第二節:告白
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九州というのは、毎年夏から秋にかけて豪雨と台風による自然災害に見舞われやすい土地だ。
そしてわたしの負のジンクスが最悪の形で効力を最大限発揮してしまったのも、九州だった。
わたしはあの夏、幼馴染みと母を同時に失った。
生まれも育ちも九州・熊本で、市内からかなり外れた田舎町に母と二人暮らしていた。
父は転勤が多く、小さい頃から単身赴任で家を空けることが多かった。
それでも実家の周りは昔からよく見知ったご近所さんや、幼馴染みの恭ちゃん一家が住んでいたから、わたしはちっとも寂しい思いをした記憶がない。
恭ちゃんの家はわたしの家のお隣さんで、恭ちゃんのパパとママは父が不在の我が家で何かと忙しくしていた母の代わりに、よくわたしを夕飯に招いては世話してくれていた。
田舎ということもあり、ご近所付き合いが密で、困ったときはお互い様精神が根強い地域だった。
すれ違う人みんな大抵知り合いで、地域の大人が協力して子供を見守るような温かい環境だったと思う。
当時のわたしはそんな日常がずっと続くものだと、信じて疑っていなかった。
そんな日常が簡単に揺らいでしまうことを知ったのは、五年前に起きた熊本地震だった。
自室に居たわたしはお風呂から上がったばかりで、リラックス状態そのものだった。
たしかベッドに寝転がりながら、漫画を読んでいた時だ。
雷鳴のような地響きが突如襲い、家中の家具を揺らした。
何が起こっているのかも分からずに、その場で固まりながら家具の揺れが収まるのをただ待つことしができなかった。
その時母はちょうどお風呂に入っていて、波のように荒れ狂う湯船に必死でしがみつくようにして、なんとか溺れずに済んだらしい。
多くの甚大な被害をもたらした熊本地震だけど、幸いわたしたちの住む地域は激しい揺れはあったものの家屋の半壊や全壊といった被害は少なかったように思う。
それでも前震のあとすぐさま母と車中泊を経験し、恐怖に震えながら眠れぬ夜を過ごしたし、その後の本震と余震の続く間は避難所生活を余儀なくされた。
震度七の地震は夜中も躊躇なくやってきたし、避難所の職員さんの指示で建物の倒壊に巻き込まれない様に、念のため全員が一旦建物の外に出された。
四月と言ってもまだ夜は冷え込む時期だった。
母と二人、身を寄せながら揺れ動く地面を見つめながら、まるで地獄のどん底にいるような無力感を味わった。
生きた心地がしなかったし、わたしはここで死ぬのかもしれないと、何度も死を覚悟した。
やり残したことが多過ぎて、まだ死にたくないと強く唇を噛み締め、泣き叫びそうになるのを必死に堪えた。
揺れ動く避難所施設を見上げながら、数年前にニュースで見た東日本大地震の記憶が過り、ラジオを食い入るような目をしてアナウンサーの声を聞いていた。
そして寒さと恐怖に震えながら、ただただ津波が来ないことを途方に暮れながら祈った。
人の力では争うことのできない自然の脅威にさらされた時、居るか居ないかも分からない神だとか、仏だとかに祈り、懇願することしかできなかった。
どうやらそれは普段は無宗教面をしている人も、宗教嫌いの人も、みんな同じらしい。
こんな事態に陥って初めて、藁にもすがる思いで、両手を顔の前で合わせて祈る。
その景色は、どこか異様な光景に映った。
甚大な被害を出した熊本地震で死者が少なかったのは、津波が来なかったこと。
多分、これは唯一の幸運だった。
その後の慣れない避難所生活は、確かにプライベートな空間など一切ないストレスの溜まる共同生活そのものだった。
だけどわたしは今もこうして生きている。
その奇跡に、感謝しても仕切れなかった。
被災後、何より困ったのは、電気・ガス・水道・交通アクセスなどのライフラインが全て滞ってしまったこと。
断水したことでトイレの水も流せないから、避難所生活の最初の数日間は仮設トイレや物資が届くまで、ダンボールに猫砂を入れただけの簡易トイレに用を足したこともあった。
“名水百選”に選ばれるほど水の綺麗な熊本は、水道水の100%が地下水であるという全国的にも珍しい地域だ。
そんな熊本の水が、断水が復旧した直後、一時的に濁ったこともあった。
原因として考えられていたのは、地震の揺れで水を運ぶ管にずれが生じたせいだと言われていた。
他にも他県からのボラティアや物資を運ぶ車に紛れ、被災で半壊・全壊した家に押し入り、強盗を働く不届き者もいた。
そうした一部の悪意ある行為のせいで、大半が善良な人々のはずの他県ナンバーを警戒するあまり、疑心暗鬼になったこともあった。
そして何よりも熊本に住む人々の心に傷を残したのが、熊本のシンボルである熊本城の倒壊だった。
そうした多くの“非日常”を経験し、限られた自由の中で“何気ない日常”のありがたみを知った。
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そしてその約四年後、再びわたし達を襲ったのが熊本豪雨だった。
一年前のあの日のわたし達は、恭ちゃんの家でお互いの親の帰りを待っていた。
凄まじい雨音が家の外から聞こえてくる中、恭ちゃんのママが用意しておいてくれた熊本県産の大きなスイカを二人で食べた。
ダイニングテーブルで向かい合いながら、わたしと恭ちゃんはその時点まで、その豪雨を毎年やってくる少し激しい大雨くらいにしか考えていなかった。
しかしすぐに町内放送用のスピーカーから、大雨警報に伴って避難準備をするよう促すアナウンスが流れる。
いつまでも止む気配のない雨と、不安を駆り立てる町内放送のアナウンスを聞きながらテレビをつけたその時だった。
テレビに映し出された通常の川の水位とはかけ離れた水位と、橋が川の激流で流される映像が目に飛び込んできた。
流石にここまでくるとこの雨が例年の大雨程度の雨ではない事くらい、高校生ともなればお互いに理解できた。
「き、恭ちゃん。何かこれやばくない?」
「……だな。とりあえず俺は父さんと母さんに連絡してみるから、透子もメッセ飛ばしてみて」
「う、うん」
わたし達はとりあえず、お互いに仕事で不在の親と連絡を取ることにした。
今後この雨の中、もし二人だけで避難することになれば、自分たちはどうすればいいのか。
そしてお母さん達はすぐに帰って来られそうなのか。
押し迫る危険に不安を覚えながら送ったメッセはすぐに既読がつき、返信がきた。
「ちょうどよかった。今、お母さんも透子にメッセージを送ろうとしてたの! そこは危険だからすぐに近くの小学校に避難しなさい! 持って行けそうなら防災グッズも!」
珍しく絵文字も顔文字もない母からのメッセージに、わたしはいよいよ今の状態がとても危険だということに気がついた。
熊本地震以降、我が家ではいつ避難することになったとしても良い様に、玄関横の戸棚に防災グッズの詰まったバッグを常備していた。
備えあれば憂いなしとは言うけど、ついにあれを使う時が来てしまったのかと、そんな事態にまた自分は陥ってしまったのかと、思わず膝から崩れ落ちる。
わたしがスマホの画面を見ながら固まっていると、慌てた様子で玄関に走っていた恭ちゃんが声を荒げた。
「何だこれ!?」
恭ちゃんの声に我にかえり、急いで恭ちゃんの元へと駆け寄ると、泥水のような濁った水が家の中まで入り込んでいた。
「恭ちゃん! お母さんがすぐに近くの小学校に避難しなさいって!」
「……この状況だと仕方なさそうだな」
「恭ちゃんは連絡ついた?」
「いや、まだ。メッセも未読のままだし、電話も繋がらない」
最悪の状況が頭に浮かんだけど、それはお互いに考えないことにした。
「……恭ちゃん、とりあえずここから離れよう?」
「ああ」
その後球磨川が氾濫し、堤防が決壊したことで警戒レベルが跳ね上がり避難勧告に続き、避難指示が何度も繰り返しアナウンスされた。
わたしは母からのメッセージに「わかった! お母さんも気をつけてね!」とだけ返信して、自宅の玄関から防災グッズの入ったバッグを引っ掴み、恭ちゃんと二人近くの小学校を目指した。
今年の豪雨は何か胸騒ぎがする。
そんな嫌な予感をひしひしと感じていた。
すでに浸水している辺り一帯は膝上よりも水位が上がっており、わたしと恭ちゃんは水の流れに逆らいながらもなんとか歩くので精一杯だった。
それは、ようやく目指していた小学校が目と鼻の先ほどの距離になった時だった。
「——透子ッ!!」
何かに躓きかけたわたしの背中を思いっきり恭ちゃんが突き飛ばし、わたしは前につんのめる形で転んだ。
そして何かが歪な音を立てながら、滑り落ちる恐ろしい音が真後ろから聞こえて来た。
恐る恐る振り返るとそこは、——土砂災害の現場と成り果てていた。
「……き、恭ちゃんっ!?」
わたしの声に反応する声は、何一つ聞こえない。
自分一人ではどうしようもないとわかっていた。
それでも目の前の土砂を、懸命に手で掘り起こそうと躍起になった。
血が出ようが、爪が剥げようがどうだってよかった。
「誰か!! 助けてください!! 男の子が土砂の下敷きになってるの!!……誰でもいいから助けてッ!……お願いだから、恭ちゃんを、誰かッ! 恭ちゃんを、助けてッ!!!」
虚しく響くわたしの声は、連日降り続く激しい雨でかき消された。
無力感をここまで強く感じたのは、たった十数年の短い人生の中で二度目のことだった。
「——待ってて、恭ちゃん。すぐに誰かを呼んでくるから」
そう言い残し、一旦その場を離れたわたしは、恭ちゃんを助けなきゃという気力だけで、がむしゃらに前に進んだ。
何度も水と泥に足を取られながら、その度に転んだ。
ようやく近くの小学校に駆け込んだわたしは、恭ちゃんが土砂の下敷きになったと近くの大人達に助けを求めた。
必死で助けを求めるわたしを見て何事かと、騒ぎを聞きつけた大人が集まってきて、話を聞いてくれた。
救助隊は確かにきてくれたし、土砂から恭ちゃんは結果として助け出された。
でもそれは、土砂災害発生から二日後のことだった。
自衛隊も消防も、救助隊の多くがこの大雨による災害で既に出払っており、この町に続く唯一の橋が川に流されてしまい出動が遅れてしまったらしい。
帰らぬ姿で発見された恭ちゃんの顔は、苦痛に歪んでいた。
ごめんね、恭ちゃん。一人で怖かっただろうし、苦しかっただろうし、痛かったでしょう?
恭ちゃんの亡骸を、抱きしめながら涙を流す恭ちゃんのパパとママの姿が、脳裏に焼き付いて消えない。
追い討ちをかけるように、最後のメッセージがわたしからの“わかった。お母さんも気をつけてね!”で終わっていた相手——母もこの豪雨で川に流され亡くなった。
なんでも勤め先であった老人ホームの利用者さんが、ホームから飛び出してしまいそれを追いかけた母は、巻き込まれる形で荒れ狂う激流となった川に流されたそうだ。
わたしの涙はもうその時には枯れ果てて流すことすらできなかった。
やっぱりわたしの好きなものは、大切なものは——わたしの元を離れてしまう。
周りの大人は皆口を揃えて、“わたしは何も悪くない”という。
でも本気でそう思ってる?
恭ちゃんのママとパパは、口には決して出さないけど命を落としたのがわたしだったら良かったって、本当は思ってるんじゃないかって考えずにはいられなかった。
一人だけ生き残ってしまってごめんなさい。
恭ちゃん一人に、辛い思いをさせてしまってごめんなさい。
恭ちゃんを好きになってごめんなさい。
再び被災者となったわたしは、抜け殻のような状態で避難所である小学校の体育館で寝泊まりしていた。
何とか無事だった制服に袖を通し参列した恭ちゃんのお通夜もお葬式も、上の空のまま時間だけがただ過ぎていった。
遺影に写る恭ちゃんを見ても恭ちゃんが亡くなった実感が湧かなかったし、棺の中の恭ちゃんは穏やかな作り物のような顔をしていて、益々これは悪い夢なんじゃないかって気がしてきた。
その後は関東から飛んできた父に引き取られるまで、ろくに食事を取ることも眠ることもできないまま過ごしていた。
まるで恭ちゃんの両親から逃げるように引っ越してしまったわたしは、謝ることも出来ないまま関東に来てしまった。
恭ちゃんが亡くなった直接の原因は、たしかに豪雨が引き起こした土砂災害かもしれない。
だけど少なからず恭ちゃんと母の死には、わたしの持つ“負のジンクス”が関係していると思う。
だって恭ちゃんは、わたしの初恋の人だったから——。