことないんだもん!」
メロンパンを齧りながら茜谷さんが青ざめた顔をしている。弘海は呆れ顔になった。
「一応同じクラスメイトだよね? 流石に一度もないとかそんなこと」
「あんの! だってあたし話しかけられても無視しまくってたし!」
「自業自得じゃん、それ」
「きっ、緊張するんだもん! とくにあいつら、いっつも笑顔でなに考えてるか全然わかんないし、もし裏で陰口叩かれてたりなんかしたらあたし絶対立ち直れないし!」
「茜谷さん……そんなキャラだったっけ?」
こんな人間不信なギャルは見たことがない。よく二学期も来れたものだ。
「ていうかそのメロンパンはなに?」
「お昼食べ損ねたの! 今登校してきたばっかだから!」
今は放課後なのだが。こんな調子で進級とかできるのだろうか。心配だった。
と、そんな馬鹿なやり取りをしていると、教室後方のドアが突如として開く。
「あら、もうみんな集まっているのね」
優雅に教室へ入ってくるのは約一週間ぶりに会う安藝先輩だった。そして後ろから小柄な猪熊部長と顧問の小野原先生も続いて入室してくる。
「ほ、本物の安藝先輩だッ!」
と、勢いよく席を立ったのは淡島くんだ。まるでハリウッド女優にでも出くわしたかのようなテンションである。「「おお……」」と他のふたりも、校内きっての有名人の登場に驚きの声をあげていた。
安藝先輩は腕を組んだ悠々とした立ち姿で三人の顔を見つめ、やがて『女優の微笑み』を浮かべる。
「あなたたちね。小鳥遊くんのクラスメイトは」
「はい! 小鳥遊くんの親友の淡島って言います!」
「え」
知らない間に親友になっていた。弘海は唖然とした顔で教壇から視線を送るが、調子のいい淡島くんは気づかない。
「谷口です。うちは親友やないけど、今日はよろしくおねがいしまーす」
「同じく山吹です。先輩に会えて光栄です」
「ふふ、みんな元気でいいわね。二年の安藝朱鷺子よ。どうぞよろしく」
「部長の猪熊まいるです。よろしくお願いします」
ぺこり、と頭を下げる猪熊部長に、三人の「「「え……こっちが部長?」」」という心の声が聞こえた気がした。以前にも言っておいた気がするのだが。
「みんな今日はごめんなさいね。本当は部室に招待したかったのだけれど、この人数では少々手狭だから、わざわざ二年の教室に足を運んでもらうことになってしまったわ」
「い、いえいえ! 安藝先輩の頼みならお安い御用です!」
「あんた鼻の下伸ばしすぎちゃうかー」
「しゃあねーだろ! こんな近くで実物を拝める機会なんてそうそうねえーんだから!」
「あら? 同じ学校なのだし、これから会う機会も少なくはないの思うのだけれど?」
「話しかける勇気がないので無理です!」
「だっさ!」
「そう、なの? それじゃあ寂しいけれど仕方ないわね。後輩に知り合いができると思って、とても楽しみしていたのだけれど」
「やっぱり頑張って勇気出します」
「あんたなあ……」
「俺も見かけたら挨拶していいんですか?」
「もちろんよ。いつでも話しかけてくれると嬉しいわ」
「よっしゃー!」
近づく口実ができて淡島くんは喜んでいた。正直みんなと顔を合わせたらどうなるかと心配していたのだが、なんてことはない、安藝先輩もみんなもすぐに打ち解けていた。
……淡島くんの視線がずっと安藝先輩の下半身に注がれているのは見なかったことにしたいが。
「あの、……淡島くん? わたしの足になにかついているかしら?」
(普通顔じゃないか?)
「おらあ、このケダモンがぁ‼」
「いっ、いって……ッ‼ な、なんで殴んだよおまえ!」
「ったりまえやろ! 先輩に下卑た視線向けやがってからに……‼ 先輩方、ほんま申し訳ないです、こんなケダモノ連れてきてもうて」
「だってこんな理想の美脚の持ち主ほかにいねえんだぞ! むしろ目に焼き付けとかなきゃ失礼ってもんだろうがよ……‼」
「あんたもう黙っとき‼」
「び、美脚…………」
安藝先輩は自らの黒タイツに覆われた長い足を見下ろし、ほんのり頬を染めた。もじもじと両膝を擦り合わせて恥ずかしそうにスカートの裾を引っ張る。先輩は意外とこの手の話題には弱いのだ。
「「…………‼」」
いつもの余裕な態度からは考えられないほど、しおらしく俯く安藝先輩の姿に、淡島くんと谷口さんはまるでビッグバンを目撃したかのような驚愕の顔つきになっていた。
「み、みなさん、そろそろ席に着きましょう」
空気を読んだ猪熊部長の一声のおかげで、各々はようやく席に着いた。
教壇に立つ弘海からは、教室にいる全員の顔が見渡せた。
窓際の席で固まっているのは三人、うち淡島くんは依然として期待の眼差しでこちらを見上げており、快活とした谷口さんはにこやかに手を振ってくれていて、山吹くんはおもしろそうな表情で青縁眼鏡をくいと持ち上げる。教室中央辺りでは安藝先輩が折り目正しく着席し、後輩を見守るような顔つきで微笑んでいる。いつのまに移動したのか、茜谷さんは先輩の背後に身を隠して「ヒロミンがんばっ」と口を動かして応援してくれている。唯一廊下側で静かに、おとなしく席に着いている猪熊部長も励ますような笑顔を見せてくれた。小野原先生も一番後ろに立って相変わらず読めない表情で見つめている。
みんなが弘海を見ている。みんなが弘海の言葉を待っている。
以前までの弘海にとって、それはとても恐ろしいことだった。
逃げたくなるくらい怖くて、足が竦むほど苦しいことだった。
けれど今は違う。
「みなさん、おれのために集まってくれてありがとうございます。今日は合評会で、合評会っていうのは、各々が好きな作品について話して、みんなと語り合う会のことです。だから淡島くんたちも、聞くだけじゃなくて、いろいろと気楽に話してくれると嬉しいです」
淡島くんは一瞬、拍子抜けしたような顔をしたけれど、弘海の話を最後まで聞くと、「おっけー、まかせろ」と頼もしい笑みを見せてくれた。
そう。怖がるべきものはどこにもない。
ここにいるみんなは敵じゃないのだ。
「ありがとう。……じゃあ、さっそく話したいと思います」
空きっぱなしの窓から涼しい風が吹く。
カーテンが海月のように揺れた。
チョークを手に取ると弘海は黒板にタイトルを書いていく。慣れなくて指が震えるけど、そこに恐怖はこれっぽっちもなかった。あるのは胸を満たす高揚感と、ほんの少しの、心地のいい緊張だけ。
きっと、もうあの頃を思い出すことはないだろう。
白い粉がさらさらと舞う。落ち着いた静寂が教室を包む。
書き終わる。チョークを溝に置く。弘海は後ろを振りかえる。
安藝先輩と目が合った。
先輩は穏やかに微笑み、優しく頷いてくれた。
「……」
弘海も小さく頷き返す。
——さあ、始めよう
。
怖がらず、怯えず、ただ好きな気持ちをありのままに。
みんなで笑って、みんなで分かち合あって、みんなで語り合おう。
「おれの、好きな作品は――」
愛を込めて。