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アニメ研究会より愛をこめて。  作者: 伊草
1章 入部編
23/94

(22) それでも世界は


 屋敷を出ると辺りはもう夕暮れだった。


 遥か遠くの山間に太陽が沈みゆこうとしている。


 弘海は元々駅まで歩いて帰るつもりだった。だが昭子さんから車で送っていきましょうという申し出があり、ご厚意に甘える形になってしまった。最初はさすがに断ろうとしたのだが、そうすると昭子さんに酷く悲しい顔をされてしまって、なんだか逆に居たたまれない気持ちになった弘海は気がつくと青い車の後部座席に乗っていた。


 昭子さんは運転席で上機嫌そうにハンドルを握っているので、もしかしたら演技だったのかもしれない。つくづく食えない人だ。


「すみません。せっかくもてなしていただいたのに、すぐ帰ることになっちゃって」


「まあまあそうかしこまらないでください。若い子には色々と事情があるものでしょう。気にする必要はございませんよ」


「でも、こうしてわざわざ送ってもらったりもして……」


「そう思うならまた近いうちにいらしてください。きっと孫娘も喜びますから」


 そんな孫娘たる安藝先輩も見送りには同乗したがった。


 だがそこはなんらかの空気を察したのか昭子さんがやんわりと却下したのだ。


「おれなんかが来ても、変わらないと思いますけど」


「まあまあなにをおっしゃいますやら」


 昭子さんはハンドルの上で指をとんとんとした。


「可愛い後輩を家に招くと、決まってあの子は子供のように浮かれていますよ。以前皆さんを招いたときなどは、前日からそわそわして落ち着きがなかったものです」


(そうだったのか?)


「全然、そんなふうには見えなかったですけど」


「町の大地主という家柄、朱鷺子さんは子供の頃から大人の方と顔を合わせる機会が多く、自然と取り繕うことが得意になっていらっしゃいますから」


 取り繕うのが上手い。その通りだろう。


 安藝先輩はいつだって優しい表情をしている。嬉しいときも楽しいときも、そしてたぶん、悲しいときも。その心のうちはいつも見えそうで見えない。きっと見せる必要がない感情は見せないようにしているのだろう。


 昭子さんの話が本当なら、幼い頃から他人に気を配っていた安藝先輩にとってそれは自然と身に付いた武器や鎧のようなものだったのだろう。もしかするとあの『女優の微笑み』もそんな処世術の延長で生まれたものなのかもしれない。


「両親は、家に帰ってくるのが遅いんですよね? 先輩から聞きました」


「はい。ですから今はあまり朱鷺子さんに構ってあげられる余裕もなく、満足に家族らしいこともやってあげられておりません。それでも朱鷺子さんは子供の頃から気を遣って、ずっと甘えたい気持ちを我慢していらっしゃいます」


「我慢……」


両親あのふたりは、多忙だなんだと言って仕方ないようにおっしゃいますが、結局のところは、一人娘の優秀さに甘えているだけなのです」


 お恥ずかしい話ですね、と昭子さんは息をつく。


「そんなふうに寂しさをごまかすのが上手くなってしまわれた朱鷺子さんですから、一人遊びを覚えるのも早うございました」


 両親は忙しく、家を空けることが多い。遊んでくれる人は家にはいない。


 だから先輩は一人で遊ぶことに決めたらしい。


「人一倍好奇心の強い朱鷺子さんですから、教室で交わされた子供たちの何気ない会話からさまざまな娯楽を知り、時には田舎から街へ繰り出し、目に入ったものに片端から手を出していきました。当時は親に黙って、わたしが運転する車でよく連れて行ったものです。あのときの、あの子の眼の輝きようといったら……」


  昭子さんはまるで当時を思い出すような口調で語り、


「あの子が、さぶかるちゃーとやらに触れるのは、もはや必然のようにわたしには思えました」


 そして、やがてアニメなる芸術作品に心を奪われたようでした。


 と続けた。


(……知らなかったな)


 人がなにかを好きになる理由には大抵環境が影響するという。かくいう弘海もライトノベル作家の母親とアニメ好きの父親に幼い頃から感化され、自然とアニメオタクに成長していた。いつのまにかアニメという若者文化は日常の一部になっていたのだ。


 けれど安藝先輩にそんな両親はいなかった。いつも家では一人きりで、遊ぶ相手も娯楽を教えてくれる者もいなかった。


 しかし先輩はそれで悲しむことも、塞ぎ込むこともせず、たった一人で、自分の手で狭い世界を飛び出した。まだ見ぬ世界へ飛び込んだ。


 好きとは自分の手で見つけるもの。以前安藝先輩がそう言っていた。その意味がやっと今わかった気がする。


「けれど中学ではついぞそれを分かち合える仲間には出会えませんでした。むしろ馬鹿にされたことも一度や二度ではなかったようです」


「先輩が、ですか?」


「あの子もまだ子供だったのですね」


 田んぼと田んぼの間に通った広い道を、昭子さんの運転する車が走っていく。昭子さんの運転は揺れが少なくて、そこから優しさが伝わってくるようだった。


「だからわたくしは、とても嬉しいのです。誰とも話せず、ずっと独りでテレビ画面に向かい合っていた朱鷺子さんに、みなさまのようなお仲間ができて。去年は年上の方々に気後れする部分も少なくなかったようですから」


「昭子さん……」


(仲間……)


(本当に、そうなのか)


 そんな名前で呼べるほど、自分はみんなと、安藝先輩と、良い関係を築けているのだろうか?


「おれは……」


 自信がない。


 なにもかも与えられているばかりで、その恩を返したことは一度もなかった。なに一つとしてあの人に返せていないのだ。報いていないのだ。


 そんなふうに一方的に良くしてもらうばかりで、仲間だなんて。そんなこと言う資格が自分にあるとは思えなかった。


「おや、なにか聞こえますね?」


「あ、すみません」


 気づくとポケットのなかでスマホが震えていた。液晶画面を見ると『母親』の文字が表示されている。そうだ。今日は帰宅が早い予定だったのだ。


「……も、もしもし」


『あー、繋がった。良かった……もー、家に帰ってもいないから心配したのよー』


「ご、ごめん。連絡するの忘れてて、ずっと先輩の家にいたんだ」


『なになに? また例の部活? 最近楽しそうでいいわねー、あんた』


 スピーカーから呆れたような安心したようなよくわからない声が届く。


『まあでも青春もほどほどにしときなさいよー、お母さん心配しちゃうから』


 お茶らけた言い方だが、心配をかけたのは本当だろう。弘海は素直に謝った。


「ごめん。今度からは忘れないようにする」


『おう、じゃあ切るわねー。晩御飯は適当に買っとくからさ』


「うん。……あっ、ちょ、ちょっと待って!」


『んん、なに?』


「……えっと、たとえばの話なんだけどさ」


 ちら、と運転席でハンドルを握る昭子さんの顔を窺う。昭子さんはルームミラー越しに弘海と目が合うと、子供の返事を待つように優しく小首を傾げた。


「……この人に、どうしても『好き』を伝えなきゃいけないっていう人がいて。でもいざ伝えようとすると、苦しくなって、できないんだ。母さんなら、どうする?」


『なに、恋バナ?』


「……違うよ」


『ふーん。じゃあなに?』


「それは……説明するのが難しいというか」


「ああそう、よくわかんないけど……ま、あたしだったらちゃっちゃと伝えちゃうわね。こう、ドストレートに。直球ど真ん中! ってね』


「いや、話聞いてた? それはできないって」


『自分の気持ちを伝えなくたって、『好き』を伝える方法はあるわよ』


(え……?)


「ほ、ほんと?」


『うん。マジマジ。まあ要するにさー』


 なんでもないような口調で、風香がその方法を説明する。


 それを聞き終わると、弘海は大きく目を見開いた。


「たしかに……それだったら……」


(でもそんな、頓智とんちみたいな……)


 そんな方法、本当に可能なのだろうか。


『屁理屈だってんなら、試せばいいじゃない。あんたら若くて、時間だけはたんまりあるんだからさ。南海も挑戦してみりゃいいのよ』


「……母さん」


 まとまらない言葉が頭のあちこちに散らばっている。まったくもって整理がつかない。ただ湧き出る感情はたった一つだけだった。


 衝動とはこういうことを言うのだろうか。


 弘海は唇を引き結ぶと、次の瞬間には決然とした表情を浮かべ、そして言った。


「ねえ、頼みがあるんだけどさ」


 出すべきは弱音じゃない。


 勇気だ。



 

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