蠱毒その弐
ぐちゃぐちゃじゅるじゅると肉を啜っているそいつは哺乳類でも爬虫類でもなかった。灰褐色のベースに斑模様をつけた体を八本の長い脚で支えている体長2m程の巨大な蜘蛛だった。
僕は蜘蛛に右手を突き出しリートに熱線を放つ。普段は明確に言語を発して指示を出すが、本来、僕とリートは一つの脳を共有しているので非言語的コミュニケーションが可能なのだ。緊急時はこうして発声のステップを飛ばして行動することもある。
シュボ!
僕の右手から放たれた熱線は蜘蛛を捉えることなく宙を焼く。蜘蛛は僕の放った熱線をその巨体からは想像できないほどの速さで躱すと壁や天井を縦横無尽に走りながらこちらに飛び掛かってきた。
アシダカグモ。巣を持たずに走って獲物を捕るタイプの蜘蛛が変異したそいつは、小さな蜘蛛だった時の俊敏さで僕を抑え込むと一切の迷いもなく僕に牙を突き立ててくる。リートを着込んでいなければこの時点で僕は絶命してドロドロに溶かされていただろう。
「山吹さん!」
湊さんの悲鳴が聞こえる。リートを着込んでいるとはいえ明らかに膂力で負けている為、振り払えそうにない。リートのお陰で今のところ牙は僕の皮膚に到達していないが時間の問題だ。何より、こいつは炎の塊を抑え込んでダメージを受けていない。つまり数百度程度の熱には耐えられるのだろう。熱線を躱したことから完全な熱耐性があるわけではない様だが。
「湊さん!下がってください!火力を上げます!」
僕はそう叫ぶと同時にリートが自身の温度を上昇させ始める。
「リート!蜘蛛を逃がすな!」
僕の指示でリートは僕の全身から何本も炎の縄を生み出し蜘蛛を縛り付ける。距離を取られたら僕の脚では追いつけないからだ。抑え込まれた時は少し肝が冷えたが、この状況ならもう消化試合の様なものだ。いや、待て。これあんまり景気よく火力上げると迷宮内の温度がヤバいのでは?湊さんは奥に逃がしたとは言え、入り口で大火力を使用したら迷宮丸ごと蒸し焼きになるような…
「リート!ストップ!作戦変更だ。今のやり方だと湊さんが死ぬ!」
「別にヤマブキの番でないのなら良いのでは?」
「ダメに決まってるだろ!」
リートは渋々火力の上昇を止める。
「とりあえず、腹に穴を開けて最小限の熱で焼くぞ。」
僕の意図を汲み取ってリートが僕のへその辺りから熱線を放ち蜘蛛の腹を貫く。そのまま炎の縄の一本をその穴に差し込ませ蜘蛛の体内で植物の根の様に広げるように広げる。
蜘蛛は僕から離れようともがき苦しむがものの数秒で絶命した。外殻が熱に強くても内臓はそうでなかったらしい。熱耐性としてはFランク程度だろうか?何にせよ変異がこの程度で助かった。しかし、発生したばかりの迷宮でこの強さ。魅了に誘引された者同士の喰らい合いでここまで成長したとなると中々に侮れない。ある程度、成熟した迷宮で同じ事が起これば一体どうなるのか…
僕は絶命したアシダカグモの腹の下から這い出ると解体に取り掛かる。短期間にベースの生物が持ち得ない能力まで獲得する程、変異したのだ。本来の機能もかなり強化されているに違いない。今回は注入を免れたが消化液の強度は相当なものだろう。
僕はぐちゃぐちゃと内臓を掻きまわしながらまずは神臓を探り当てる。やはり大きい。通常の危険生物の者に比べると一回り程大きいだろうか?僕が摘出した蜘蛛の神臓を眺めていると湊さんが戻ってきた。
「音がしなくなったので様子を見に来たんですが、無事でよかったです。」
うっかり殺されかけていたとは知らずに朗らかに声をかけてくる。
「これを見てください。急激な変異で神臓も肥大化しています。」
僕は湊さんに蜘蛛の神臓を見せながら応える。
「貴女の特性ですが、我々が当初考えた以上に危険なものかもしれません。」
湊さんは僕の言葉を理解できないのか表情が固まっている。それもそうだ、自身の特性が判明してからの二日間、何度も命の危険に晒されて自身の特性の危険度を散々味合わされた。その上でさらに危険かもしれないなどと言う話をすんなり飲み込めよう筈もない。僕は補足するように彼女に説明する。
「進むときは偶々、同程度の強さの個体がぶつかり合ったおかげで負傷個体だけでしたがこの蜘蛛の様に組み合わせに恵まれて、ほぼ無傷で神臓喰いを繰り返した個体は湊さんでは対処できない可能性が高いです。」
僕の言葉でようやく理解が追い付いたのか湊さんの表情が曇り始める。
「昨日のザリガニも大概でしたが、アレは無核生物が憑いていました。ですが、今日の蜘蛛は通常の危険生物からの変異でベースの生物にない熱耐性を獲得するところまで短時間で来ています。頂点捕食者が確定する程度に成熟した迷宮内ではどんな怪物が産まれるかわかりません。」
自分で言葉にすると、改めて恐ろしいと感じる。迷宮内であれば僕一人なら火力全開で戦えば恐らく大概の危険生物に勝てるが湊さんを連れていては全力で戦う事が出来ない。今後の育成をどうしたものか…
僕は少し思案して結論を先送りにした。少なくとも今日の処はうまく切り抜けたのだ。明日の事は明日考えればいい。とりあえず今日は迷宮を閉鎖した旨を市役所に報告して家に帰ろう。鍵山との交戦で落とした装備も回収しなければ。
「あ、そうだ。湊さん。この蜘蛛運んでもらえますか?」
「え、あ、え?運ぶんですか?この蜘蛛を?」
「はい。第3居住区の工房まで運びます。多分、耐熱性の外殻に値段をつけてくれるはずです。」
「あ、そういう意味ではなくてですね。私が運ぶんですか!?」
「はい。そうです。あそこは懇意にさせてもらっているので、頼めば素材を見てから市役所に素材調達依頼を出してくれます。貴女の評価点の底上げをしましょう。」
迷宮探索者ランクアップの為と言われては断れなかったのか、湊さんは渋々蜘蛛の死骸を持ち上げる。正直、僕の筋力では居住区までは持ち帰れないので彼女の怪力頼みだ。
「とりあえず、日のあるうちに帰りましょう。落とした装備も回収しないとですし。」
僕は湊さんの不満そうな表情から目をそらしながらそう声をかける。しかし、出口までの道のりは憂鬱だ。半分溶かされている死体の放つ異臭もさる事ながら、視覚的な嫌悪感が酷い。このまま放置したら迷宮が完全になくなるまでの間に別の問題が発生しそうだ。疫病でも発生しようものなら真っ先に僕が死ぬ。
「リート。死体を片っ端から焼き払え。汚物は焼却だ。」
ぼっ!ぼっ!ぼっ!
鎧を解いたリートの手から次々と火球が放たれて迷宮の出口までの死骸の山を焼却していく。蜘蛛の死骸を担いだ湊さんを連れて僕は迷宮を離脱した。迷宮の外に出ると既に日が傾き始めていたが居住区までは何とかもちそうだ。
「さ、まずは居住区に帰りましょう。工房に蜘蛛を預けたら公衆浴場に行ってそのあとは食事です。初めての迷宮閉鎖記念に何か御馳走しますよ。」
「山吹さん。それ乙女に蜘蛛の死骸を担がせる人が言うセリフじゃないですよ?」
「え?じゃぁ御馳走しなくていいですか?」
「いや、いただきます。」
僕と湊さんは談笑しながら居住区への帰路を急いだ。
落とした装備は無事に回収できた。