(20) プラスティック・メモリー
夏休みにも登校日というものがあるらしいことは知っていた。
大体、夏休み明けの一週間程前に登校日を設けてただ何コマか授業を受けるための日である。何故そんなものがあるのかと訊かれると弘海にもわからない。ただ長期休暇を満喫しているなか水を差され、渋々といった顔で登校坂を上る生徒たちがいくつも不満の声を漏らしていたのが、弘海の耳にも少なからず聞こえてきていた。
一説には長い休日に慣れた生徒たちの身体を勉学に戻し、生活リズムを調整するための日なのだとか聞くが、真偽はわからない。昨晩母親である楓子が「実はその日は、教師らの給料日なのよ……」とまるで怪談話のような怖い顔で語っていたが、たぶん都市伝説だと思う。
とはいえ他の地域では登校日がない学校も珍しくなく、なおさら弘海はうだるような暑さのなか、こうして登校させられている現状に不満を抱かずにはいられない。
下駄箱で靴を履き替え、廊下を歩いていると、すれ違う生徒たちはみなすっかりブレザーを脱いでおり、涼し気なカッターシャツの半袖から日焼けした腕を伸ばしていた。男女関係なく夏は暑い。気を抜くと女子のスカートすら羨ましく映ってしまうこともないこともなく、この季節は末恐ろしい。
「……あれ?」
弘海の教室の前、廊下の窓際で見知った顔ぶれが並んでいる。
ひそひそ、と教室のなかを窺うようにして話し込んでいるのは淡島くんと山吹くん、そして谷口さんだった。
「お、小鳥遊くんじゃん。おっす」
「お、おはよう。三人ともなにしてるの? 教室になにかあるの?」
「まあな。ちょっと珍しい光景だぜ。……ほら」
と、淡島くんが指差す先を辿るように弘海もそちらを覗き込む。
教室後方のドアは開いていて教室のなかの様子はよく見えた。
なんの変哲もない教室の景色。だがすぐに彼らがなにを見ていたのかわかった。
中央の列の一番後ろの席で、とても美しく背筋を伸ばした格好の茜谷さんが真剣な顔で文庫本サイズの本を読んでいたのだ。みんなと同じく半袖の夏服だが、いつもみたいに着崩している箇所もなく、髪の色はいつも通り目立つが洒落たアレンジもなくストレートに流していて、極めつけに黒い眼鏡なんかかけていて、なんというか優等生っぽい雰囲気が漂っていた。
(なんだ……あれ」
「茜谷さん、だよね?」
「ああ、俺たちの目が間違っていなければな……言っておくが俺たちより先に登校してたぞ? あのイワ先も手を焼く遅刻魔がだぜ? 明日は雪が降るかもな」
「うち、机で寝てないはる陽ちゃん、初めて見たかもしれへん」
「どういう風の吹き回しだろうなぁ」
三人が戦慄した顔で冷や汗を掻く。なんとも酷い言われ様だった。
でもたしかにあれは色々と強烈な光景だ。他のクラスメイトたちもちらちらと茜谷さんの様子を窺っている。
「茜谷さん、おはよう」
とりあえず教室に入って声をかけてみた。後ろのほうから「おー、小鳥遊が行った!」と興奮した声がするが聞こえないことにする。
茜谷さんは文庫本から視線を上げて、とてもすっきりした顔をこちらに見せた。なんというか健康的だ。いつもは薄っすらと目元にクマが浮かんでいたりしたが、今日はとても爽やかだ。
「あ、ヒロミン。おはよー。あれから一週間ぶりくらい?」
「うん。たぶんそれくらい。それにしても、今日は早いんだね?」
「そーなの。最近不調でさあ……」
顔をしかめて、茜谷さんは猫のように伸びをする。
「なんだかよく眠れちゃって、早起きとかしちゃうわけ。しかも朝は無性に運動したくなってストレッチとかしちゃうし、普段はバス通なのに歩きで登校したくなっちゃうし、今は暇だから図書室で本借りちゃったりなんかしてさあ」
「めちゃくちゃ健康じゃんか」
「はあ? なに言ってんの? そんなわけないし」
「でも茜谷さん、今まで会ったなかで一番すっきりした顔してるよ。クマもないし、目つきも悪くないし」
「いつも目つき悪いみたいな言い方すんなし」
がしがし……、と茜谷さんは頭髪を搔き乱す。
「あー、違う違う……! こんなのあたしじゃないし、絶対なんかおかしいって……!」
よくわからないが苦しんでいた。健康ならそれでいいと思うのだが。違うのか。
「やっぱもっと夜更かししなきゃダメなんだわー、あたし」
「調子が悪くなると逆に生活リズムが治るんだ。すごいな……」
奇妙な人がいたものだった。
「あっ、そーそー。オノセンがあとで文芸部のみんなで集まってほしいって言ってたよー」
「オノセン……ああ、小野原先生か」
「他に誰がいんのよ。……ま、とにかく伝えたからさ」
じゃあ読書の邪魔になるからあっち行って、と茜谷さんに無下に追い払われ、弘海は自分の席に着く。一応読書はするみたいだった。
**
「じゃあ、九月はそんな感じでお願いね~」
小野原先生が部室を出ていく。
登校日ついでに活動報告や学園祭の出し物について話をしたかった、というのが先生が部員を集めた理由だった。最初の顔合わせ以来、小野原先生の姿をここで見ていない気もするのだが、最低限顧問としての仕事はしているようだ。そして先生の用事は、猪熊部長と安藝先輩が優秀すぎるせいですぐ済んでしまった。
「そういえばもう今期のアニメも終わりますね。皆さんはなにが好きでしたか?」
「わたしはやっぱり『在りし日のアリア』ね。先日早めに最終回が放送されたけれど、思った通り最後まで素敵な作品だったわ。あれは何度か見返すわね」
「んー、あたしは今期はあんまりピンとこなかったなー。……あ、『異世界暴君』ってやつは、けっこうグロくて良かったかもっ」
「『鷺森さんのロングスカート』は観ていないんですか? あのアニメ、後半からとてもグロテスクな展開が増えていくとネットで話題になってしましたが」
「え? うそ、知らない。てかタイトルの時点で切っちゃってんだけどソレ!」
「てっきり見ているものだと思ってました」
「後半から視聴者を裏切るような残光描写のオンパレードで、今はとても話題を席巻しているようね」
「くぅ~、ただの日常系じゃなかったのかぁ~‼」
集まった目的も解決したことでこのまま部室に残る必要もなくなったわけだが、すぐに帰ろうとする者はいなかった。弘海もなんの気なしに席を立たずにいると、そのうち誰かが話を振って、いつものようにアニメ談義が始まったのだ。
「言っていると来期のアニメももうすぐね。秋アニメと言えば、やはり覇権は『サタンブレイカー』の二期かしら?」
「今や社会現象レベルですからね。朝のニュース番組でも取り上げられていましたし、とても注目されていることは言わずもがなかと」
「あたしも『サタブレ』好きー! あんなヌルヌル動く作画初めて見たもん!」
今日も今日とて、文芸部改めアニメ研究会はアニメの話題に花を咲かす。
変わらぬ光景に、変わらぬ賑やかさ、アニ研は依然として通常運転と言える。
――ただ。
弘海はそれが、どこか不自然な光景に思えた。
「あ、そういえば聖地じゅ……み、みんなで旅行行ったときの写真、送ってなかったよね!」
「そう……でしたね。わたしもすっかり忘れていました。あとで送っておきますね。せっかくの旅行でしたし」
茜谷さんは「聖地巡礼」と言いかけて、慌てて「旅行」と言い直す。部長も息を合わせるようにそれに倣っている。
笑顔で語り合うかたわら、まるで暗黙の了解のように、みんなはあの日の話題を避けているようだった。
この部室にいるときはいつだって気負わず和気藹々と語り合っていただけに、そんな些細な変化でも、弘海には決定的なものに思えた。
「後でもいいわよ。それより来期のアニメの話をしましょう」
安藝先輩もすかさず話題を変える。
「そうだ、どうせなら今からみんなで来期のPⅤでも見ていきましょうか。小野原先生もいないので、見つかることもありませんし」
「それ賛成!」
「いい提案ね。さすがはまいる」
その後もみんなはアニメの話で盛り上がっていた。
けれど、結局、
最後まで――『オオ恋』の話題が出ることは一度もなかった。
**
「せ、先輩」
解散後、一人で去っていった安藝先輩のあとを弘海は遅れて追いかけた。
部室の鍵を返して職員室から廊下に先輩が出てきたところへ声をかけると、先輩は目を丸くした。
「小鳥遊くん? 職員室になにか用だったかしら?」
「い、いえ。その……先輩のことを待ってて」
「わたしを?」
「は、はい」
安藝先輩は「どうして?」とおっとり小首を傾げる。
「ええっと……」
しかしいざどうしてと訊ねられると言葉に詰まる。弘海は言葉尻を濁してもじもじと視線を泳がせた。
「……場所を変えましょうか」
そんな弘海の態度からなにかを感じ取ったのか、安藝先輩は優しく微笑む。
「とはいえ、部室の鍵は今返してしまったし。ほかに落ち着いて話せそうな場所も思いつかないわね。……小鳥遊くんは、この後は?」
「え? は、はい。部活もないですし、他に予定もありません」
「そう。では少し遠いけれど、うちに来ないかしら? わたしの可愛い後輩に、おばあ様がおもてなしをしたがっているのよ」
弘海はしばらく無言で迷ったのち「……お願いします」と頭を下げた。