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アニメ研究会より愛をこめて。  作者: 伊草
1章 入部編
22/94

(21) WHITE ALBUM


「そういえば今日、茜谷さんの様子がちょっとおかしかったんです」


 線路を走る電車の座席で、弘海はふと今日のことを話す。


「おれにはわからなかったんですけど、本人的にはなんか不調みたいで」


 今朝の茜谷さんの様子を詳しく説明すると、向かいの席に座る安藝先輩は「……あら、茜谷さんも?」と驚きを見せた。


「実はまいるもなのよ。今朝はずっと、心ここに有らずといった様子でね」


「え? そうなんですか?」


「ええ。先生に指名されても反応がなくて。結局叱られていたわ」


 教室でぼーっと座っている部長の姿を思い浮かべる。


 放心状態のまま、名前を当てられてもまったく無反応で、しまいには「猪熊!」と怒鳴られてしまい、部長が飛び上がる。


 部長はきっちりとした性格の人だ。たしかに普段の調子ではないのだろう。


「安藝先輩は……大丈夫そうですね」


「わたしはいつも絶好調よ」


「あはは……」


「それより、あなたのほうこそどうなの? 部室ではあまり喋っていなかったけれど」


「お、おれですか? おれは…………」


 いつも通り。


 では、ないかもしれない。


「ねえ小鳥遊くん、悪いけれど音楽を聴いても構わないかしら? うちまではまだ長いし」


「えっ? あ、はい。どうぞ」


「ふふふ、ごめんなさいね。普段はこうして帰っているから」


「いつも持ち歩いてるんですね、それ」


「ええ」


 先輩は鞄から取り出したワイヤレスのイヤホンを両耳に差すと、静かにまぶたを閉じる。穏やかな表情で音楽を聴く姿は、最初に屋上で出会ったときのことを思い出させた。


「なに聴いてるんですか?」


 返事はない。聞こえていないのだろう。


 それから電車を降りるまで、安藝先輩はずっと目を閉じて音楽を聴いていた。






 **






 目的の駅に着いた頃にはすでに五時が過ぎていた。それでも夏だからだろう、まだ空は明るく、日差しもよく照っている、まるで昼間のような景色だ。


 そして相変わらず先輩の屋敷は広かった。


 玄関口の戸を開くと、待ち構えていたような昭子さんに出迎えられた。髪は白いがまだ背筋も真っすぐ伸びている割烹着姿の老婦人に深々と頭を下げられた弘海はどうしていいかわからずおどおどと立ち尽くした。


 リビングに通されると、準備よく温かなお茶とお茶請けの菓子がテーブルに並べられる。


 昭子さんは部屋の隅に控えながら、なおも世話を焼くつもりで「まあまあお腹のほうは空かれていませんか? 晩御飯は食べていかれませんかまあまあ」とぐいぐい来る。弘海は大変恐縮して結構ですと答えようとするが、それより先に安藝先輩が「出て行って」と追い払ってしまった。


「まあまあまあ……」


 昭子さんの声が遠ざかっていく。


「はぁ……ごめんなさいね。なんだか騒々しくて」


「い、いえ。ご両親はいらっしゃらないんですか?」


「ええ。わたしの親は忙しくてね。帰るのはいつも深夜になるわ」


 うちと同じだ。弘海は初めて安藝先輩に親近感を覚える。


「そういえば……この部屋って」


 広い畳の居間が続く屋敷のなかで、唯一生活感の漂う木目の床のリビング。そして少し馴染みのある椅子に着席しながら、涼しい風が入り込む縁側を弘海は眺める。


「ええ、『合評会』のときにみんなで集まった部屋よ」


「やっぱり……あ、これも」


「ふふふ、アニメを観るときに使ったパソコンね」



 テーブルの上のノートパソコン。これをみんなで囲んで、アニメの映像が流れる画面を一緒に覗き込んで、「ここがいい」「ここもいい」と語り合ったのはまだ記憶に新しい。


「また近いうちに集まれたらいいと思って、ずっと置いてあるのよ」


 パソコンの表面を撫でて、安藝先輩は長い睫毛を伏せる。


「楽しかったわ。本当に」


「……」


(楽しかった、か……)


 楽しかった……かった……過去形。


 いや、そんな意図はもちろん安藝先輩には微塵もなかっただろう。


 単なる言葉の綾。そう頭では理解していても、弘海はその言い方に胸を刺すような寂しさを覚えざるをえなかった。


「先輩、あの……」


「ごめんなさいね。小鳥遊くん」


「え?」


 先輩が頭を下げる。それは深々と。真っ白なおでこが木目のテーブルにくっつきそうなほど。


「なっ、なんですか、急に」


「この前の、みんなで出かけたの日のことよ」


 頭を下げたまま先輩が言う。


「せっかく楽しい日になりそうだったのに、最後のわたしの軽率な行動のせいで、みんなの思い出が気まずい記憶になってしまった。とても、反省しているわ」


「な、なに言ってるんですか。あれは先輩のせいなんかじゃ」


「いいえ、わたしの責任よ。本当は年上として、先輩として、わたしははる陽ちゃんと小鳥遊くんに楽しんでもらえるよう、もっと気を配るべきだったのに。……なのに、最後の最後で、全てを台無しにしてしまったわ」


「ッ……!」


 違う。そうじゃない。


「やめてください! 先輩は悪くないです!」


 まったく的外れな謝罪だ。安藝先輩はただずっとみんなとの時間を良いものにしようと頑張ってくれていた。それを弘海は知っている。


 そんな先輩に対して感謝こそすれ、謝罪される理由なんてあるわけがない。


「お、おれだって謝りたいです。ああいうときは男のおれがなんとかしないといけなかったのに、ただ黙って聞くだけで、なんにも言い返せなくて……結局先輩に言わせてしまいました。……ご、ごめんなさい」


「ふふふ、それこそ、謝る必要はないことよ」


 弘海が頭を下げると、先輩は顔を上げて微笑んだ。


「せっかく家まで来てもらったのに、謝り合うのも不毛ね」


「……」


「なにか話があったのでしょう? 聞かせてちょうだい」


 先輩の口調はどこまでも優しかった。


 いつも通りの、なにも変わらない穏やかさ。


「いや……おれはただ、あの日のことで先輩が傷ついてないか、気になっただけで」


 久しぶりに顔を合わせた茜谷さんも、おそらく猪熊部長も調子を崩していた。


 けれど、安藝先輩だけは、こんなに普段通りに振る舞っている。


 それが弘海には、不安だった。


「後輩に心配されるなんて、わたしもなさけないわね」


「いや、そんな」


 弘海が顔を上げると、安藝先輩は湯気立つ湯呑に手を添えて、


「本音を言えば……少し堪えているわ。ショックを受けている。けれど、それは御船先生に対してではなく、自分に対してね」


「どういう、ことですか?」


 先輩は微笑みを維持したまま、長い睫毛を伏せた。


「わたしは今まで、自分の『好き』という気持ちをとにかく大切にしてきたわ。なにかを好きになること、それ以上に素敵なことはないと思っていたのよ。だから後輩であるあなたたちにも、同じように思ってほしかった」


「……間違ってないと思います。先輩は」


「本当に、そうなのかしら」


「え……?」


 急に、なにを言い出すんだろう。


「なにかを『好き』になるって、思っている以上に、身勝手な感情なのではないかしら? 見たくないものに蓋をして、見て見ぬ振りをして、ただ『好きだから』と自分の気持ちを一方的に押し付けているだけなのだとしたら、こんなに傲慢なことはないわ」


「先輩……」


「わたしは今まで、ただ『こうあってほしい』と期待して、独りよがりな理想を抱いていただけなのかもしれない。あの日その理想を壊されて、そのことに初めて気がついたわ」


(違う)


 そう言いたかった。


 そんなことを言うのは安藝先輩らしくない。と。


 でも、こんなときですら言葉は詰まって、声になってくれない。


「勝手に期待して勝手に裏切られて、それで癇癪を起こして……まるで子供ね。こんな横暴なファンに出くわすなんて、先生もお気の毒だったわ」


 湯呑みからゆらゆらと立ち上る湯気の向こう、いつも通り微笑む先輩の、赤い唇がまるで自嘲気味に歪んでいた。


 静かな屋敷の一室に聞こえるのは、遠くで響くひぐらしの鳴き声だけ。


「おれは聖地巡礼……行ってよかったです」


「小鳥遊くん」


「本当に、本音ですっ」


 そのときテーブルの上、昭子さんが置いてくれたお菓子の山から、抹茶色の饅頭が一つ、ぽとり、と前触れもなく崩れ落ちた。


「……ありがとう。けれど気を遣わなくてもいいわ。もうこの話はやめにしましょうか」


「せ、先輩」


 不意に席を立った先輩は、そのまま部屋から出ようと戸に手をかける。


 弘海が慌てて身を乗り出し声をかけると、戸を開いたまま先輩は立ち止まった。


「せっ、先輩は……『オオ恋』のこと、まだ好きですよね? 嫌いになったり、してませんよね?」


 まるで縋るように。


 それは質問ではなく、懇願だった。


 けれど最後まで、先輩は振りかえってもくれず。


「好きな作品は、他にもたくさんあるわ」


 静かに、戸が閉まった。



 

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