(23) マーマレード・ボーイ
その日から四日後、八月、夏休み最後の日。
この日はテニス部の活動もなく、朝早くに起きてから来客を報せるチャイムが鳴るまでずっと弘海は自室で勉強をして過ごしていた。本当は運動なり瞑想なりしながら緊張を解しておきたかったのだけれど、急にまだ終わっていない課題を見つけてしまったのだ。こういう詰めの甘さは昔から改善しない。
作家業を営む母親は外でデスクワークをすることが多く、あまり家にはいない。そんなわけで来客に対応するのは大体弘海の役割になる。
「お邪魔致します」
「どうぞ」
心なしか表情を強張らせた安藝先輩は聖地巡礼のときよりも若干フォーマルな私服に身を包んでおり、リビングまで来るやきょろきょろと不躾にならない範囲で室内を見回した。
「お母様は、いらっしゃらないのかしら?」
「締め切りが近いんで、今日はずっと事務所で書いてると思います」
「そ、そうなの」
胸元に手を置きながら、残念なような安心したような面持ちでほっと一息つくと、先輩はぱちぱちと何度か繰り返した。
「では……今回はどうして呼ばれたのかしら? てっきり嵐子先生に会わせてもらえると思っていたのだけれど」
「目的はちゃんとありますから。すみません。ぬか喜びさせてしまって」
「謝る必要も、ないのだけれど……」
年齢も近しい男子の家に招かれるのは初めてなのか、先輩はどこかそわそわと落ち着かない様子だ。それでも説明もなしに呼ばれてもこうして来てくれるのだから、それなりに信頼されているのだろう。
「実はもう一人、呼んであるんです。たぶんそのうち来ると思います」
「あら、はる陽ちゃんかしら? それともまいる? けれど、それだったらわざわざ別々に呼ばなくてもよかったのではないかしら」
「いえ……一緒に呼んだら、先輩が来てくれないかもしれないって思ったので」
「わたしが……? 一体どなたなのかしらね?」
微塵も警戒する様子もなく安藝先輩は微笑む。
先輩は取り繕うのがとても上手いらしいから、内心ではどう思っているかはわからないけれど。
と――そのとき玄関のチャイムが鳴った。
「あら……?」
どうやらそのもう一人が来たらしい。予定よりずいぶん早い到着だった。途中で安藝先輩と鉢合わせしなくて本当に良かったと思いながら、弘海は先輩の手を引く。
「こっちです。先輩」
「え? ちょっと……お客様は……」
困惑する先輩を部屋の隅っこのほうへ連れていくと、リビングのほうから見えないよう、キッチンの影へと少々強引に押し込ませてもらう。
「すみませんがここに隠れておいてください。絶対に出てきちゃダメですよ」
「な、なに? どういうことなの?」
「説明はあとで……信じてください。お願いします」
突然の展開に動転している先輩は流されるまま、準備良く敷かれてあった座布団代わりのクッション(流石に床に直接は恐れ多かった)にお尻をつけて座る。
「一体なにをするつもりなの? 小鳥遊くん」
上目遣いに見上げてくる安藝先輩は、どこか不安そうに思える。
「おれはただ、先輩の教えてくれたことを実践するだけです」
「教え?」
「はい。先輩言ってましたよね。……好きなことを語ることは、とても素敵なことなんだって」
「え、ええ、言ったけれど……でも、あなたはまだトラウマが」
弘海は「大丈夫です」と白い歯を見せるように笑った。
「おれが語るのは――おれの『好き』じゃないですから」
玄関では三度目のチャイムが鳴り響いていた。そんなに押さなくてもすぐ出るのに。せっかちな性格なんだろうか。
しかもその上「おーい風香ー、来てやったぞー」と大きな声が扉の向こうから呼びかけるので、同じマンションの住民に迷惑をかける前にさっさと対応しなくてはならなかった。
「遅ぇぞ風香……」
扉を開ける。
「って、お、おまえ……」
「こんにちは。御船先生」
玄関から出てきた弘海の顔を見て驚愕を露わにするのは、爽やかなベッカムヘアーにサングラスをかけた男。
まだ京都のファミレスで出会った日から久しい、『オオ恋』の原作者である御船アキオ先生だった。
「なっ、なんでおまえが……! ふっ、風香はどうしたんだ!」
「小鳥遊風香はおれの母親です。今回呼び出させてもらったのは、おれの用件です」
「ま……マジかよ……」
やられた……、と引き攣った顔で御船先生は立ち尽くす。
いつか語っていた、あの母親が御船アキオと同級生であるという話は本当に事実だった。高校と大学が同じで、事あるたびに出くわす腐れ縁のような仲なのだと。
今回はその縁を利用させてもらった。
――大丈夫よ。あいつの弱みはたっくさん握ってるから。
たいへん悪い顔でそう豪語していたあの母親の言葉通り、すでに里帰りを終えて戻ってきていた御船先生を家へ呼び出すなんて真似はまるで造作もないようだった。一体どんな弱みを握られているのかは知らないが、こうしてすぐに馳せ参じたのを鑑みるに、あの母親に酷く脅されたらしいのは明白だった。
「とりあえず、入ってください」
「……や、ヤだね。俺は帰る。相手が風香ならいざ知らず、なんで息子の言うことまで聞かなきゃならないんだ」
「いいんですか? 弱み握られてるんですよね? おれの母親に」
「う……」
(本当にどんな弱みを握られているんだよ)
言葉を詰まらせる御船先生は、やがて深々とため息をついた。
「はぁ……悪かったよ。あの日は。俺も大人げない真似をしたと思ってるんだ。若者相手に講釈垂れて、なにしてんだかな……」
あのときのことを反省しているのか、ぽりぽり、と頭を掻きながら、
「おまえらも、せっかく良い旅行中だったのに災難だったろ。たいして好きでもない作品の作者に捕まっちまって」
「やっぱり……なにもわかってないんですね」
「わかってないって、なにが?」
「おれたちは、ただの旅行に来てたわけじゃないんです」
「はぁ? じゃあなんの……」
「『オオ恋』の、聖地巡礼ですよ」
「は?」
まるで予想外なことを言われたみたいに御船先生は唖然とする。けれど弘海はどうしてそこまで驚くのかわからない。
あんなにみんなで『オオ恋』のことを好きだと話していたのに、なんでこの人はそんなことにすら思い至らなかったんだ。
「嘘だろ? そんなの……」
「なんで、嘘だと思うんですか。好きって言ってたじゃないですか、あんなに」
「いやいや……いくら好きだからって、わざわざあんな遠くまで行ったりしないだろ。なにかのついでとかじゃないのか?」
「違いますよ。活動の一環です。アニメ研究会の……」
「あ、アニメ、研究会?」
「はい。高校の部活です」
「部活……高校の…………えっ、待て。待て待て」
御船先生はみるみるうちに顔を真っ青にした。
「おまえらまさか高校生か……⁉」
「は、はい。そうですけど。もしかして知らなかったんですか?」
「ぁ…………」
御船先生は立っていられなかったのか、ずるずると体勢を崩して、その場にしゃがんで頭を抱えてしまった。
「今の高校生って、あんな増せてんのか……」
たしかにあの日の女子部員たちはお洒落もしっかりしていて、ナチュラルだがメイクも施していた。
大人っぽい安藝先輩もいたし、そう見えるのは仕方ないかもしれないが、それにしたって気づいていなかったなんて思わなかった。
「俺は……なにやってんだ……子供相手に……」
自己嫌悪に陥った先生が呆然と呟く。その様子からは大変なショックを受けていることが窺えた。だがそんなことが目的でわざわざこの人を呼んだわけではない。
「顔を上げてください。おれはべつに反省してほしいわけでも、さっきみたいに謝ってほしいわけでもないんです」
「……じゃあ、一体なんなんだ」
決まってる。
「語るためです」
リビングまで先生を招くと、弘海は壁際で黙りこくっていた大きな液晶テレビの電源を点けて、いそいそと準備をし始める。
「なにをしてるんだ」
——ドタッッ
御船先生が声を発した途端、キッチンのほうから、小さくない物音が響いた。声だけでだれが来たのかわかったらしい。
「な、なんだっ、今の音は」
「気にしないでください。それより一つ、先生に確かめておきたいことがあります」
弘海は準備をするかたわら、先生に背を向けつつ訊ねる。
「先生は、『オオ恋』のアニメ、ちゃんと見ましたか?」
「なっ……、なに言ってる」
返答には、少しの間があった。
「あたりまえだろ。そんなの制作中に何度も見てる」
「完成版も? 放送してるときに、ちゃんと見ましたか」
「……それは」
途端に決まりが悪そうな口調になった。
「実は……見ていない。疲労がたたって倒れちまってな。試写会には行けなかったんだ。その後送られてきたやつも、放送していた番組も、少ししか見る気になれなかった」
やっぱりそうだ。
あのときみんなはアニメの話をしていた。けれど思えば御船先生はずっと漫画のことばかり話していたのだ。まるでアニメの話題を頑なに避けるかのように。
「見る気になれなかったのは、一体どうしてですか?」
「よく覚えていない……ただ、漫画を描くことに専念したい気持ちがあったのはたしかだ。当時の編集にだって、アニメの雰囲気につられる危険があるから、極力観るのはやめたほうがいいとか言われてさ……あとは、昔からアニメに苦手意識があったのもある」
そうして事あるごとに言い訳して見ないまま、ずるずると先延ばしていたら、すっかり見るタイミングを逃してしまったらしい。それでもおよそ十年もの間自分の作品のアニメを観ていないなんて、そんな作家もいるのかと内心驚いてしまう。
「じゃあ見ましょう。今すぐに」
「いや、だから俺は……」
「見てもいないのに作品を批評するのは、良いことじゃないですよね?」
「あのなあ……何度も言うが、俺は原作者なんだって」
「あっ、アニメを作ったのは、あなたじゃないですっ」
勢いよく立ち上がった弘海は上擦った声で言い返す。
御船先生は声を詰まらせた。
(こんな声出るんだな、おれ……)
作品の生みの親相手になんと恐れ多いことを言っているのだろうかと、自分でも呆れてしまう。
けれどなんでもいい。ここで引くわけにはいかなかった。
「わかった。わかったよ。もうここまで来たんだ。全部付き合ってやる」
「……ありがとうございます」