第三節:晴れ間の中の鈍痛
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頼まれて替わった掃除当番の仕事をするために、同じく今週掃除当番の人たちと机を教室の後方側に引き、箒で掃き掃除をする。
男子数名が雑巾と箒で野球染みたおふざけをしつつも、他のメンバーで雑巾掛けを何とか終わらせ、机を今度は前方側へ引く。
黒板消しで黒板の消し残したチョークの跡を消し、黒板消し自体もチョークの粉を専用クリーナーで綺麗にする。
その間、真面目に掃除をしていたメンバーが、掃き掃除と拭き掃除を終わらせたようだ。
机を元あった位置に戻すと、各々が掃除道具を片付け帰宅していく。
わたしはまだ日誌を書き終えていなかったから、もう少し居残りだ。
外は雨がしとしとと降り注いでいて、今朝同様に湿気で満ちていた。
それからしばらくして日誌を書き終え、そろそろ帰ろうかと立ち上がった時だった。
教室前方の扉に手をかけた真嶋くんが、そこには立っていた。
「あれ? 委員長まだ残ってたんだ?」
「う、うん。日誌を書くの忘れてて……でももう帰るところ。真嶋くんは?」
「そっか、お疲れ! 俺はタオルを教室に忘れちゃって」
「そうなんだ。雨でも練習なんて部活頑張ってるんだね」
「今年は先輩達、熱入ってるから。雨の日は筋トレメニューばっかだけどね」
見慣れない真嶋くんのユニフォーム姿は、なんだか新鮮だった。
何でもサッカー部では期待のエースらしく、やっぱり真嶋くんどこにいたって注目を集めてしまう特別な人のようだ。
真嶋くんは真っ直ぐ自分の席に向かうと、わたしに背中を向けタオルを探し始める。
制服を着ている時は、着痩せして見えていた真嶋くんの身体は意外にも筋肉質だ。
特にハーフパンツから覗く足は、素人目に見ても無駄な脂肪のない、鍛えているのがよく分かる足だった。
あまりじろじろと見るのも失礼だと思い、真嶋くんがこちらに背を向けている間に視線をそっと外す。
「委員長。下まで一緒に行こう」
「う、うん」
真嶋くんと一緒に、昇降口と職員室がある別棟に向かって歩く。
「てか、その日誌ってもしかしてクラス委員の仕事?」
「え? あ、うん」
「まじか! なら明日からは俺もやるから代わりばんこでやろう」
「真嶋くん毎日部活頑張ってるし、気にしないで。わたしはどうせ暇だし」
これは本音だった。
真嶋くんは言えば絶対にやってくれる人だけど、別にこれ位なんて事ないからわたしが一人でやれば良いやくらいにしか思ってなかった。
「委員長、俺たち二人でクラス委員でしょ。今度からこういうのは言ってくれたら俺もちゃんとやるから」
「ね?」と、端正な顔でそう優しく問いかける真嶋くんに、わたしは頷くことしかできなかった。
どうして真嶋くんは、わたしをいつも気にかけては親切にしてくれるんだろう。
真嶋くんの後をついて歩くようにわたしは歩いた。
こんな時、わたしに掃除当番を替わって欲しいと言ってきたあの女子生徒のような可憐な女の子だったら、きっと堂々と彼の隣に並ぶことができるのだろう。
ふと階段の踊り場で足を止めた真嶋くんが、わたしを振り返る。
「委員長、見て」
少しかがみながら、わたしの目線に高さを合わせた真嶋くんが窓の外を指差した。
梅雨の時期は湿気が立ち込める雨の日が長く続くけど、時より気分屋のように晴れ間を見せる。
真嶋くんがわたしに教えてくれたのは、雲の切れ間から差し込める陽の光を反射した、東の空にかかる大きな虹だった。
不思議だ。さっきまで憂鬱だったはずの梅雨が今はそんなに憂鬱じゃない。
多分この景色は、今この瞬間のこの条件じゃないと見ることができないモノだと思うから。
それにこれは真嶋くんが見せてくれた、わたしだけの特別な景色だ。
真嶋くんにとっては、偶然わたしが居合わせたから教えてくれただけかもしれない。
だけどわたしは、その偶然に居合わせられたことがこの上なく嬉しかった。
すぐに消えてしまうからこそ、どことなく儚く感じて綺麗だと思うし、感動すらした。
でも多分、この景色は一人だったら気付きもしなかっただろうし、気付いたとしてもこれ程まで感動もしなかったかもしれない。
何を見るかでも、どこで見るかでも、多分ない。
感情を揺さぶるほどの景色をもっとも感動的に仕上げるのは——誰と見るか、だと思う。
そうして少しの間、穏やかな気持ちで少しずつ欠けてゆく虹を、二人して見入った。
「真嶋くん! やっと見つけたっ!」
階下から突然、真嶋くんを呼ぶ可愛らしい声が響いた。
振り返ると、そこには赤いジャージを着た女子生徒が立っていた。
「花澤?」
真嶋くんが驚いたように、彼女の名を呼んだ。
「もう! タオルを取りに行ったきり真嶋くんが中々戻らないから、先輩達に言われて探しに来たよ!」
「まじか、わざわざ悪いな。サンキュー、花澤」
頬を膨らませ、可愛らしく怒って見せる彼女は、校内一の美女ことサッカー部の女子マネージャー花澤美姫さん。
クラスの違う彼女のことをわたしでも知っているのは、彼女がこの学校で真嶋くんに並ぶ有名人だから。
去年の文化祭でミスコンに推薦で選ばれ、そのまま優勝してしまうほど可愛らしい顔立ちをしている花澤さん。
人気者の真嶋くんの隣に立っていても、絵になる彼女はわたしが憚られた真嶋くんの隣にあっさりと並ぶ。
そして真嶋くんの後ろに回り込むと、真嶋くんの背中に両手を当て、“しゅっぱ〜つ!”と無邪気に笑って見せる。
何故だかその光景に、胸が痛んだ。
「ごめん、委員長。先行くな! また明日!」
「う、うん。また明日ね、真嶋くん」
花澤さんから急かされながらも、口早にそう言い残した真嶋くんにわたしも胸の鈍痛には気づかないフリをして、何とか返事をする。
真嶋くんがわたしに背を向け、階段を降り始めると、何故かわたしの目の前で立ち止まった花澤さんは、ギロリと鋭い視線をわたしに突き立てた。
見かける度に、花が咲くような綺麗な笑みを浮かべる花澤さんからは、想像もできないくらい攻撃的なその視線に、わたしは目を見開くことしか出来なかった。
そして心底つまらなさそうな表情で、わたしの頭の先から足の先まで一瞥した彼女は鼻で笑った。
「っ、」
それは多分、品定めだったんだと思う。
心臓がすごい勢いで脈打ち、膝は笑い、いつの間にか握り締めていた手の中と、背中は汗でぐっしょりと濡れている。
容姿が並以下のわたしなど彼女からしたら野暮ったく映ったのかもしれないし、わたしの何かが単純に気に入らなかっただけかもしれない。
だけどその攻撃性を含む視線と態度は、わたしを萎縮させるには十分だった。
目線は気付けば自然と落ち、俯きがちになる。
「花澤? 行かねーの?」
階下から聞こえる真嶋くんの声で、視界の端に映り込んでいた花澤さんの上履きが踵を返すのが見えた。
パタパタと小走りで真嶋くんの後を追い、階段を降りていく花澤さんの声が少し遠くの方から聞こえて来る。
「ごめんね! お待たせ、ちょっと上靴脱げちゃって!」
普段の可愛らしい笑みを浮かべながら発しているであろう花澤さんの言葉を聞きながら、真嶋くんの前の花澤さんと、さっきまでわたしに攻撃的な態度をとっていた花澤さんが本当に同一人物なのか、にわかに信じ難かった。
わたしは一体、どうしてこれまで一度も話したことすらない彼女に嫌われしまったのだろう。
いや、そんなのは考えるまでもなく答えは一つだ。
多分花澤さんは、真嶋くんが好きなんだと思う。
そして、わたしみたいな真嶋くんには不釣り合いな女が彼の側にいたのが気に入らなかったんだ。
恋心が絡むと、女の子は時に信じられないほど残酷で非情になる。
あんなに容姿に恵まれた子でさえ、わたしみたいな女に対しても牙を剥くのだから、恋心とはなんて厄介なものなのだろう。
縫い付けられてしまったのかのように、その場から動けなくなっていたわたしは何とか気持ちを落ち着かせたくて、ふと空を見上げた。
真嶋くんが教えてくれた小さな幸運はもうそこには跡形もなく、さっきまで晴れ間が覗いていた空は、気付けばどんよりと重たく雲が重なり合っていた。
そんなものだよね、現実なんて。
そう思えば何だか何でもないことのように思えて来て、足の震えがおさまり、歩けるようになった。
それから何とか職員室にいる担任に日誌を渡して、昇降口を出た。
そのままぼんやりと帰宅し、食欲もあまり沸いていないのに無理やり詰め込むように食べた夕飯は何だか味がせず、何も手につかないまま時間だけが過ぎていく。
モヤモヤとした気持ちを抱え、些細な事で思い悩む自分に嫌気がさしながらベッドに転がった。
だけど結局、一睡もできないまま気付けば朝を迎えていた。
翌日そわそわしながら登校すると、朝練を終えた真嶋くんが先に席に着いており、爽やかな笑顔と共に声を掛けられる。
「おはよ、委員長」
「おはよう、真嶋くん」
真嶋くんに声を掛けられたことで、ようやく普段と変わらない日常が戻って来た気がしてホッとした。
だけど二限の休み時間、平穏だったはずのわたしの日常は突如終わりを告げた。
「真嶋ッ! 花澤さんが呼んでるぞ!」
教室後方のドアの真横の席に座る男子が、教室内に響き渡る声で真嶋くんを呼ぶ。
「了解! サンキュー、青山」
そう言いながら真嶋くんがドアに駆け寄ると、柔らかな笑みを浮かべた花澤さんと、何やらプリントの受け渡しをしながら談笑を始めた。
どきりと嫌な音を立て、例の胸の鈍痛がわたしを襲う。
「ねー、やっぱりあの二人って付き合ってんのかな?」
「それ思った! 悔しいけど美姫ちゃんならお似合いだよね」
「わかる! まさに美男美女カップルって感じ!」
わたしの右斜め前に座る南さんと、その南さんの席の前方にある空席になっていた席に座ってお喋りしていた岸本さんが、真嶋くんと花澤さんの方を見ながら何やら盛り上がっている。
偶然聞こえたクラスメイトのヒソヒソ話が耳に入ったことで、嫌な胸の鈍痛がますます酷くなる。
嫌だ。気付きたくなかった。
真嶋くんが特別な存在だってことは知っていたはずなのに、真嶋くんがまるで身近な人のように接してくれるからわたしは忘れていない様で、忘れていたんだと思う。
本来、真嶋くんとわたしとではこれが正常な距離感だったと言うことに。
教室の片隅で主人公達の背景と化す脇役のわたしと、教室の入り口で談笑するどちらも主人公格間違いなしのヒーローの真嶋くんとヒロインの花澤さん。
スタイルのいい華奢な体型に、緩く巻かれた栗毛のセミロング、そして目鼻立ちのはっきりとした愛らしい顔は、二重のぱっちりとした瞳と血色の良い頬、形のいい唇どれをとっても完璧なヒロイン顔の花澤さん。
それに対してわたしは、普通体型に真っ黒なストレートのセミロング、辛うじて二重幅はあるもののイマイチ残念な奥二重だし、頬も唇も血色が悪く、極め付けが顔の中心で主張の激しい団子鼻。
敵いっこない。まさに主役と脇役。
それが真嶋くんとわたしの本来あるべき姿なんだと、思い知った。
だってわたしには真嶋くんの隣に立った時、周りの人たちからも祝福されるような人望も、物語の主人公のような特別な存在として認められるような容姿も才能もないから。
それ以前に“負のジンクス”持ちのわたしは、真嶋くんの側にいない方がいいに決まっている。
だから決して名前をつけてはいけないこの感情の行き場を、わたしは自ら失わせることにした。
初めからそんなものは無かったことにするんだ。
誰も、何も傷つけないために、わたしはわたしの感情に無視を決め込むことにした。
こんなわたしにも親切にしてくれた真嶋くんを、わたしの持つ“負のジンクス”から守りたかったから。
この気持ちを口にしてしまえば、どんな悲劇が生まれるかわたし自身ですら予測がつかないのだから。
彼を守れるのならわたしの気持ちなんてどうだっていいと、思えた。
だから、さよなら。わたしの恋心——。