(18) orange
水族館を出た一行はその後すぐに駅に戻ってきた。
「ちょうどいい時間ね」
安藝先輩がスマホを確認しながらそう呟いたので、弘海はてっきりもう帰るのかと思った。
だが予想に反して先輩たちのつま先は来たときとは違う方角へ進んだ。
環状線で何駅か過ぎ、目的の駅に辿り着くと、そこからスマホを頼りに先輩たちが街中を歩いていく。一応、目的地を訊ねてみたが「そのうちわかるわ」とはぐらかされたので、弘海はただ黙ってついていくことにした。きっとなにかあるのだろう。
そうして先輩たちの先導の下、辿り着いたのは広めの公園だった。芝生の上では子供たちがボールを蹴り合ったり遊具で遊んだりしている。和かな雰囲気で、空気も美味しい。解放的な良い場所である。
目的地はもう間近らしく、先輩はここからは淀みない足取りで、丘の上のほうへと進んでいく。
そして頂上まで辿り着くと、ようやく弘海もここがどこなのか理解した。
「もしかして、ここ……四話の、告白シーンの場所ですか?」
「正解」
安藝先輩は悪戯っぽく微笑んだ。
弘海がアニメ『オオ恋』で一番初めに胸を打たれたシーン。柊木が自分の気持ちを伝え、藍原が不器用ながらそれに応え、無垢なふたりを美しいBGMが彩る、あの場面で、ふたりが立っていた丘の上だった。
「ここも、京都だったんだ……」
御船アキオの故郷が京都だというのは本当なのだろう。すぐにそれが理解できてしまうくらい、この場所は作中で描かれた光景そのままだった。
それから先輩の「ちょうどいい時間ね」の意味もわかった。
丘の上から見渡す広い街並み、その向こうで沈みゆく太陽が輝き、視界を茜色に染め上げていたのだ。あのシーンでもこんなふうに夕陽が差していた。
「ね、写真撮ろ! 写真!」
みんなでくっ付くように並ぶと、スマホの内カメラを器用に扱って茜谷さんが集合写真を撮ってくれる。なんだか妙に気恥ずかしかった。それだけでは飽きず、茜谷さんは丘から望む夕景をしきりに撮り始める。
「せっかくなので、あのシーン、再現してみませんか?」
猪熊部長が言った。
「あら、いい提案ね。……小鳥遊くん、そこに立ってみてくれないかしら」
「え? おれ?」
弘海はおどおどとしながら言われた場所に立つ。
「朱鷺子ちゃんも、はい、そこです」
スマホを覗き込んだ猪熊部長の指示に従い、安藝先輩が隣に並んだ。
「とってもいい感じです。何枚か撮りますね!」
夕陽に染まった丘の上で安藝先輩とふたり、真っすぐ向かい合いながら、カシャカシャ、と写真を撮ってもらう。
先輩はなんてことのない表情で平然と立っていた。おそらく、本人としては普通にしているつもりなのだろう。けれどその立ち姿だけでとても絵になっているだから流石だった。こちらはカメラを向けられるだけでがちがちに緊張してしまっているというのに。
「どうして先輩は、そんなふうにいられるんだろ」
「ん? なんのこと?」
先輩は微笑みを崩さぬまま、小首を傾げた。
「ああ、いや……」
しまった。つい思ったことが口に出てしまった。弘海は頭を掻く。
「その……なんか、先輩っていつも余裕あるなって思って……心が強いっていうか、そういうところが、すごく羨ましいなと」
「そうかしら?」
「そうですよ。さっきだって、梅木くんに言いたい放題言われてたのに、一度だって言い返さないし、ずっと笑顔で頷いてるし……普通、大好きな作品をあんなふうに言われたら、もっと傷つくと思います」
「傷つく……そうね。そうかもしれないわね」
急になんの話を持ち出しているのだろうか。自分は。
しかし先輩は困った素振りも見せず、優しく受け止めてくれる。
「わたしは、ここ数年で『好き』という感情がいかに素敵なものであるかを学んだわ。ただの感性じゃない、そこにはちゃんと理由があって理屈がある。時にはそこに自分でも知らない自分を見つけたり、ね。だからわたしは『好き』を語りたいし、語り合いたいと思っているの」
けれど、と先輩は不意に長い睫毛を伏せがちにして、
「世の中そんな人ばかりではないことも、わかっているつもり。とても悲しい話だけれど、わたしが大好きな作品のことが大嫌いな人だって、どこかにはいるでしょう」
「それは……」
「でも、そんなことは気にしなくてもいいことなのよ」
安藝先輩の言葉に、弘海は目を丸くした。
「なんで、ですか?」
「わたしはね、作品の魅力というものは自分から見つけるものだと思っているの。読んだ人が、見た人が、自分の手で探しにいくものだと思っているの」
「探しにいくもの、ですか」
弘海は写真を撮られているのも忘れ、まぶしい先輩をただ見つめる。
「だから、ね。それを自分から見つけようともせず、最初から全部わかったつもりになっているような人に、なにを言われても、わたしは傷つかないの」
それはとてもカッコいい台詞に思えた、けど。
裏を返せば……梅木くん程度の人の意見などたかが知れている、と言っているようにも聞こえなくもなかった。
「よ、要するに、わかる人がわかっていればいい、と?」
「そうよ」
だから先輩の心は乱されないらしい。たとえなにを言われようとも。
風が吹く。垂れた髪を耳にかけて先輩は微笑む。
「こちらのほうが作者の思いを汲んでいるのだと、胸を張っていればいいのよ」
そう言って、むん、と服越しでもわかるくらい大きな胸を張った。
「いや、そこで本当に胸を張らなくても……」
目のやり場に困るからやめてほしい。
「ふふふ」
だんだんと先輩の微笑みが悪い笑みに思えてきた。弘海はなおも被写体としての役目を果たしつつも、妙な敗北感を覚えるのだった。
**
西の空に今にも陽が沈みゆこうとしている。
時刻はすでに夕暮れ時だ。茜色に染まっていた夕空も徐々に青みがかり、だんだんと夜の気配が近づいてきている。遠くでひぐらしの声が聞こえる。
さてこれにて当初の予定が終わったようであとは帰宅するのみになった。
だがその前に一度ファミレスに寄ってディナーを摂ることにする。晩御飯にはまだ早い時間だが、いろいろと回ったせいでみんなお腹が空いていたのだ。帰りも新幹線で数時間は拘束される計算なのえ、今のうちに空腹を埋めておこうという部長の提案には満場一致で賛成だった。
入り口に近い、ガラス張りから夕暮れの景色がよく見えるソファー席に座る。席順は奥に猪熊部長が、その隣に茜谷さんが肩を並べて座り、テーブルを挟んで向かいに弘海が、その隣に安藝先輩が腰を下ろした。
ドリンクバーで注いだ飲み物を飲み、やがて注文の品が届く。ここでも話題は『オオ恋』だった。
「『オオ恋』って漫画のほうも読むべきかな? あたしアニメしか見てないしさ」
「どちらでもいいと思いますよ。漫画は漫画で少し違った読み応えがありますし、アニメの続きも知れますから。わたしは漫画も好きです」
「強いて言えばわたしはアニメ派ね。原作も大好きだけれど、アニメは声優を務める方々の演技が素晴らしいし、なにより音楽が綺麗だから」
「興味があるなら貸しましょうか? わたし原作は持っていますよ」
「ありがとう! ぶちょーさん!」
賑やかに談笑する三人を眺めながら、弘海もつい笑みをこぼす。
みんなが仲良く一つの作品を語り合う光景はいつもまぶしかった。十分に好きを語れない自分はまだ三人の輪に入ることはできないけれど、こうしてそばでみんなの話を聞き、笑っているところを見ると、胸のなかの不安が優しく溶かされていくような気がした。
「漫画のほうは絵のタッチも素敵ですよね。キャラクターが全体的にかわいくて、こう言っては難ですが、男性の作者だとは思えないくらいです」
「え? 男なの? マジで? 少女漫画だし、てっきり女の人かと思ってた!」
「御船アキオ先生ね。見た目もかっこいい方よ。今は三十代後半だとか」
「顔見てみます? たぶんネットに乗ってたと思いますよ」
「うん! 見たい!」
猪熊部長がスマホを操作して検索をかける。茜谷さんがそれに期待に満ちた顔で目を輝かせる。すでにほとんど食べ終わっていた食器類を女性店員が下げていく。安藝先輩が烏龍茶の入ったコップに静かに口をつける。
穏やかな時間だった。
とても、穏やかな。
「……来て、よかったな」
弘海はガラス張りの向こうを眺める。
聖地巡礼という名の遠出、弘海にとっては小さな冒険にも思えた小旅行だったが、終わってみればとても楽しい一日だった。
色んなことがあって、なにもかもが目まぐるしくて、まるで一瞬だったような気もする。きっとみんなのおかげだろう。
もう帰るだけ。このまま帰るだけだ。それがなんとも名残惜しい。
そんな旅に出る以前とは真逆の感慨に包まれながら弘海は、すっかり日の落ちた外の景色を見つめた。
ただ、一度、述べたように。
偶然とは——恐ろしいものである。
「見なくていいよ、それ」
四人が着くテーブルの前に、人影。
立っていたのは、サングラスをかけた男だった。
「なんてね。はははっ」
「え……」
安藝先輩が絶句する。
朝焼けた肌をしていて、学生の弘海には一目で大人とわかる長身の男だった。ブラウンの前髪をかき上げ大きく額が見えるツーブロックの髪型は、母親の楓香が昔熱心に語っていたベッカムヘアーによく似ている。面長な顔立ちで口と顎から薄く髭を伸ばしており、英字が印刷された白Tを着てデニムパンツを穿いている。
上から下まで見てもやはり知らない男だ・
しかし猪熊部長はスマホを持っている腕をぷるぷると震わせながら、呆然とその名を口にした。
「……み、御船先生」
「はっ⁉」
「どうもー」
薄いブルーのレンズをしたサングラスを少し持ち上げ、男はにこっと笑う。
部長のスマホに表示されている、写真の画像。
そこに映っている、御船アキオの笑顔が、今、実際に目の前にあった。