(9) エロ小説先生
逸原高校から弘海の家までは、そこまで遠くはない。
それは中学三年生の頃、両親が離婚したことで家を引っ越したことが理由の一つにある。二階建ての一軒家からマンションの一室に住居を移したことにより、不幸中の幸いか、駅からのアクセスがいい登下校の観点からは快適な場所へと移り住むことができたのだ。本音を言えば中学時代の友人たちと顔を合わせなくなったのが最も嬉しかったが、まあ、さはともかく。
「ここがおれの住んでるマンションです。部屋はこっちです」
「は、はいっ」
部長とふたりでマンションの階段を上っていく。
数時間前、唐突に会ったばかりの年上女子を家に誘うという、なかなかな色男ぶりを発揮した弘海だったが、もちろんそこに邪な感情はなかった。
懇切丁寧に事情を説明したのち、驚きすぎて硬直する猪熊部長をなんとか落ち着かせながら一緒に学校を発ったのがつい先ほど。それからふたりで電車に乗り、やっとここまで辿り着いた。
「あ、あの……本当にいいんでしょうか? わたしなんかがこんな」
緊張からか道中一言も発していなかった部長だったが、目的地が目前に迫ると不安になったのか青ざめた顔をしてそう言った。弘海は笑ってみせる。
「そんな恐縮する必要ありませんよ。大丈夫です」
「で、でも……」
「日頃のお礼ですから。受け取ってください」
そう言って弘海はマンションの廊下を進み、自分が住む一室のドアの前まで来ると、懐から取り出した鍵をドアノブに差し込み、ガチャリと捻った。
「ただいま。帰ったよ」
ドアを開けながら家の主に向けて声を張る。
すると部屋の奥から、くせっ毛のある茶髪を適当に束ねて珍しく化粧を施した母親が「おかえりなさーい」と現れた。
「お、この子が猪熊さんね」
「はっ、初めまして! 猪熊まいると言います! よ、よろしくお願いします!」
バサッ‼ と音が立つ勢いで、部長が深々と頭を下げる。
「はいよろしく。小説家の三鷹嵐子でーす」
にこっ、と母親が営業スマイルを浮かべる。
それを弘海は冷めた眼差しで見つめた。
下ネタ満載のコメディアニメ『魔法つかいのベッド事情』の原作者、三鷹嵐子の正体は、何を隠そう弘海の実の母親、小鳥遊風香その人だった。
——と、種明かしをするとそうなる。
だが、これは息子としては認めたくなさすぎる事実だった。
仕方ないだろう。母親が作中の会話の七割が下ネタで埋め尽くされている作品を生み出した張本人だなんて、誰が好き好んで自慢するのか。ネットで『下ネタの魔術師』なんて呼ばれて一部で崇められている作家本人だなんて、口が裂けても明かしたくなかった。
そんな恥ずかしさを押し殺してまで弘海が猪熊部長にそれを教えたのは、ひとえに妙なトラウマを抱えるこんな面倒な後輩を、いつも気遣ってもらっている恩をかえすためだった。
「ごめんねー、わざわざ来てもらったのに大層なもてなしもできなくて」
「い、いえ! こちらこそすみません、その、急にお邪魔してしまって」
「いいのよいいのよ。愚息がずいぶん世話になってるって話だし。あ、これお茶ね」
「あ、はい。お、お構いなく……」
茹蛸のように顔を真っ赤にして縮こまる部長はまさに借りてきた猫状態だった。
こんな下品でずぼらなアラサー相手にそこまで緊張しなくてもいいと思うのだが。
「あんた今失礼なこと考えてるでしょ?」
「べつに」
テーブルに着くふたりをよそに、弘海はキッチンでお茶菓子の準備をする。あ、そういえば母さんの京都土産がどこかにあった気が。
「で、猪熊ちゃん、わたしのファンって聞いたけどホントなの?」
「は、はい! 大好きです! 嵐子先生の作品は、ほんとに、全部読んでるくらいで……!」
「わぁー、照れるなー」
ありがとね、と母親が笑うと、猪熊部長はまた赤面して俯く。まるで恋する乙女のような反応だ。なんだこれ。
「そ、そうだ。……こ、これ! この本に、サイン書いてほしいです……!」
「おっ、それ今月出した最新巻じゃん。ホントに読んでくれてるんだあ。いいよー、サインくらい。他になにかしてほしいことはある? なんでもやるよ?」
「お、お話を……聞きたいです。よければ、『まほベ』とか、他の作品の話とか、どういうふうに作品を作っていったのか、とか……。」
「なに? 猪熊ちゃん、もしかして作家志望だったり?」
「は……はい。恐れながら」
「おお、作家の卵かぁ! かー、可愛いなあこんちくしょう! いいよ、なんでも聞きなさいな!」
テーブルにお茶菓子を置くと、弘海はそそくさと離れたところにあるソファーに移動して、学校の宿題を始めた。
あっちの話は長くなりそうだ。気長に待つとしよう。
「あー、ごめん。編集から電話来ちゃった」
「い、いえ。お構いなく!」
「ホントごめんねー? たぶん仕事の話だし、しばらく部屋から戻らないから……おい愚息、猪熊ちゃんの相手してあげなさい」
へーい、と弘海が適当な返事をして間もなく、母親はスマホを片手にリビングを飛び出して行く。
壁にかかった時計は、さっき見てから四十分程が経過していた。
テーブルのほうを見やると、部長はまだ興奮冷めやらぬ様子で眼前に広げたノートをじっと見つめている。コップに注がれたお茶はほとんど減っていない。
「それ、なに書いてるんですか?」
「……いつか、嵐子先生に出会えたときのためにって、あらかじめ聞きたい内容をメモしておいたんです。緊張しすぎて、まだ半分も聞けてませんけど。あはは……」
緊張と興奮で未だほんのり頬を赤くしつつ、部長は乾いた笑みをこぼす。
「部長って……意外とアドリブに弱いタイプだったり?」
「情けない話ですが……前もって準備しないと、ダメなんです。わたしは。部活で皆さんにお話しすることも、ほとんど前日にメモしていることですし」
「え、マジで」
驚く弘海に向けて猪熊部長が別のページを開いて見せてくれる。そこにはたしかに部活で聞いた覚えのある内容や言葉が羅列されていて、弘海は絶句した。
「ぶ、部長……」
「そ、そんな顔しないでください。わかってますよ。異常なのは」
ふぅ、と胸に手を当てて息を整えると、猪熊部長は静かにノートを胸に抱く。
「でもそうしないと落ち着かないんです。今回はこのノートがありましたから、なんとか話できましたけど……急に嵐子先生に会うなんて、本当は心臓がいくつあっても足りません」
「そこまで緊張しなくても……ずぼらだし面倒臭がり屋だし、マジでそんな大した人じゃないですよ、あの人」
「小鳥遊くんにとってはそうかもしれませんけど……」
部長は静かにまぶたを閉じた。
「ファンにとっては本当に、神様みたいな存在ですから」
「神様……」
作品の舞台や世界観を生み出し、キャラクターを生み出し、そこに物語を生み出し、それらを目に見える形で創造する原作者は、たしかにその世界を愛する者にとってはまさしく神様のような存在なのだろう。あの母親がそうだと言われると複雑な気持ちだが。
「小鳥遊くんは『まほベ』、見ていないんですか?」
弘海は首に手をやりながら「……まあ」と頷く。
「だって母親の作品だし、そのうえすごい下品な作品って聞くし、息子としてはさすがに恥ずかしくて見てられないというか、もうそんなの拷問のレベルで…………って」
(あ)
そこまで言って弘海は口を手で覆う。
(しまった……今のは流石に部長の前で言うべきじゃなかった……)
『まほベ』が大好きだと言う女の子を前に、ここまで作品を貶すような発言をするのは、いかに作者の息子といえど空気を読めていない。
弘海はすぐに失言を悟り、慌てて謝罪しようとする。
——が、それより先に部長がすくっと立ち上がった。
「見ましょう。今すぐ」
「え?」
気づくと、部長はいつも通りの真面目な表情になっていた。
「なんで? というか、今の話聞いてました?」
「聞いていました。でも、やっぱり見るべきです」
眼鏡のレンズの奥の瞳が、真っすぐ弘海を捉えていた。
「家族なら、なおのこと」
「えぇ……」




