第六節:えくぼと、おもかげ
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『俺も一緒に勉強していい?』という真嶋くんの言葉を、何度も脳内でリピートしながら週末わたしは何度もぐるぐると考えを巡らせていた。
ついあれは何かの冗談や聞き間違いだったんじゃないかって、自分の耳と記憶を疑ってしまう。
おかげですっかり休日だというのに寝不足気味だ。
だっていくらお詫びと言っても、わたしと勉強したところで真嶋くんには何のメリットもないから。
数学は苦手なものの、わたしだって他の教科はそこそこの点数をとっているつもりだ。
だけどやっぱりいつも数学が足を引っ張ってしまい、順位で言えば300人中100番前後をいつも行ったり来たりしている。
一方、真嶋くんはいつも大体50番以内をキープしていた気がする。
自称進学校を名乗るうちの学校で、部活もレギュラーを務めながらのその順位をキープしている真嶋くんは、かなりすごいと思う。
そんな真嶋くんにわたしは教えてもらうことはあっても、教えられる教科なんて存在するわけもない。
だからわたしはこの真嶋くんの提案に正直かなり戸惑っていた。
あれはもしかして、その場のノリってやつだったんじゃない?
だったらわたし、こんなにぐるぐる考えたりして、正直馬鹿みたいじゃない?
「そうだよ、来るはずないよね」
結局、何度考えてもやっぱりその結論以外でなくて、わたしは自分に言い聞かせる様に、そう呟いた。
思いのほか弱々しく響いた声は、虚しくも空気にとけて消えた。
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翌日の放課後。
来るはずもないと思っていても、“もしも”に期待してしまうのは何故だろう。
心のどこかで彼が来ることを望んでいる自分の存在に気づく。
だけど、さも期待などしていないと言わんばかりに、独り自習を進めていくわたし。
どうせ来ないのに、期待なんてして馬鹿みたい。
だけど、その時心待ちにしていた声が、すぐ近くから響く。
「お待たせ、委員長」
「————え、」
真嶋くんは本当に約束通り、図書室にやってきた。
目を見開いたまま固まっているわたしを他所に、真嶋くんはわたしの正面の席に腰を下ろした。
わたしがあまりにも長いこと、真嶋くんを凝視しすぎていたからだろう。
笑みを浮かべた真嶋くんは、不思議そうに首を傾げた。
「ん? どうかした?」
「……う、ううん。なんでもない、です」
まさか本当に来るとは思ってなかったわたしは、内心かなり動揺していた。
おかげで謎の敬語が同級生相手にもかかわらず語尾に現れる。
「何で敬語?」
「え?……いや、何となく?」
約束通り真嶋くんが現れたことに、動揺したなんて言えるわけもなく、歯切れ悪く答えるわたしを真嶋くんは笑った。
「あははっ、委員長といるとホント飽きないな」
「えっと、それどういう意味??」
「表情がコロコロ変わるところが、ユニークっていうか可愛いよね」
「————んっ!?」
さらりと、可愛いとか言われてわたしの思考は完全に停止した。
だけど次の瞬間、猛烈に恥ずかしさが込み上げてくる。
真嶋くんは顔色一つ変えずに、にっこりと微笑んだままなのに、なんで言われた側のわたしがこんなに慌てふためかなきゃいけないわけ??
慣れない扱いに戸惑いながらも、内心舞い上がってしまっている自分がいた。
思わずにやけそうになる、口の端を慌てて引き上げる。
「なんか委員長って、妹にちょっと似てる気がする」
あ、びっくりした。可愛いってそういう意味か。
あれ?……なんで?
わたし今、軽くショック受けてない?
ちくりと、胸に鈍い痛みが走るのを感じながら妙に納得してしまった。
つまり真嶋くんから見たわたしは子供染みてて、幼いってことだろうか。
そうだよね、そうじゃないとわたしが可愛いなんて、言われるはずないもんね。
何だか改めてそう言われると、不覚にも舞い上がってしまった手前、複雑な心境だった。
内心気落ちしているのを悟られたくなくて、無理やり笑顔を顔に貼り付けながら質問を投げる。
笑ったつもりなのに、どうしても顔が引きつってしまうのはこの際、無視だ。
「えっと、真嶋くんの妹さんっていくつなの?」
何気ないわたしの質問に、真嶋くんの表情に途端に影が落ちる。
目の前にいるはずなのに、どこか遠くを見つめた真嶋くんはわたしのことなど見てなくて、とても遠い存在の様に感じてしまう。
あれ? この表情前にも見たことがある気がする。
えっと、……確かあれは「真嶋くんにも嫌いな人がいるの?」と、わたしが聞いた時だ。
『どうだろね』と、呟く様に真嶋くんが答えた時、始めて太陽みたいなその笑顔が翳るの見た。
そうだ、この表情はあの時と一緒なんだ。
それは、何だか見てるこっちが切なくて、胸が鷲掴みにされてしまうような、そんな哀愁に満ちた表情だった。
どうしてそんな顔をするの?と、思わず聞いてしまいそうになる。
真嶋くんには、そんな顔をして欲しくない。
あれ?……なに今の?
自分で自分が分からなくなる。
何でわたしは真嶋くんに、悲しそうな顔をして欲しくないんだろう。
ダメ、考えちゃダメだ。
本当は気付いている、だけどこの感情に名前はいらない。
だって、そうじゃないと太陽みたいに笑う真嶋くんから、きっとわたしは目が離せなくなってしまうから。
「ごめん、やっぱり今の質問なしで」と、口にしかけた時、真嶋くんが先に口を開いた。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた。……二つ下だよ。もうずいぶん永いこと会ってないから、俺の記憶は妹が保育園の年長さんのまま止まっちゃってるんだけどね」
すると、さっきまで切な気だった表情が、今度は懐かしむ様な、慈しむ様な暖かな色を持ち始める。
真嶋くんの家庭の事情をわたしは全然知らないから、もしかしたら親御さんの離婚が原因かなとか色々想像を働かせてしまう。
だけど誰だって踏み込まれたくないことや、聞かれたくないことの一つや二つ、抱えて生きていることをわたしは知っている。
だってそれはわたし自身がそうだから。
他人から変な詮索なんてされたくないし、する気もないわたしはそれ以上、この話題を掘り下げるつもりはなかった。
「そうなんだ」と、余計な言葉など挟まずに、話を畳むくらいしかできない自分に腹が立つ。
多分もっと上手に気遣える人なら、こんな下手な沈黙なんて生まないんだろうな。
なんて返すのが正解だったんだろう。
馬鹿なわたしは、その話題から話を逸らした後のことを何も考えていなかった。
何か話さなきゃなのに、何も思い浮かばない。
自分から途切れさせておいて、不自然に途切れた会話に気まずくなる。
思わず握り締めた手元に視線を落としたわたしに、真嶋くんは明るい調子で言った。
「さてと、じゃあ始めようか。委員長」
「え?……はじめるって何を??」
「数学、やるんでしょ?」
本来の目的すら頭から抜け落ちていたわたしは、自分のポンコツさ加減に呆れてしまう。
そっか、そうだよね。
その為に集まってるわけだし、一番自然に話題を変える方法が、こんなにも目の前に転がっていたのに、さり気なく無難な話題すら振れないわたしってコミュ障すぎて本当ダメダメじゃない??
以前はもっと誰に対してもハキハキと話せるタイプだった。
だけど他人を避け始めてから、日に日に口を閉ざすことばかりを覚えて、気持ちを押し殺すことの方が上手くなっていく。
まるで自分の気持ちを伝えたり、円滑なコミュニケーションを取る方法をすっかり忘れてしまったみたいだ。
前はこういう時どうしていたっけと考えている内に、もたつくわたしを他所に会話が終了してしまうことが増えた。
とりあえず内心落ち込みながらも、真嶋くんと始めたテスト勉強。
真嶋くんはどうやら人に教えるのも上手いらしい。
もはや分からなさすぎて、分からないところが分からないまであったわたしに、
「とりあえずテスト範囲の問題集見せてもらっていい?」
と、わたしがここ最近ずっと取り組んでいた問題集を真嶋くんは覗き込んだ。
「うん、なるほどね。とりあえず、委員長」
「うん」
「問題集を解く時に、一度解いてみて分からなかった問題と、回答が間違っていた問題はテキストに印をつけるところから始めよう」
「…………えっと、ちなみに印をつけるのノートじゃダメな理由ってある?」
「んー、ノートがダメなわけではないけど……そうしておけば、あとで見直しや復習する時に、自分の苦手なところを集中的にやれるし、何より分かりやすくない?」
「……あ、なるほどね。分かった、やってみる」
「うん。……あ、あとテキストにその問題を何回解いて、その回答が毎回正解か不正かかも簡単に○×だけでもいいから書いとくといいかもね」
「へー! 真嶋くんって、そんな事までしてるの??」
「何ていうか……効率重視でやってく内に今のスタイルになった感じかな?」
「効率かぁ……」
朝練に始まり、毎日遅くまで練習しているサッカー部エースの真嶋くん。
時間がないからこそ効率を上げて、勉強にも取り組んできたんだろうな。
やっぱりすごいな、真嶋くんは。
ただでさえ部活の練習に追われて時間なんてわたし以上にないだろうに、それでも部活も勉強も両立してる真嶋くんはそうやって今まで勉強時間をつくり出していたのかな。
持ち前の要領の良さもあるだろうけど、それはもしかしたら限られた時間を有効活用するために真嶋くんが生み出した努力の賜物なのかもしれない。
「まあ、あくまでこれは俺のやり方だから、委員長は委員長の合うやり方をそのうち見つけていけばいいよ。多分、やってく内に見つかるからさ」
「なるほど。……が、頑張ります」
「うん、頑張れ」
授業だと板書を書き写すので精一杯でついて行けずに、もはやお手上げ状態のわたし。
マンツーマンで真嶋くんが教えてくれるということで、多分わたしは相当陳腐な質問ばかり繰り返していたと思う。
だけどそんなわたしにも呆れずに、真嶋くんは一つ一つ噛み砕いてわかりやすく解説してくれた。
その解説のあまりの分かり易さに、わたしは感動を覚えた。
それまで何かの暗号の様に見えていた数式や図形が、真嶋くんの解説がつくだけで一つの解答を導き始める。
苦手な数学の問題を解けた瞬間の達成感は凄まじく、わたしは目を見張った。
次第に苦手な数学が、「頑張ればわたしでも解けるかも」という、小さな自信と期待に満ちてくる。
真嶋くんのサポートの元、勉強に集中した。
多分、過去一勉強してるかもってくらい頑張れたと思う。
そろそろ一息いれようかという時、真嶋くんが何気なく呟いた。
「あとこれは、絶対に確証があるわけではないんだけど……」
そう言った真嶋くんは授業ノートをスクールバッグから取り出すと、綺麗な字が並ぶノートの中で赤字で書かれた箇所をシャーペンの先で指した。
シャーペンで指された箇所より、わたしは真嶋くんの指に視線がとまった。
わぁ。……全然関係ないけど、真嶋くんって指まで細長くて、綺麗なんだ。
わたしはとっさに自分の小さくてずんぐりむっくりした、クリームパンみたいな手を引っ込めた。
「原センって、」
真嶋くんの声で、意識を引き戻される。
あたかもちゃんと話を聞いてます感を出すために、わたしは直前の真嶋くんの言葉をなぞる様に言葉を発した。
「……うん、原先生がどうしたの??」
担任の原先生は数学の担当でもあり、生徒の間で親しみを込めて“原セン”と呼ばれている。
「毎回テストに出すとこを板書した時に、二回チョークで黒板を叩く癖があるっぽいんだよね」
「え!? そうなの??」
「あ、でも絶対じゃないから。……でも、今のところは大体出てるっぽい」
「何それ! どうして知ってるの?」
「俺もサッカー部の先輩から聞いた」
「へー! そんなこと全然、気付きもしなかった!」
多分、真嶋くんに教えてもらわなかったら、わたしがこの先も気付くことはなかったと思うけど。
「——で、俺のこのノートには今回のテスト範囲の中で原センがその仕草をした箇所をマークしてあるから……良かったら、委員長のノートにも印入れときなよ」
「え! いいの??」
「もちろん」
覗き込んだ真嶋くんの授業ノートは、パッと見ただけでどこが重要かがすぐに分かる、綺麗にレイアウトされたノートだった。
「うわぁ……」と、思わず感嘆の声が漏れるほど真嶋くんのノートは、わたしの授業ノートとはまるで別物だ。
わたしのはただ板書を書き写しただけで、カラー分けも特に決まってなくて、配色も毎回バラバラ。
ごちゃごちゃしているから、結局のところ何が重要なのか書いた本人ですら分からない。
一方真嶋くんのノートは、マーカーを含む色ペン全て三色で統一されていて、それぞれ役割がしっかりと分かれている様だ。
例えば、青ペンは公式や教科書の言葉を引用したもの。
赤ペンは丸つけやペケの理由だけじゃなくて、多分授業中に先生が板書せずに何気なく口頭で触れたことを真嶋くんはちゃんとメモしているらしい。
そしてマーカーは黄色一色だけを使用しており、本当に重要な部分をわかり易く強調していた。
他にも黄色いマーカーは、赤字で書かれた先生の言葉の周りに、吹き出しを描くのにも使用しているらしい。
「真嶋くんのノートって、めちゃくちゃ綺麗だね」
「そうかな? ありがとう」
「うん、わたしのとは大違い……」
「そうでもないよ。委員長は字が綺麗だよね」
「え? ……そんなこと初めて言われた」
「まじか。じゃあ、俺が第一発見者だね」
ダメだと、思った時には既に遅く。
わたしは堪えきれずに吹き出した。
「……ぷっ。……あははっ、第一発見者って真嶋くんっ……ふふっ、」
「あ、笑った」
「笑ってません」
「それは流石に無理あるよ、委員長」
“第一発見者”という言葉のチョイスに、わたしは思わず涙を浮かべるほど笑ってしまう。
「委員長ってそんな良い顔して笑うんだね」
まじまじと真嶋くんに見つめられてしまい、途端にわたしの笑いはどこかに引っ込んでしまう。
机に頬付きながら微笑んだ真嶋くんから、わたしは何故か視線を逸らせなかった。
「俺好きだよ。委員長の笑った顔」
「————っ、」
鏡を見なくても分かる。わたし今、絶対顔が真っ赤だ。ダメだ、これ。わたしには刺激が強すぎる。
「とくに笑ったときのえくぼが、すげー可愛い」
照れることなく端正な顔で微笑みながら、さらりと飛び出てくる真嶋くんの聴いてるこっちが恥ずかしくなる言葉のせいで、すでにお腹いっぱいだ。
こんな時、笑顔で「ありがとう」と言える様な女の子だったら、どんなによかったか。
ふと頭に浮かぶのは緩く巻かれた栗毛を揺らす、ヒロイン顔の女子生徒——花澤さんだった。
彼女だったらこんな時どうやって返すのだろう。
きっと可愛い笑顔でおどけた様に、楽しい会話を続けられるんだろうな。
だけどわたしにとってそれは、単なる褒め言葉じゃない。
それは顔を赤らめる材料にしかならない、もはや追撃だから。
まるで初めから勝てるはずもないゲームに、ルールも聞かされないまま突然放り込まれた様な感覚だった。
わたしはすぐに降参し、これ以上は耐えられないと、白旗を上げる。
「————ま、真嶋くん」
「ん?」
「…………こ、降参。もうホント勘弁して。……やばいくらい恥ずかしい」
顔を赤らめながらも、神妙な面持ちでポケットから取り出したハンカチを白旗のように振るわたしを見て、今度は笑いのツボが浅い真嶋くんが盛大に笑い、つられてわたしもまた笑った。
「ククッ………、あははっ」
「ぷっ…………、あははっ」
その後、図書委員の生徒に「図書室ではお静かに」と注意されてしまい、居心地の悪さから肩を竦めながらその場を後にしたのは言うまでもない。
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昨日の真嶋くんのアドバイスのお陰で、苦手な数学の突破口が開けた気がすると意気込みながら今日もまた、わたしは数学の勉強に励む。
「お疲れ、委員長」
「…………え!?」
驚いたことに真嶋くんは、今日もまた図書室にやってきたらしい。
「どうしたの? 真嶋くん」
「え? 何が?」
「あ、もしかして昨日ここに忘れ物でもした?」
「ん? いや、忘れ物はしてないけど??」
「え……じゃあ、」
「何でいるの?」とは言わなかったけど、真嶋くんは察したらしい。
「俺いると邪魔なら帰るよ」
そんなわけないと、頭をブンブン横に振ると真嶋くんが「良かった」と笑った。
それから3日も経つと、さすがにわたしも真嶋くんはテスト期間の間、毎日一緒に勉強してくれる気なんだと分かった。
「——ねえ、真嶋くん」
「ん?」
「どうして真嶋くんは、わたしに親切にしてくれるの?」
それは純粋な疑問だった。いくらお詫びと言っても、二週間近く毎日勉強を教えてくれるっていうのは、やっぱりありがたいけど申し訳なかった。
だって真嶋くんわたしに付きっきりで、数学を教えてくれているから真嶋くん自身の勉強に集中できているのか不安でたまらない。
何かそうしなきゃいけないわけでもあるんじゃないかって、聞かずにはいられない。
だけど真嶋くんは予想外の言葉を口にした。
「んー、俺のは何ていうか親切とはちょっと違うかも」
「??」
え? そうなの?
じゃあ、一体どういうつもりでこの勉強会を開いてくれているんだろう。
「俺もテスト勉強は、家より委員長とやってる時の方が捗るっていうのもあるけど……」
「ヘー、ソウナンダ」と、平常心を装いながら、内心ではその一言に胸が踊った。
お世話になりっぱなしの自分が、意外なことに少しでも真嶋くんの役に立てていたことを知ることができたから。
「何て言えば伝わるかな」と、手で口元を隠す仕草が様になる真嶋くんは、何かを閃いたらしく目を輝かせた。
「多分、この前現文で習った“情けは人の為ならず”ってやつ」
「え??」
「俺、見ちゃったんだよね」
「…………み、見たってなにを?」
「前に委員長がさ、蹲ったまま動かない蓮水を助けてたところ」
「っ、」
突然のことに、わたしは驚きを隠せずにいた。
多分、真嶋くんが言ってるのは進級そうそうの四月のことだ。
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春休みボケが抜けきらない頭で登校したわたしは、偶然昇降口の近くで蹲ったまま動かない小さな背中を見つけた。
まるで殻の中にちぢこまる様に、じっとそこから動かない背中に声をかけたのは多分、無意識だった。
何だかその背中が自分と重なってしまい、誰かに助けを求めている様な気がして、気づけば身体が勝手に動いていた。
「——あの、大丈夫ですか?」
俯いていた顔を上げた彼女は、苦しそうに眉をひそめた。
色白で線が細く、今にも折れてしまいそうな程か細い彼女は、気分がすぐれないのか顔を真っ青にしていた。
「立てますか? 保健室に行くなら肩貸しますよ」
声にならない声で「ありがとう」と、頼りない笑顔で呟いた彼女に肩を貸しながら、わたしは彼女を保健室に連れて行った。
それからしばらくして彼女が同じクラスメイトで、一度も教室で見たことがないわたしの席の隣でいつも空席をつくっているお隣さん——蓮水澪さんだということを知った。
風の噂で知ったのは去年までいじめに遭っていて、以来まともに登校できていない女子生徒らしいという事。
あの日は新学期と言うこともあり、久しぶり学校に来たものの教室に近づけば近づくほど次第に腹痛がひどくなり、動けなくなっていたようだ。
そこに偶然、わたしが居合わせた。
だけどなんでそんな二ヶ月近く前のことを、真嶋くんが知っているんだろう。
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「えっと、なんで真嶋くんがそれを知ってるの?」
「澪、……じゃなくて蓮水とは幼馴染みなんだ」
真嶋くんって彼女のこと、澪って呼んでるんだ。
という素朴な感想が頭に浮かびかけて、幼馴染みというワードで全部吹っ飛んだ。
「————え、そうなの?」
意外な繋がりってどこに落ちているか分からないものだなあと、しみじみと思った。
「うん。だから委員長にずっと、お礼が言いたかった」
「いや、そんなお礼だなんて……わたしは別に何も、」
「うん、委員長ならそう言うかなって思った」
今にして思えば、あれは単なる自己満足だ。
辛そうな彼女の背中が、自分と重なったから声をかけたなんて言ったら真嶋くんは何て言うかな。
「でも蓮水はすごい助かったと思うから。ありがとう、委員長」
「うん……、」
また胸のあたりがチクリと、痛んだ。
どうしてだろう。真嶋くんが彼女の代わりに、わたしにお礼を言うのを何故だか聞きたくないと思ってしまった。
こんなこと思っちゃいけないのに、素直に「どういたしまして」って言えれば良いのに。
わたしの口は、それ以上聞きたくない言葉を避ける様に、素直じゃないことを口にする。
「——そう言えば、どうしてそれが“情けは人の為ならず”に繋がるの?」
親しげに彼女のことを話す真嶋くんを、それ以上見たくなかったからだ。
そんな資格が自分にはこれっぽっちもない事くらい分かっているから、余計に辛くなる。
このモヤモヤは一体なに?
「委員長。“情けは人の為ならず”って言葉の意味、覚えてる?」
真嶋くんからそう問われて、嫌な感情を忘れ去りたくて、わたしは現代文を担当している高原先生の言葉を記憶の引き出しから無理やり引っ張り出した。
「んー、“情けは人の為ならず”って確か……情けを人にかけることで、巡り巡って自分にいいことが返ってきますよ、的な意味だったよね?」
「うん、そうだね」
「ん??……うん、」
「あ、つまりこう言うこと。俺のは親切じゃなく、委員長が蓮水に対してかけた情けが、巡り巡って委員長に返ってきただけだよ」
相変わらず真嶋くんは、いつもわたしの予想の遥か斜め上をいく。
突然の不意打ちを喰らい、わたしは言葉を失う。
理由はどうあれ、真嶋くんがわたしの行動を褒めてくれているんだと思うと、胸の取っ掛かりは気付けば消えていた。
「————て言うのが建前で、」
「え?」
どうやら二段構えの不意打ちだったらしい。
「他人を避けるくせに、困ってる人を目の前にすると放って置けない」
「……、」
「そんな優しい女の子と、俺は仲良くなりたいって思った」
「————っ、」
「だから俺のは親切じゃなくて、単なる下心だよ」
待って、何それ。こんな嬉しい下心ってある!?
「だから気をつけてね? 委員長」
端正な顔でわたしを見つめながら、真嶋くんは妖しく笑って見せた——。