(24) だから僕は、好きが言えない。
御船先生からやや距離を開けるように弘海もソファーに座る。専用のリモコンでテレビを操作して、アニメ配信サイトから『オオ恋』の再生画面を開く。
「はぁ……なんでこんなことになってんだ」
御船先生はそう言って隣でため息をつく。
「自分のアニメを観るのがそんなに嫌なんですか?」
「作家ってのは、繊細な生き物なんだよ」
「よくわからないですけど……今からはおれ、できるだけ先生のことを原作者として見ないようにしますから。そのつもりで」
「おまえ、なかなか肝が据わってるな。前に会ったときゃ、そんなやつには見えなかったんだが」
「ぶっちゃけ勢いでごまかしてます」
「ああ、やっぱりそうなんだ……」
我に帰ったら、きっと緊張してなにも喋れなくなるだろうから。
「そもそも先生はどうしてアニメが苦手なんですか?」
気になったことを訊ねると、御船先生は渋々といった顔で話した。
「……原作へのリスペクトを感じない。映像作品は映像作品の良さでしか戦わない。だからアニメから入って原作を読むと、なんか違う、これじゃないってなる。それが気持ちわりぃ」
偏屈な人だと思った。もしくはそういうような部分がものづくりには必要なんだろうか。いや、やめよう。今は原作者として扱わないと言ったばかりじゃないか。
弘海は再生ボタンを押す。選んだのは一話ではなく四話だった。
急に途中から始めたことに関して先生は一切口は挟まなかった。怪訝そうな表情はされたがさっきの言葉通り、全部付き合ってやろうという心積もりなのだろう。それはありがたかった。
一秒目からオープニングが始まったがあえて飛ばさない。最近はプロローグのシーンから入ってオープニングを流したりすることが多いが、弘海はこの昔ながらのシステムが好きだった。始まった、という感じがして、なんだかわくわくする。
「こんなオープニングだったか。懐かしいな」
ソファーの肘置きに頬杖をついて、御船先生は神妙な顔で声を漏らす。
『オオ恋』は学校中から『嘘つき』と蔑まれ、嫌われている柊木征志郎が、無愛想で正直すぎる少女、藍原透に恋をするところから始まる物語だ。
そして第四話は、そんな柊木が藍原に初めて嘘をつかず、正直な気持ちを伝えようと四苦八苦する過程がメインで描かれる。
「先生は以前、藍原と柊木の性格は、他の作品のキャラクターから真似たんだって、言ってましたよね」
「ああ……そうだ」
「でも、やっぱりこの二人はそれだけじゃないと思います。ある人が言ってました。藍原も柊木も、物語のなかでちゃんと変わって、成長していくんだって。その様がとにかく魅力的でかわいいんだって」
「……」
「キャラクターの生まれた過程がどうであれ、藍原たちを本当に魅力的に見せたのは、この物語だと思います。物語のなかでキャラクターの意外な一面が見えて、そういうギャップにやられて……こんな素敵な物語を作った人に、愛情がなかったなんて到底思えません」
「……」
「だ、だから……」
「好きなんです」
――言った。
好きだと言った。
たしかに言った。
だれかにこれを言うのは一体何年ぶりだろうか。もうわからない。
しかし口から滑り出た『好き』はトラウマを刺激することはなく、思った通り、思った以上に、すんなりと発することができた。心臓の鼓動は穏やかで、口のなかが苦くなることもない。
(……よかった)
どうやらうまくいったようだ。
「……作ってるやつもプロなんだ。客に最低限いい作品を提供するのは義務ってやつだ。愛情があったかなんてわかんねえよ」
「わかります。わかる人には、わかるんです」
「おまえに俺のなにが」
「今の先生は先生じゃないです。最初に言いましたよね」
「ぅ…………くそ、ややこしいな」
頭を掴んでがしがしとする先生を尻目に、アニメは進んでいく。
そしてあっという間に四話のクライマックス。夕焼け空の下、丘の上で柊木が藍原への偽らざる本音を伝えるあのシーンが流れ出す。
『俺は、きっと君が好きだよ』
『あなたのそれは、おそらく勘違いです』
二人は見つめ合い、紆余曲折あって、無事両想いとなる。
そんなわずか数分程の場面を、気づけば御船先生は食い入るように見ていた。
「このシーンって、こんな感じだったか……? 漫画のほうじゃ、もっとさらっと描いてた気がするんだが」
これは……、と先生は思わずといった具合に呟く。
「いいシーン、ですよね」
「んぐ……」
よっぽど口に出したくなかったことなのか、弘海が言うと、御船先生は食べ物が喉を詰まったような変な声を漏らした。
弘海は映像を巻き戻し、もう一度同じシーンを再生する。
「そう思える理由は、たぶん音楽です。このシーンのBGMには、すごく切ない音楽が使われているんです。ほら、これ」
スピーカーから声優の演技に重なって、繊細なピアノの旋律が流れ出す。
「…………ほんとだ」
「展開だけを見れば、ただの甘酸っぱい告白シーンに思えます。でも、そこに切ないBGMが使われていることで、それだけじゃない、変わりゆくことの不安とか、喜びとか、そういった藍原たちの複雑な心の揺れを感じることができて、とても印象的になっているんです」
「……んん」
「もしかしたら、『オオ恋』を作った人も、そういう気持ちを表現したくて、このシーンを描いたんじゃないですか」
「…………そう、かもしれない」
「こういう独自の表現が、みんながアニメを好きになる理由の一つなんです」
そう。
みんなが。
「独自な表現、ね……」
難しい顔で呟く先生は、気づいているだろうか。
作品の良さを語る弘海の、声に、言葉に、表情に。
これっぽちも、気持ちが込もっていないことに。
「それに、作画だってすごいと思いませんか?」
「どこらへんがだ?」
「見たままです。すごく漫画に寄せた描き方になってるじゃないですか。絵を見れば、一発でこれは『オオ恋』だってわかります」
「そんなの、あたりまえだろ」
「そんなことないですよ。絵を動かすって絶対大変なことです。想像しかできないけど、たぶん動かしやすい描き方とか、もっとリアリティのある描き方だってできるはずです。でも、これは『オオ恋』だから、あえて手書きっぽい線を残して、リアリティよりも、漫画の空気を壊さないよう、原作を尊重した描き方をしてるんじゃないですか」
よくもまあぺらぺらと。
こんなに言葉が出てくるものだと思う。
一つだって、自分の言葉じゃないのに。
「…………い、言われてみれば、たしかに」
弘海はこの数週間で、トラウマというものの厄介さを嫌という程痛感した。
自分の好きな気持ちを伝えようとすると、かつてのトラウマが呼び起こされ、身体に異常をきたし吐き気を催す。
けれどよく考えてみれば、それは自分の『好き』を伝えようとするからなのだ。
他人の『好き』を伝えるだけなら、トラウマは刺激されない。
それは、弘海の『好き』ではないのだから。
『自分の気持ちを伝えなくても、『好き』を伝える方法はあるわよ』
あの母親の頓智みたいな屁理屈は見事成功していた。まるで魔法だ。あんなに怖くて仕方なかったのに、自分のじゃない言葉でなら、こんなにもすらすら語れる。
愛を込めなくても、愛は語れる。
「ここなんかは、すごくアニメの良さが表れていると思います」
九話の水族館の名シーンを見せると、御船先生はまるで魅了されるように画面に釘付けになっていた。このシーンは特別だ。先輩たちが語ってくれたから間違いない。
「言葉で表現できないことが全部、ここでは映像だけで表現されています」
「ああ……俺も、ここは気合を入れて描いたんだ。表現したいことはたくさんあったが、全部は描けなかった。でも、そうだ。こんなふうにあの頃は想像してた……」
描いたこと、描きたかったこと、すべてが映像として表現されている光景を、およそ十年越しに見て、先生はまるで茫然と呟く。
「なんで、ずっと忘れてたんだ……」
それからも弘海は『オオ恋』の良さについて伝え続けた。
御船先生はそのうち真剣に、まるで同じただの視聴者のように話を聞いて、自分の感想も言ってくれるようになった。
(最低だな……おれ)
弘海は笑顔の裏で自分を蔑む。
やっと心を開いて言葉を交わしてくれるようになった相手に対して、まるで中身のない、受け売りの言葉を返すだけで、自分はなに一つ本音で向き合っちゃいないのだ。
(なにが語る、だよ……)
偉そうな顔をしておいて、わかったような口を聞いて。
なにかを『語る』権利なんて、お前にはない。
「……悪かったな。いろいろと」
玄関の扉を開き、外廊下に一歩踏み出したところで、御船先生は振り返った。
「いや、ありがとうだな。こういうときは……おまえと話したおかげで、昔の気持ちをいろいろと思い出したよ」
「おれは、べつに」
弘海は視線を逸らす。なんとなく目を合わせることができなかった。
「実はな、もう辞めようと思ってたんだ。漫画家」
「えっ……?」
唐突に衝撃的なことを言われて、流石に顔を上げざる得ない。
「な、なんで」
「理由は沢山ある。前より稼げなくなってきたとか、他のことをやりたくなったとか」
「……」
「まあでも、一番でかいのは、自分が本当はなにが描きたいのか、わからなくなってきたことだ」
御船先生はサングラスを外して、外廊下から見える、透き通るような青空を眺めた。
「それで自暴自棄になっててな。そんなところに俺の話をしてるおまえらに会ったんだ。すげえ嬉しくてさ。だが、おまえらが楽しそうに語んのは昔の作品ばっかで、なんかそれが、今の自分を否定されてるように聞こえたんだ」
「み、みんなは、そんなつもりは……」
「ああ、わかってるよ。勝手に裏切られた気持ちになったのは俺のほうだ。なのに勢い余って、一番否定しちゃいけないもんを否定しちまった。自分の作品を好きでいてくれるファンの気持ちに唾を吐いちまったら、それはもう作家失格だ。辞めちまったほうがいい」
「や、辞めちゃダメですよ!」
思わず声を張ってしまった。勢いで身体も玄関から出てしまう。
御船先生は驚きに目を見開くと、やがて勝気に笑った。
「辞めねーよ。目が覚めたからな。おまえらのおかげで」
憑き物が取れたような、晴れやかな表情だった。
「近いうちに礼でも送るさ。あと、あの子たちにも、謝罪させてくれ」
「……は、はい」
急に大声を発したせいか、どっと汗が吹き出してきた。ずっと涼しい家にいたから、暑さのせいもあるだろう。ふらつく身体をなんとか支えて返事をする。
「じゃあな。風香の息子」
御船先生は軽やかな足取りで去っていく。
しかし途中で「ああ、そうだ」と一度歩みを止めて、首だけでこちらを振り返って言った。
「おまえ、さっさと寝ろよ。そんな真っ青な顔でいたら、風香が驚くぞ」
「…………え」
額から浮き出た汗の粒が、顎を伝って足元へ落ちていく。
「ッ……!」
慌てて玄関内に戻り、弘海は靴箱の上に置いてあったスタンドミラーを確認した。
「な、なんで」
艶やかな楕円形の鏡のなか――
流れ出す大量の汗で前髪が額とくっ付き、まるで生気を失ったように青白い顔している自分と、目が合った。