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午前2時の逃避行  作者: 君徒よる
第二章
10/13

第三節:午前二時の逃避行

 


 *

 *

 *



 わたしの話を最後まで静かに聴いていた真嶋くんは言った。



「委員長、話してくれてありがとう。でも、ごめん。やっぱり俺の気持ちは変わらないや」


「……。」


「多分、俺……委員長を困らせちゃうくらい何度も言っちゃうと思う」



 どうしようも無いくらい真っ直ぐで、誠実を絵に描いたような真嶋くんの言葉が、今のわたしには少し眩しすぎて、胸が張り裂けてしまいそうなるからしんどかった。



「……だめっ、やめて……お願いだから、それ以上はもう言わないで」



 もうわたしの心を覗き込まないで。認めてしまいそうになるから、本当は真嶋くんに自分が心惹かれていることを。



「やめない。俺はもう、……やらずにする後悔なんてしたくないから」



 ダメだと思った頃には、心は彼を求めてしまっていた。



「どうしようもないくらい俺、——真波のことが好き、なんだ」



 普段、“委員長”としか呼ばないくせに、どうして今に限ってわたしの名前を呼ぶの? そもそも、どうしてわたしなの? 真嶋くんなら引く手数多だろうし、きっとわたしなんかよりもっとお似合いな人がいるのに。



「もしかしたら明日、——いや今この瞬間を逃したら一秒先には死ぬかもしれない」


「————っ」


「だからこそ俺は伝えたいことは、伝えられるうちに伝えておきたいんだ」



 真嶋くんのその一言に、ハッとさせられたのはわたしがそうなる可能性があることを、身をもって知っているからだ。


 海外と比べると、日本は平和ボケしているとよく耳にする。


 実際のところ国内で諍いの絶えない国々や、紛争や内乱、戦争を続ける国からしたらそう見えても仕方ないのかもしれない。


 だって戦争や戦時中の人々のことなんて、教科書で見知った知識程度にしか知らないわたし達にとっては、あまりにもピンとこない話だから。


 実際に経験しているわけでもなければ、資料館で遺書や遺留品を眺め、戦争経験者の語り部さんの話に耳を傾けることくらいでしか、わたし達は戦争をしらない。


 だけどそんなわたしでも知っている事がある。


 そんな平和ボケしている頭や感覚に、まるで平手打ちをかますように突如日常生活を奪う有事は、一切の躊躇も、何の前触れもなく、突然起こってしまう事をわたしは知っている。


 だってわたしはあの日——音もなく崩れ落ちては、気づいた時には何気ない日常をすべて失う恐怖を、嫌というほど味わったのだから。


 あの日、無力なわたしが救えなかった幼馴染みの男の子。


 わたしを土砂から身を呈して守ってくれた心優しい男の子。


 ねえ、恭ちゃん。わたしを助けたこと後悔してない?


 あの夏、あんな豪雨さえこなければ、あの日、わたしが何かに足をとられて躓かなければ、あの日わたし達の通ったあの道で土砂災害が起こらなければ、何よりわたしが恭ちゃんを好きになんてならなければ、恭ちゃんは今頃生きていたかもしれない。


 恭ちゃんの命を奪ってしまったのは全部、全部——わたしのせいだ。



「人間なんて一秒先のことすら、……未来のことなんてわからないから」



 だからこそわたしは、真嶋くんに対して乾いた笑いが思わず漏れてしまったのかもしれない。



「———ま、………っない」


「え? 今、なんて言ったの?」



 わたしの声がうまく聞き取れなかったらしい真嶋くん。


 気付けば、両手で制服のスカートを握り締めていた。


 こんなに強く握ってしまったらスカートが皺くちゃになってしまうかもしれないけど、そんなこともどうでもよくなるくらいわたしは怒りを覚えていた。


 そして長身の真嶋くんを見上げる形で、涙を溜めた目で睨みつけた。



「真嶋くんには、何もわかるはずないっ! なにも知らないくせに!……軽々しく分かったような事言わないでよっ」



 だって日常が奪われる感覚を語っていいのは、それを経験した人だけだもん。


 震える拳と、噛み締めた唇の力を抜いて仕舞えば、真嶋くんに掴みかかっていたかもしれない。


 そして真嶋くんに「目の前で人の死に触れた事があるのか」とか、「それが大切な人だった経験はあるのか」と詰ってしまいそうになるのが怖かった。


 こんな衝動が自分の中にもあったなんて知りたくなかったと、顔をくしゃくしゃにしながら決壊してしまった涙腺は、何度拭っても涙が止まらなかった。


 だけど真嶋くんは、興奮して怒りの沸点を超えた事で泣き出してしまったわたしに、予想外の言葉を降らした。



「それ本気で言ってる?」


「————っ、」


「……もしそうならすげー残念」



 その声はあまりにも冷たくて、まるで突き放されている様な感覚だった。


 涙で視界が曇ってしまっているわたしには、真嶋くんの表情がまるで見えない。


 真嶋くんは、怒っているんだろうか。


 それとも、悲しんでいるんだろうか。


 声のトーンと表情が、いつもの真嶋くんからは考えられないほど冷め切っていることだけは、馬鹿なわたしでも流石にわかった。


 そしてわたしは一つの可能性に辿り着いた。


 “もしも真嶋くんに、わたしと似た様な経験があったとしたら?”


 だとしたらこの真嶋くんの反応も頷ける。


 わたしはまた忘れていない様で忘れていたらしい。


 そうだよ、みんな何かしら抱えて生きている。


 なに悲劇のヒロインぶってんの、わたし。


 わたしの事情に真嶋くんは関係ない。


 そうだよ、今のは完全にわたしが悪い。ちゃんと謝らなきゃ。


「……真嶋くん、ごめん」と、言いかけたわたしに、遮るように真嶋くんは言った。



「真波って他人を傷つけることに対しては極端すぎるほどに怖がるのに、——どうして、自分のことはそんなに簡単に傷付けちゃうんだよ」



 なにも言えなかったのは、真嶋くんが言っている事が全部当たっているから。



「今だって口では俺を責めながら、本当は自分のことを追い込んでる。頼むからもっと自分のことを大切にしてくれよ」



 昔からそうだ。わたしはいつだって誰かが傷付くくらいなら、自分が傷ついた方がマシだって思ってしまう。


 だって傷ついた“誰か”を見ている方が何倍も辛いから。


 自己満足で構わない。こんなものは自己犠牲の精神だとか、献身的な愛でもなんでもないって事くらい分かっているから。


 別にそれを美徳に思っているわけでもないし、わたしはそんな崇高な精神の持ち主って訳でもない。


 理由なんて簡単だ。わたしが臆病で、見たくないものから目を逸らしてしまう卑怯者だからだ。



「消えちゃう魔法から自分以外の“誰か”を守るために……黙って自ら孤立して。いつだって自分のことは後回しで」



 そんな卑怯者のことを真嶋くんはいつだって、ちゃんと見ててくれていたんだ。



「誰もやりたがらないことを押し付けられても、誰も見向きも——いや、気付きさえしなかった小さな命を一人で必死に守っても、一切見返りを求めない」



 その時になって、わたしはなんで真嶋くんが怒っていたのかが分かった。



「いつだって名前も知らない“誰か”を救い続けるために、ひっそりと自分だけ傷つきに行っちゃうような……今、俺の目の前にいる心優しい女の子のことは一体誰が守ってくれんの?」


「————っ、」


「その優しくて、純粋な真波の気持ちはどうなるの?……誰が真波の傷ついた心を包んでくれるって言うんだよっ」



 真嶋くんのこの静かな怒りは、わたしのことを思ってくれているからこその怒りなんだ。


 ちゃんと居たんだ、わたしにも。わたしのことを注意して見てくれていた人が。


 もはや涙が流れるのを止めることすらせずに、真嶋くんを見つめることしかできないわたしを見て、彼は悲痛そうな表情で小さく笑った。



「——いっぱい泣かせてごめん。言いすぎた」



 そして、淡いブルーの無地のハンカチをわたしの手に握らせた。



「違う。……わたしこそ、……ごめんっ、」


「もういいよ。分かってくれたなら」


「うん、ありがとうっ」



 すると、その時ふと真嶋くんが空を見上げて言った。



「ねえ、委員長しってる?」


「え?……知ってるってなにを?」



 その声はもういつもの真嶋くんらしい、優しさを含んだ声だった。


 わたしの呼び方もいつも通りに戻っている。



「今夜、北東の空に一等級の彗星が見えるって」


「……一等級の彗星?」


「うん。肉眼でも見えるほど明るい彗星なんだ」


「へぇ」


「——今夜、俺と彗星を見に行かない?」


「え?」



 *



 帰宅すると、ダイニングテーブルの上には父のミミズが這ったような字で書かれたメモと一万円札が置かれていた。


『これで好きなものを買いなさい。火元と、戸締りだけはしっかり頼むぞ』


 あれ?そう言えば今日って夜勤の日だっけ?


 という疑問は冷蔵庫に貼られているカレンダーを見たことで解決した。


『七月七日〜七月八日:夜勤』


 と、父の字でしっかりと書かれていたからだ。


 航空整備士の仕事をしている父は、週に二度ほど夜勤で家を空ける。


 結局わたしはあの後、夜間外出は父が許してくれるかわからないから、家を抜け出せないかもしれないと答えた。


 すると真嶋くんは、



「そっか。……じゃあ、もし気が変わったらおいでよ」



 と、念のためメッセージアプリのIDを交換した。


 見つめた液晶の画面には、ともだち数が十も満たないわたしのアカウントに見慣れないアカウントが追加されている。



『真嶋 啓』



 何度確認してもやっぱりそこには、真嶋くんの名前が表示されている。


 クラスのムードメーカーにして、サッカー部エースの真嶋くん。


 わたしにとっては何だか遠い存在のはずの彼の名前が、自分のともだち欄の中にいるのは不思議な感覚だった。


 なかなか実感が湧かずに、まるで現実味がない。


 父以外で初めて男子とID交換したわたしは、なんだかそれだけのことで恥ずかしさとむず痒さを覚えた。


 それに、これまで気にしたこともなかったけど、思いの外わたしと真嶋くんの家はご近所だったらしい。


 お互いの家から、ちょうど中間地点あたりに流れる川の横には、大きく開けた河川敷がある。


 どうやら真嶋くんは今夜、そこで天体観測をする気らしい。


 関東と言っても都心からやや離れたこの地域は、夜になると星がよく見える。


 それに今夜は普段そうそうお目にかかれないかもしれない彗星の観測だ。


 興味がないと言えば嘘になる。

 そして何より普段なら夜間に家を抜け出せなかったはずだけど、今日に限ってはその心配もなくなってしまった。


 だけど他人との距離を極力詰めないように、あの日から他人を避け続けたわたしが行ってもいいのか分からなかった。


 ふとカーテンを閉め忘れていた窓の外を見ると、さっきまでパラパラと降っていた雨が止んでいた。


 それどころか、……むしろ心なしか晴れてきてない?


 今にも星の声が聞こえてきそうなほど、夜空に小さな光の粒が散りばめ始めていた。


 そう言えば、今日ってたしか七夕だ。



「今年は織姫と彦星ちゃんと会えたかな」



 なんてことを考えるのは、イベントごとには何事も積極的だった母の影響があるのかもしれない。


 たしか織姫と彦星は、一年に一度だけ会うことを許されていて、晴れた年の七夕の日にしか会えないんだっけ?


 それだけ聞くとせっかく恋人同士なのに会えない時間が可哀想とか、遠距離恋愛は大変だとかで彼らのことを悲劇のように語られる事が多いけど、わたしはそうは思わない。


 だって、それでも数年に一度は必ず会えるじゃない。


 それって全然、悲劇じゃないと思う。


 だって大切な人がちゃんと生きているんだから。



「……わたしもう後悔なんてしたくない」



 誰もいない部屋の中で、ポツリと呟いた独り言は虚しく響いただけだけど、わたしの中での考えは固まった。


 会おうと思えば、“明日”が必ずやってきて、必ず会えることが確定している人なんていないから。


 “いつか会いたい”も“そのうち会おう”もみんなクソ食らえだ。


 だって、わたし達は一秒先の未来ですら知る術を持ち合わせていないんだから。


 まあ、これは真嶋くんの受け売りだけど。


 尚更、会いたいと思った時に会っておかないと、後悔するに決まっている。


 だったら今わたしがやるべき事は、多分一つだ。


 早速メッセージアプリを起動し、文章を作成して送信する。


 真嶋くんは、わたしのメッセージにすぐに返信をくれた。



『やっぱり今日、わたしも行きたいんだけど……いいかな?』


『もちろん! 22時ごろ迎えに行くね』



 さも当たり前のように家まで迎えにきてくれようとする真嶋くんに、嬉しさと同時に、申し訳なさを覚える。



『え! 悪いよ。現地集合で大丈夫だよ??』



 河川敷までは家から徒歩十分ほどの距離だ。


 元より迎えに来てもらうだなんて考えつきもしなかったわたしには、真嶋くんのその提案には気軽に乗る事は躊躇われた。



『だめ。なんかあってからじゃ遅いから』



 メッセージを送ると即既読がつき、返信が来る。


 という事は、多分真嶋くんもわたしと同じで、トークルームを開きっぱなしでメッセージのやり取りをしているのだろう。


 わたしはまた指で液晶をタップしながら文章を作って送る。



『でも真嶋くんのおうちって……橋の向こう側だから反対方向だよね??』


『それこそたいした距離でもないから大丈夫』


『でも、本当にいいの?』


『当たり前でしょ。てか、俺が誘ったんだし、それくらいさせてよ』


『え、まじ申し訳ない』



 真嶋くんはやっぱり優しい。



『いやいや、そんな時間に委員長を一人歩きさせることの方が問題だから』



 慣れない女の子扱いは、やっぱりどこか気恥ずかしくもありながら、内心喜ぶ自分がいた。



『そっか。何かわざわざごめんね。じゃあ、よろしくお願いします』


『ん、いい子。任されました』



 ドキリと胸が高鳴るのを聴きながら、わたしはそっとスマホの画面を暗くした。


 そのあとは簡単に夕食を済ませ、シャワーを浴びてやや緊張しながらも約束の時間が来るのをのんびりと待っているつもりだったんだけど……そこで思わぬ問題が発生した。



「え、ちょっと待って。……服って何着てけばいいの?」



 男の子と出掛けるのなんて恭ちゃん以外だと父しかいなかったわたしは、焦っていた。


 約束の時間まであと三十分。


 クローゼットから服を引っ張り出し、姿見の前で「あーでもない、こーでもない」と頭を悩ませた。


 ラフすぎても何か違うし、張り切りすぎても引かれそうで怖いし。


 いい塩梅ってのがわからない。


 てか世の中の女の子って、みんなこんな大変なことやってたの??


 え? わたしもしかして女子として終わってる?


 結局、約束の時間の十分前に「えーい、もうこれでいいや」と、半ば投げやりになりながら選んだコーデで支度をし、五分前に来た真嶋くんの「準備できたらおりてきてー」というメッセージを見て、ドキドキしながら家を出た。


 もちろん玄関前の姿見でもう一度、全身チェックしたのは言うまでもない。


 マンションのエントランスが近づくにつれ、緊張感が増していく。


 やばい。今日の格好……変じゃないかな?


 エントランスの自動ドアのガラスに反射して、今日の自分のコーデが映る。


 胸元にワンポイントの英字ロゴが入っているだけのオーバーサイズの白のゆるTに、黒地に花柄のプリーツスカート、足元はサンダルとスニーカーで迷った結果——ストラップ付きのスポーツサンダルを選んだ。


 バッグは女の子らしいデザインの茶色のレザーポシェットと迷った結果——コーデが甘くなり過ぎないようにメンズライクな黒のショルダーバッグを身体の前で斜めがけすることで落ち着いた。


 きっと大丈夫と、自分にGOサインを出す。


 自動ドアをくぐると、生暖かい空気が流れ込む。


 マンションの前の道を挟んだ反対側で、スマホをいじったまま静かにたたずんでいるだけなのに何故か様になる真嶋くん。


 服装はグレーのサマーニットに白のロンTが裾だけチラリと顔を出し、黒のスキニーパンツに白のレザースニーカーというコーデでシンプルにまとめられている。


 かっこいい人って何を着ても自然な感じで着こなしてしまうから、狡い。


 それになんか制服を着てない真嶋くんって、ちょっと大学生みたい。


 子供っぽい自分とは大違いな、大人っぽいコーデの真嶋くんを見てちょっと失敗したかもと内心がっかりする。


 でもあんまり待たせるわけにはいかないし、仕方なくおずおずと真嶋くんに声をかける。



「————お待たせ、真嶋くん」


「……あれっ」


「え?」



 一体、なにに反応したの!?


 わたしを視界に映した真嶋くんが、急に何かに気づいたと言わんばかりに声をあげるからわたしは内心、ひやひやしていた。



「そのバッグ、お揃いだ」


「…………っ!?」



 にこりと笑った真嶋くんに言われるまで、そんなこと気付きもしなかったけど、確かにわたしと真嶋くんが斜めがけしているショルダーバッグは、メーカーはもちろん色も形も一緒だった。


 やばい、また失敗したかも。こんな事なら茶色いレザーポシェットの方を持ってくるべきだった。わたしとお揃いとか真嶋くん嫌じゃないといいけど。



「このショルダー人気あるし、使いやすくていいよね」


「う、うん」



 よ、よかった。どうやら気分を害してはいなさそう。



「それに私服で会うのってなんか新鮮」


「……ソウダ、ネ」


「そのコーデ、委員長に似合っててすげー可愛い」


「————っ、」



 さらりと似合ってるとか可愛いとかって言う真嶋くんには、羞恥心とかないんだろうか。


 言われた側のわたしは、茹でタコみたいに真っ赤になっていると言うのに。


 どうしてくれるんだと恨みがましく、真嶋くんをみると爽やかな笑顔でかわされてしまった。


「行こっか」と真嶋くんに促され、わたし達は歩き出した。


 河川敷までの道中「黙ってたら、気まずくなっちゃう」と、不安に思っていたわたしの事などつゆ知らず、その後コミュ力おばけの真嶋くんは、持ち前のコミュ力を最大限発揮して何気ない世間話をしながらわたしを楽しませてくれた。


 河川敷に着く頃には、すっかりわたしの肩の力も抜けており、二人の間の空気感も絶妙に砕け始めていた。



「委員長、こっち」



 真嶋くんに案内されながら、高架下に続く階段を降りる。


 先に階段を降りていく真嶋くんがわたしを振り返しながら、言った。



「足元、気をつけて」



「うん」と答えたはいいものの、わたしはギャグかな?と思われても仕方ないそのタイミングで、ロング丈のプリーツスカートを踏んでしまい盛大に躓いた。



「————、わっ」



 とっさに「きゃっ」とか可愛い声が出せないわたしは、やっぱりどこまで行ってもヒロイン気質がないらしいと呑気なことを考えていた。


 次の瞬間には、世界がぐらりと、歪む。


 やばい、転ぶ。


 鈍いわたしでも流石にそれは分かって、思わずぎゅっと目を瞑った。


 だけど次の瞬間、想像とは違う衝撃が身体を包み、その途端、清潔感溢れる柔軟剤のいい香りが鼻腔をくすぐる。


 あれ? 痛くない。



「委員長、大丈夫?」


「え?」



 目の前には、大人っぽいと感じたあのグレーのサマーニットが広がっていた。


 って、わたし今もしかして——真嶋くんに抱きしめられてる??


 自覚した瞬間、恥ずかしさが込み上げてきて、とっさに距離を取ろうと捥がく。



「……ごめん、ありがとう。もう大丈夫だか、ら」



 だけど真嶋くんの腕は、力を抜くどころか一層増した気がする。



「ごめん、委員長。もう少しだけ……」



 “このままで居たい”と、切な気に声にならない声で真嶋くんが言うから、わたしは大人しく腕の中で収まるしかなかった。


 わたしに抵抗する意志がないことが分かったせいか、その腕はさらに力強くわたしを抱きしめた。


 その腕に包まれて初めて知ったのは、真嶋くんと自分の体格差。


 真嶋くんが着痩せするタイプだって事は、わかっていたつもりだった。


 だけどこんなに近くに感じたのは初めてのことで、わたしは知らなかった。


 広い背中、細いけど決してか細くはない引き締まった腕、練習で鍛え抜かれゴツゴツしているけど綺麗な脚線美を描く足、そして、わたしの顔を包むように触れてくる薄すぎず厚すぎない筋肉質な胸板。


 その全てが力強く、女の自分とは違うのだと主張している。


 しらない、こんなの。この先わたしはどうなっちゃうの??


 意識するなと言う方が、難しい。


 胸の鼓動はうるさい位にドクドクと音を立て鳴るから、真嶋くんにも聴かれてしまっているんじゃないかって余計に恥ずかしくなる。


 わたしを抱きしめたままの真嶋くんが何も言わないから、わたしは少し強すぎるその腕の力と、サマーニットに吸い込まれるように包まれていた顔を何とか上向きに滑らせる。



「……真嶋くん。ちょっと、苦しい、」


「っ……ごめん、委員長」



 わたしの言葉で緩んだ真嶋くんの右腕がわたしの身体から離れ、指先がわたしの頬に触れた。


 冷たい指先は、火照って頬にはちょうど良かった。


 真嶋くんの親指が、頬の感触をまるで確かめるかのように撫でる。


 何故かその指先を気持ちいいと感じるわたしは、目を細めながら体をよじった。


 わたしはとうとう夏の暑さにでも、やられてしまったのかもしれない。


 すると、何故か真嶋くんの顔が目の前まで迫ってきて、視界が真嶋くんでいっぱいになる。


 何が起きているのか分からなかったわたしは、目を見開いたまま流れに身を任せることしかできなかった。


 まるでスローモーションで真嶋くんが至近距離に迫ってきて、お互いの瞳と瞳が引き付けあい、吸い込まれるみたいな感覚だった。


 小首をかしげる様に、真嶋くんの伏せ目がちな視線がわたしの唇をとらえた。


「ましま、くん?」と言いかけたわたしの口を塞ぐ様に、真嶋くんの柔らかな唇がふれた。


 それはほんの一瞬で、触れるか触れないかくらいの優しいキスだった。



「え?」



 なに今の? 驚きすぎてさらに目を見開いて見せるわたしにハッとした様な表情で、身体を人一人分ほどのスペースを開けて離れた真嶋くん。


 気まずそうに右手で口元を覆う様に隠すと、顔をわたしから背けた。



「うわー。俺、今……すげーダサい」



 独り言の様にそう呟いた真嶋くんは、珍しく顔を赤らめていた。


 色白の真嶋くんは、赤くなるととても分かり易い。


 普段見慣れない真嶋くんのそんな姿に、わたしは思わず笑いが漏れた。



「ぷっ……あははっ………真嶋くんめっちゃ顔真っ赤っか!」



 さっきまで理解が追いつかなくて、キスされたことが衝撃的だったのに、わたしは真嶋くんの見慣れない照れた姿がおかしくて、この場の空気には不釣り合いな笑い声を響かせた。


 なんだ、真嶋くんもわたしと同じなんだ。


 大人びて見えていた真嶋くんだって、ちゃんとわたしと同い年の男の子なんだって分かって、わたしは変に緊張していた自分がバカらしく思えてきた。



「…………あははっ」


「ククッ……ほんと余裕なさすぎだろ、俺」



 そう言って、真嶋くんもつられて笑った。


 そして真嶋くんが差し出してきた手の上に自分の手を、重ねた。



「足元、気をつけて」



 まるで最初から仕切り直すみたいに、そう言う真嶋くんがわたしはおかしくてたまらなかった。


 真嶋くんに手を引かれ、階段を降りおえたわたし達は、星たちの声がいまにも聞こえてきそうなほど無数に煌めく満点の星空を眺めた。



「わぁ……綺麗」



 ふと視線を真嶋くんに向けると、真嶋くんもまたわたしを見つめていた。


 だけど不思議と緊張はしない。


 なぜだろう。


 それに何か私たちの間に流れる空気も変わった気がする。


 それはもしかして、わたしの真嶋くんに対する見方が変わったせい?



「んじゃ、はじめようか」


「え?」


「天体観測」



 *



 わたし達は河川敷にあるサッカー場に設置してあった白いプラスチックのベンチに腰掛けて、夜空を見上げていた。


 そう言えばわたし彗星はもちろん、いつもそこにあると知っていながら空に浮かぶ星の名前すら全然しらないや。


 わたしが知っていて、見ただけでそれがどの星座なのかを識別できるのは、せいぜい夏の夜空に高く輝くベガ、アルタイル、デネブが織りなす——夏の大三角形くらいのものだ。


 それ以外は多分、名前を聞けば知っているものもあるかもしれないけど、それがどこに位置している星なのかさえも分からない。


 わたしって自分で思っていたよりも、はるかにちっぽけな世界の中で生きていたんだなってこう言う時に実感する。


 わたしが感傷に浸っていると、



「委員長って誕生日いつ?」


「…………えっと、」



 真嶋くんの唐突すぎるその質問にわたしは答えられずにいた。


 だってその質問をまさか今日に限ってされるとは思っていなかったから。


 わたしはとっさに自分の話題から話を逸らそうと考えた。



「————夏生まれだよ。真嶋くんは冬生まれっぽいよね」


「冬生まれっぽいって何故かよく言われるけど、本当は五月生まれ。……ククッ、それで委員長、夏生まれって流石にアバウトすぎない?」



 陳腐なわたしの回答に真嶋くんは笑いながらも、「いつなの?」と、はぐらかされてはくれないらしい。


 誕生日なんて大して引っ張る話でもないのに、中々答えようとしないのは流石に違和感あるよね。



「えっと、七月生まれ……」


「え! 七月って……ちなみに何日?」


「————っ、」



 なかなか口を開かないわたしを不審に思ったのか、何かを察した真嶋くんは探る様な口調でわたしに尋ねた。



「もしかして今日??」



 もはや言い逃れなんてできないその問いにわたしは大人しく観念した。



「…………う、ん」


「まじか!」


「ごめん、まさか今日聞かれるとは思ってなくて……言い出しづらくて」


「いや、俺こそごめん。誕生日当日に聞かれたらそりゃ、気まずいよな」


「真嶋くんは悪くないよ。実の父親だって夜勤だからって、娘の誕生日なのにお金だけ置いて放置だもん。まあ、そのおかげで今日こうしてここに来れたんだけどね」



 自分の誕生日を無駄に特別視して期待するほど、わたしはもう子供ではない。


 中学生の頃は漠然と“大人”ってやつに憧れを抱いて、早く大人になりたいとすら思っていた。


 だって大人になれば自分が望む“自由”を手に入れられると、信じて疑ってなかったから。


 自分でお金を稼いで、好きなもの買って、行きたいところに行って、会いたい人に会う。


 それが大人だと思っていた。


 だけど違った。


 勝手に憧れて、勝手に羨ましがっていた大人って実は全然かっこいいもんじゃないって知ってしまったから。


 関東に来て初めて乗った、都会の通勤ラッシュ時の電車。


 疲れ切った顔のサラリーマンやOLが、車内にぎゅうぎゅう詰めにされて職場に向かう姿には、わたしが思い描いていた“自由”なんてこれっぽっちも存在しなかった。


 何の為にそんな辛そうな顔で、働くの?


 何の為に満員電車に揺られて毎朝、まるで戦場に赴く様な顔で出社するの?


 そこに生きがいや、夢——何より昔の自分が望んだ自分の姿はそこにあるの?


 思わず誰かにそう質問してしまいそうになった。


 答えは聞いたところでどうせ否じゃないの?


 だけど大人は言う。


 そうなる未来がわかっていながら、「勉強しなさい」と。


 駄々をこねれば「大人になりなさい」と言われるし、少し背伸びをしてみれば「子供は子供らしくしなさい」と押さえ付けられる。


 じゃあ、大人の言う正しい“大人”の在り方って一体なに?


 その答えを多分わたしは一生理解できないし、理解したいとも思えない。


 無責任すぎるほど簡単に周りの大人から「将来について考えろ」と言われる歳になった今、わたしは大人になんてなりたくないと強く思う。


 だからわたしは毎年やってくる自分の誕生日が、刻一刻と近づいてきている“大人”へのカウントダウンのように感じられてしまい正直、嫌いだ。


 なんて真嶋くんには言えるはずもなく、



「だから気にしないで。こんなのなんてことないから」



 と、無難に笑ってごまかす。


 だけど真嶋くんにはわたしの嘘もごまかしも、一切通用しないらしい。



「委員長、俺の前では無理して笑わなくていいよ」



 困った様な顔でわたしを見つめる真嶋くんは、いっそう眉尻を落とす。


 切なげなその表情に堪え兼ねて、つい謝罪を口にしてしまう。



「ご、ごめん」



 真嶋くんの言葉はいつだって正論だし、正しいかもしれない。


 だけど時よりいつだって正しく、真っ直ぐすぎる真嶋くんの言葉に、わたしは逃げ場を失う。


 真嶋くんのその歪みのない正しさは、ある意味では救いの手であり、ある意味では鋭く貫く剣の様。


 ううん、言葉だけじゃない。


 真嶋くん自体が誰からも愛されて、受け入れられることが当たり前って顔をしてて、それが当たり前ではないわたしにとって真嶋くんはあまりにも眩しすぎる。


 わたしと真嶋くんは、まるで正反対の影と日向みたいだ。


 まさに相容れない存在。——そのはずだったのに、どうしてわたしは真嶋くんともっと親密になりたいだなんて考えてしまうんだろう。


 その時、真嶋くんが綺麗なアーモンド型の瞳を輝かせながら言った。



「委員長、見て」



 真嶋くんの指さした方角に視線を走らせると、そこには天の川にクロスするように夜空に線を引く彗星の姿が映る。


 核となる先端は青白く、尻尾のような扇状部分は赤とも、青とも、紫とも言い難い光を放つ彗星にわたしはすっかり目を奪われた。


 かるく放心状態になりながら、時より息をすることも忘れてしまいそうになる。


 しばらくその彗星をただただ黙って見つめることしか出来ずにいた。


 瞬きをすることさえも躊躇われるほど、今この瞬間に自分の視界に映るもの全てを少しでも見逃してしまうのは惜しかった。


 それくらい目の前で起きている自然が創り出した彗星という物体に、わたしの耳は、目は、心は、釘付けになった。


 世界から音は消え、目はただ一点に吸い込まれる様にひきつけられ、心を撃ち抜かれた様な強烈なまでに鮮明な感情を呼び起こす。


「儚くも、美しい」と、いう感想を何かに対して抱いたのは初めての経験だった。



「……あれっ……やだ、……なにこれ」



 気付けば目から溢れる様に、雫が頬を伝う。



「うそ……なん、で」



 自分でも何で自分が泣いているのかさえ分からなくて、軽くパニックになる。


 その時、青みがかったハンカチを隣から差し出された。


 自分でもハンカチは持っていたけど、とっさにわたしはそのハンカチを受け取っていた。


 今日は真嶋くんからハンカチを差し出されてばかりだ。



「ごめん。ありがとう、真嶋くん」


「どういたしまして」


「わたしったら、変だよね」



 手の中のハンカチに視線を落としながら「恥ずかしいやつでごめん」と謝ると、真嶋くんは不思議そうな顔で言った。



「どうして?」


「え? 急に泣き出したりするから?」


「それって委員長の心が素直で、感受性が豊かな証拠でしょ?」


「っ、」



 そんな切り返しが来るなんて予想だにしていなかったわたしは、思わず怯む。



「それのナニに恥じる必要があるの?」



 本気で理解できないと言わんばかりに、真嶋くんの表情は真剣そのものだった。



「そっか。……そうだよね」



 わたし別に恥じなくてもいいんだ。


 そう思わせるだけの説得力が、真嶋くんにはあった。


 わたしの返事を聞くと、満足そうに笑った真嶋くんはさらに予想外の言葉を降らす。



「ねえ、委員長」


「ん?」


「夏休みに俺と旅行に行かない?」


「え??」


「宮城に親戚がいるんだけど、毎年夏になると呼んでくれるんだ」


「う、うん?」


「それで、今年の夏は委員長と一緒に行きたいなって思って」



 思ってもいないお誘いに、一瞬喜びはしたもののすぐに現実に引き戻される。



「真嶋くん、誘ってくれてありがとう」



 わざわざ声をかけてくれたことに対してお礼を述べながらも、申し訳なさから自然と眉と目尻が下がる。



「行ってみたいのは山々なんだけど……」


「もしかして都合が悪い?」


「ううん。と言うより……お父さんが許してくれないと思う」



 父不在というイレギュラーが起こった今回と違って、高校生だけでの旅行と言う時点でそもそも反対されるに決まっているし、しかも一緒に旅行する相手が男の子だなんて父が知ったら猛反対するに決まっている。


「でも、一応お父さんに聞いてみるね」とだけ返答して、その日は解散する流れとなった。


 当たり前の様に帰りも送ってくれるらしい真嶋くんと、来た道を戻りながら歩いていると、「ワンッ」と吠えた柴犬が真嶋くんに向かって飛び込んできた。



「こらっ、マルクル! やめなさいっ」



 すぐに犬の飼い主さんらしき女性の声が後を追ってくる。



「あれ? なんだ啓くんか〜。よかった。……知らない人じゃなくて〜」



 等間隔で設置されている外灯の光を顔に受け、暗がりから急に飛び出してきたその姿がようやくはっきりと目視できる様になると、その女性が以前一度だけ話したことのある人物であったことに初めて気が付いた。



「本当にな? てか、それ俺に対して失礼すぎだろ。澪」


「あはははっ、ばれた?」


「当たり前。まあ、まるは利口だから誰彼かまわず飛びついたりしないよな?」


「ワン!」



 完全に置いてけぼり感満載のこの状況は一体?


 彼女——蓮水さんの飼っている柴犬が真嶋くんにとてもよく懐いていることから察するに、この二人が普段からよく顔を合わせていることが窺える。


 すると、そこで突然わたしを視界に映した彼女は、驚いた様な表情を浮かべた。



「あ、あの〜……以前わたしを助けて下さった真波さんですよね?」


「え……あ、はい」


「ああ、やっぱり! あの時は、本当にありがとうございました。ずっとお礼を言いそびれてて、ごめんなさいっ」


「い、いえ。大したことはしていないので」



 深くわたしに頭を下げてお礼を言う彼女がふたたび顔を上げた時、わたしは初めてまじまじと彼女の顔を見た気がする。



「あ! わたし……一応、真波さんと同じクラスの蓮水澪って言います」


「あ、知ってます。前に真嶋くんから聞いたので」


「え? そうなの? 啓くん?」


「うん、言った」



 となりで彼らの賑やかな会話を聴きながら、わたしは三ヶ月ほど前に彼女と交わしたやりとりを思い出そうとした。


 だけどもうあの日のことは、わたしの中では真嶋くんに話した時点ですでに完結しており、ぼんやりとした記憶でしか残っていなかった。


 唯一思い出せるのは、昇降口で蹲っていた彼女を助けた時、彼女を支えるために自分の腕を腰に回した瞬間、その腰があまりにもか細すぎるという印象を抱いたことだけだった。


 だけど改めて凝視した彼女は、半袖のTシャツにハーフパンツというラフな格好にも関わらず、スタイルのいい綺麗な痩せ型で、ハーフパンツから伸びる脚は細いだけじゃなく、意外にも筋肉が程よくついている。


 つまりあの時と比べると、健康的な痩せ型へとシフトチェンジしていることになる。


 サラサラの胸元まで伸びたストレートの黒髪は風になびき、色白で鼻筋の通った顔立ちに、嫌味のない微笑みを浮かべる——いわゆる美人な彼女はなぜか真嶋くんを彷彿させた。


 だけど同じ美人でも花澤さんと違うのは、どこか儚げで幸薄さを感じるところ。


 今にも目を離したら、消えてしまいそうなそんな危うさが彼女にはあった。


 似てないはずなのに、彼女と真嶋くんがどことなく似てる気がするのは何故だろう。


 まるで絵に描いたようなモデル体型で独特な雰囲気を持つ彼女に、わたしは胸がざわついた。


 だって真嶋くんを見る彼女の目は、恋する乙女そのものだったから。


 しかも花澤さんと違い、ぱっとしないわたしに対しても礼儀正しく優しい彼女に、わたしは人しても、同じ女性としてもまるで勝てる気がしなかった。


 お互いを「啓くん」と「澪」と呼び合う蓮水さんと真嶋くんは、幼馴染みなだけあって、やけに親しげだ。


 なんでも彼らはお互いの時間が合う時は、今日みたいにこの場所に犬の散歩ついでに星を見に訪れるらしい。


 なんだ、わたしだけが特別なわけではなかったんだ。


 と、何故か落胆している自分がいた。


 楽しげな二人を見て、わたしは心にポッカリと穴があいたような気持ちになった。



「それじゃあ、俺。委員長を家まで送ってくるから」


「うん! じゃあ、わたし達も行こっか! マルクルっ」


「ワン!」


「まる、澪のこと頼むなっ」



 と、マルクルの顔を包み込む様によしよしと撫でる真嶋くんに応えるように、「ワンッ」とマルクルは吠えてみせた。



「啓くんに頼まれなくたって、マルクルがいれば大丈夫ですよーだ」



 そんな軽口をお互いに交えながらも「啓くん、真波さん! またね!」と、笑ってマルクルと共に走り去って行った蓮水さん。


 真嶋くんはわたしを家まで送ってくれる間も、テンポよく話題を振ってくれて、わたしもそれに自分なりに応えていたはずだけど……


「またね」と真嶋くんと別れ、自宅に戻りそのままリビングのソファーに体を投げ出すと、さっきまで真嶋くんと何を話してたのかさえも思い出せないほどぼーっとしていた。


 わたしは重い身体を引きずる様に再びシャワーを浴びて、ナニも考えたくないと言わんばかりにベッドに深く沈み込んだ。


 今日は色々あってとにかく疲れた。


 もう何も考えたくないし、何も悩みたくない。


 こう言う時は、寝るに限る。夢の中の世界は、わたしを傷つけたりは決してしないから。


 プツリと電池が切れた様にそこで意識を手放せば、そのまま深い眠りにいざなわれた。



 *



 どれくらい眠っていたのかはわからないけど、ふと真夜中に意識がふたたび浮上した。


 何気なく液晶を光らせ覗き込んだスマホは、一件のメッセージを受信していた。



「————っ」



 それは七月七日の、日付が変わる一分前に真嶋くんから来ていた、たった一言の短い文。



『お誕生日おめでとう』



 眠気も吹っ飛ぶお祝いメッセージにわたしが気づいたのは、日付を跨いだ翌日の七月八日、午前二時のことだった——。



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