第一節:金魚とジンクス
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今朝、登校すると教室内で飼育されていた金魚がひっくり返って死んでいた。
それは水槽で飼育していた他の金魚よりやや小ぶりの金魚だった。
「またか」という感想が頭に浮かぶ。
七月に入ると、雨音よりもセミの鳴き声を聞くことの方が増えたような気がする。
それでもなんとなくそんな気がするだけで、関東の梅雨明けはもう少し先になりそうだ。
約二週間に及ぶテスト期間も無事終了し、大概の授業は答案用紙の返却期間に入った。
長いようで短かったテスト期間前の勉強会の日々は、平日に真嶋くんから数学を習い、土日に他の教科の復習に取り組んでいるとあっという間にテスト当日を迎えていた。
そしてついこの前新学期が始まったかと思えば、三週間後にはもう長い、長い、夏休みがやってくる。
真嶋くんが教えてくれた数学は、自分史上最高得点を叩き出していたと言うのに、その日はなんだか一日中、何も手につかなかった。
上の空のまま、気付けば一日があっという間に過ぎていったように思う。
放課後、下校する生徒たちの背中を何度も見送りながら、今日もまた図書室に来ていた。
わざとゆっくりと日誌を書いたり、集中などできないままテスト期間も終わったのに数学の問題集を開いてみたり、そうしてようやくひと気のなくなった校舎の中で息をついた。
図書室を抜け出し、ノロノロとした足取りで廊下を歩く。
そして誰もいないことを確認してから教室に入ったわたしは、やり残した仕事をやるために戻ってきた。
教室の片隅でブクブクと泡を立て続ける水槽の中で、ぴくりとも動かないひっくり返った金魚を網ですくい上げ、中庭の木の下に埋めた。
時刻は午後六時を少し過ぎた頃だった。
今朝まで晴れていたのに、夕方に差し掛かる時間に限って雨が降りはじめた。
天気予報は外れたけど、スクールバッグにはいつも折り畳み傘を忍ばせているから問題はない。
小雨が降る中、傘を肩と首で挟むように支えながら、なんとか金魚の小さなお墓を作った。
「ごめんね」とポツリと呟いたその言葉は、金魚に届いただろうか。
金魚の餌やり当番は、本当はクラスの生物係の仕事だった。
だけど担当になった生物係の二人は、掃除当番中も野球の真似事をするほど真面目とは言えない人たちで、案の定金魚の餌やりを平気で忘れる。
それに気づいたわたしは、教室の片隅で飼育されている金魚の水槽の掃除から、餌やりまでの全てを代わりにやっていた。
飼育していた金魚の中で、一匹だけ体が小さく他の金魚からいじめられている子がいた。
それが今、目の前で土の中に埋まっている子だ。
そしてその子は飼育を始めて以来、わたしが特に目を掛けて可愛がっていた子だった。
「委員長、何してるの?」
「————来ないでっ!!」
「ごめん。それは出来ない」
わたしの荒げた声を聞いても、動揺すらしない彼は今いちばん会いたくない人だった。
顔を上げた先には、もう声だけで誰かわかってしまう人物が立っていた。
放課後なのに珍しくユニフォーム姿じゃない彼——真嶋くんは、どうしてわたしを見つけてしまったのか。
もういっその事、透明人間にでもなってしまいたい。
消えてなくなりたい。それで誰も傷つけずに済むのなら、わたしはひとり静かに泡沫のように、消えしまいたかった。
「ねえ、委員長。どうしたの? 俺にできることがあるなら、力になるから教えてよ」
いつもはクラスで出過ぎた言動なんてしないくせに、だって彼はここぞと言う時にみんなから頼られた時だけ、必要に応じて動く人だと知っている。
彼のその行動がクラスで目立ちたいからとか、人によく思われたいとか言う理由ではないことを、わたしは知っている。
いつだって周りのために空気を作り、さりげない優しさを誰に足しても平等に発揮する。
そんな彼を嫌う人をわたしは見たことがない。
周りが勝手に注目してしまうだけ、真嶋くんにはそう言う不思議な魅力があるから。
思わず目で追ってしまう様な、人を惹きつけて離さない、不思議な魅力。
多分それは真嶋くんの生まれ持った才能なんだろう。
彼の言動はいつもいい塩梅で、過不足のない親切の化身の様。
それなのに何でわたしの時は、供給過多気味なお節介を焼こうとするの?
彼の魅力を知った上で、彼を拒絶するわたしがただ珍しいのかもしれない。
「あっちに行って」と、口を開きかけたはずなのにわたしは一瞬で何も言えなくなった。
「委員長、話して」
噤んでいた口を思わず開いてしまったのは、真嶋くんのアーモンド型の形のいい瞳に掴まってしまったから。
長身の真嶋くんがわたしの隣に立つと、自然と伏せ目がちになり長い睫毛が影を落とす。
まじまじとこんなに近くで真嶋くんの顔を見たのは、初めてかもしれない。
彼の顔が端正な顔立ちをしていることは、知っていた。
だけど間近で見れば見るほど、恐ろしいほどに整っていることを思い知らされる。
いつも彼は柔らかな笑みを浮かべているから気づかなかった。
端正な顔立ちの人が、ひとたび表情に色がなくなると、彫刻の様な神秘的な印象と同時に威圧感が増すことを。
それは一瞬だったかもしれないし、五分とか、本当はもっと長かったかもしれない。
時間が止まってしまったかの様にわたしはその視線に囚われたまま微動だにできずにいた。
目鼻立ちがはっきりとしていて、キメの細かい肌に薄い唇。
さらさらで艶やかな黒髪に、アーモンド型で形のいい二重の目。
その少し上に眉尻が細く引き締まり、程よい太さに整えられた眉。
どれをとってもパーツがいいとしか表現のしようがない顔だ。
こちらを見つめたまま、一向に立ち去る気配のない真嶋くん。
どうやら真嶋くんは、わたしが話すまでこの場を去ってくれる気はないらしい。
だからわたしは半ば投げやりでいて、諦めた様な口調で話し出した。
「……クラスで飼ってた金魚が死んじゃったから、お墓を作ってたの」
「そっか」
真嶋くんこそ、なんで居るの。
どうして真嶋くんは、誰にもみられたくない時に限って鉢合わせるんだろう。
聞きたいことはたくさんあるはずなのに、わたしの口はわたしの言うことを聞かない。
聞かれてもいないことをベラベラと話し始めた。
「この金魚ホントは生物係がお世話する事になってるんだけど、ちゃんと餌やりされてなかったからわたしが代わりにやってたの」
行き場を失った感情が溢れてしまい、自分ではもう止めることもできなくなっていた。
わたしがこの子を可愛がったせいで——死んじゃった。
…………こんな事なら餌なんかあげなきゃよかった。
わたしが関わらなければ、この子は死なずに済んだかもしれないのに。
わたしは馬鹿だ。こう言う事態を避けるために、“好き”をやめたはずなのに。
他人との距離を置くように、全てのものから距離を置き続けなきゃいけなかったはずなのに。
自分を責める言葉だけは、次々から次へと簡単に浮かんでくる。
「もしかして委員長、その金魚が死んだのは“自分のせいだ”って思ってる?」
「……っ、」
「違うよ、委員長。多分、逆だよ」
「…………ぎゃ、く?」
「うん。その金魚は、委員長の“せい”で死んだんじゃなくて、委員長の“おかげ”で生きながらえたんだよ。それが例え、ほんの一瞬だとしてもね。委員長は周りのことをしっかり見てあげられる人なんだよ。だってその金魚は、委員長がいなかったら、生物係の二人から餌をもらえないまま、下手したら、もっと早くに…………死んでしまっていたかもしれないでしょ?」
どうしてこの人は、わたしには考えつかないような優しい言葉を、わたしの心が悲鳴をあげている時に限って、かけてくれるんだろう。
「ね? だから泣かないで、委員長」
そんなこと言われたら涙腺が思わず緩みそうになるけど、わたしの涙はもう残っていない。
「————泣いてないし、泣かないよ」
だって涙はあの日、全部からしてしまったから。
「そっか。何だか俺には委員長が今にも泣き出しそうな気がしたから」
わたしはそんなに悲しそうな顔をしていたんだろうか。
真嶋くんはわたしが泣き出しそうな顔をしながら金魚を埋めていたから、“負のジンクス”のせいで金魚を殺してしまい、悲しんでいたことを察したらしい。
「多分、今”委員長のせいじゃないよ”って言っても信じてくれないでしょ」
図星だった。それは今まで散々、周りの大人から言われてきた言葉だったから。
だけどそれを素直に受け入れられない程度には既にわたしの心は頑なで、性格はひん曲がっていた。
「委員長ってやっぱり優しいね」
違う、そうじゃない。わたしは優しくなんかない。
わたしはただ、これ以上自分のせいで何かが、誰かが、傷つくのを見たくない小心者なだけ。
開きかけた口を閉ざしてしまったのは、あの日枯れきったものだと思い込んでいた雫が瞳から流れ落ちてしまったせい。
頬を伝う涙を真嶋くんに見られたくなくて、とっさに傘で顔を隠す。
やめて。真嶋くんの優しさは、今のわたしには刺さり過ぎてしんどいから。
これ以上、わたしの中に入ってこないで。
「俺、委員長が好きだよ」
「っ、」
どうしてこの人は、こんなにも純粋で、真っ直ぐな瞳でわたしを見つめるのだろう。
「だから……もしも委員長が俺を見てくれて、その上で好きになってくれたらすごく嬉しい」
突拍子もない真嶋くんの言葉を信じられない思いで聴きながら、わたしは即座に淡い期待を頭から追い出した。
その告白がいっそのこと何かの罰ゲームで、誰かに言わされているだけだったら、どんなに良かっただろう。
もしくはわたしが負のジンクス持ちでもなく、花澤さんのように愛らしい容姿をしていたなら、答えは違っていたかもしれない。
「……無理だよ、そんなの」
「委員長は、俺が嫌い?」
「そうじゃなくて、」
「じゃあ、どうして?」
“他に好きな人がいる”という程のいい断り文句は、わたしには使えないことを真嶋くんは知っているから、言葉に詰まる。
どんな嘘を口にしても、わたしの心は真嶋くんに見透かさている気がして、上手い言い訳が思いつかなかった。
追い詰められたわたしは、とっさにずっとひた隠ししていたはずの本音を、気付けば盛大にぶちまけていた。
「わたしの負のジンクスは、今まで一度も避けられた試しがないの! 下手したら真嶋くん、……怪我だけじゃ済まないかもしれないんだよ!?」
傘越しに真嶋くんの目を見ることもなく、地面に向かって叫んだ。
こんなこと本当は言いたくない。
そう思っていたとしても、真島くんにとって私と一緒にいることは彼の幸せにはならないから。
「大丈夫。俺、悪運だけは強いから。委員長の消えちゃう魔法。俺が何一つ効力なんてない事を証明するから。——俺のこと好きになってよ」
「……そんな事できるわけ、」
きっと真嶋くんは何も知らないから、そんなことが言えちゃうんだ。
本当のことを知れば、真嶋くんはわたしを危険だと認識して避けてくれるだろうか。
もしもそうならわたしは彼に全てを話す決意ができる気がした。
わたしはもう誰も傷つけたくなどないし、真嶋くんだけは絶対に守りたかった。
だから、話そうと思えた。
「真嶋くん、わたし聞いて欲しい話があるんだけど……」
ちゃんと伝えなきゃって思ったから、傘を壁にするのをやめてわたしは真嶋くんを真っ直ぐと見据えた。
そんなわたしに対して真嶋くんは静かに頷くと、話に耳を傾けてくれた。
あの日、大切な人を犠牲にして、自分だけのうのうと生き残ってしまったことをわたしは今日、——告白する。