困惑する公爵令嬢
ロバート様の額は、頭頂部から左目に向かって走る一本の深い切り傷によってぱっくりと割れていた。傷口はぐちゃりと抉れ、あたかもトマトが潰れたようにも見える。頭皮がめくれ、そこから濁った液が溢れてぐじゅぐじゅと血に混じる。
翠の瞳からは血か涙のように流れて、ぼたぼたと顎を伝って落ちていく。
「ろ……ロバート様……」
「なんだい?」
何度瞬きしても、ロバート様は血塗れのまま。しかし、当の本人は何も感じていないようでにこやかである。それがまたなんとも言えず不気味だ。
「……よろしければこちらのケーキも召し上がってくださいませ」
「ありがとう。頂くよ」
真っ白に染まった頭のまま、私はなんとか言葉を絞り出す。ロバート様は少しだけ不思議そうにしながらも、そばにいた侍従にケーキを取り分けるようにと指示を出す。
私の心臓はいまや、張り裂けそうなほどに強く鼓動していた。冷や汗が背中を伝い、体が強張る。けれどなんとか貼り付けた笑顔でこの場を乗り切ろうと頑張ってみる。
二回目にして、私はついにこの光景が私の見間違いでも妄想でもないことを認めた。そして、これが見えているのが、私だけだと言うことにも。
今すぐにでも叫んで逃げ出してしまいたい自分を必死に抑える。堪えなければ。寒気と吐き気がしてきたけれど、唾を飲み込んでぐっと我慢する。
この光景が見えているのは私だけだ。
もしここで悲鳴を上げて逃げようものなら、気狂い扱いは免れないだろう。
「マリー、どうかしたの?」
ロバート様から視線をそらさず微動だにしない私に、お義母様が困惑したように話しかけてくる。
私は微かに息を吸った。丹田に力を込めて、ぎこちないものの笑みを浮かべた。
「恥ずかしながら……少々食べ過ぎてしまいました」
「まぁ、いやだ……この子ったら……」
後でお義母様に叱られてしまうだろうけど、今はどうでもいい。私から漂う不自然さをなんとか誤魔化さないと。捻り出した言い訳は滑稽だったけれど、それなりに効いたらしい。
「マリーは本当にお菓子が好きだね」
仕方ないなぁと微笑むロバート様。額から血が吹き出す。私は顔を引きつらせないように細心の注意を払いながら、うふふと淑女らしく困った風に笑ってみせる。
しかし、恐怖に混乱する一方で、私の中に疑問が浮かびつつあった。
なぜ私にだけ、このような光景が見えているのだろうか。
これは魔法? 確かにこの世界には魔法が存在する。誰か魔法使いが、私におかしな光景が見えるような魔法でもかけたのかしら。
私はごくんと生唾を飲む。そして思い切ってロバート様に尋ねてみる。
「ロバート様……最近、身近で何かありまして?」
私からの突然の質問に、ロバート様はきょとんとする。ロバート様の背後に控える侍従も、何の話だろうかと瞳を瞬いた。
うう……失敗したかも……。前フリ抜きで「何かありましたか?」なんて、何のこっちゃって話だよね。
私だけに見える血塗れになったロバート様のお姿。
乙女ゲームにはこんな展開一度もなかった。テンプレ健全王道乙女ゲームで、攻略対象がグロテスクな血塗れ姿を晒してたら大問題だ。
けれど、今の私にはその姿が見えている。
混乱する自分と、冷静な自分がせめぎ合う。
もしかしたら、この姿はなんらかの魔法によるものかもしれない。例えば、幻覚術がかかっているとか。
魔法をかけられたような覚えはないけれど、誰か悪意のある第三者が、私への嫌がらせで目の前の人が血塗れに見えるような魔法でもかけたのかも。
しかし、そうだとすれば、なぜ血塗れになるのがロバート様だけなのか……。
もう一つの疑惑は、これがロバート様による悪戯という説。実は私との婚約を嫌がっているロバート様が、私を怖がらせて婚約破棄させようとしているとか。
わりかし説得力のある説だったが、しかし目の前のロバート様からは悪意を感じない。隠している可能性も十分に考えられるけれど、友好的に接しようとしているロバート様のお気持ちが嘘にも思えなかった。
……残るは、ロバート様にかけられた魔法だ。
公爵家との婚約を邪魔しようとする誰かが、婚約者である私にだけ見える幻覚魔法をかけた、というのはどうだろう。
「その……例えばですが、最近、知り合った人とかいますか……?」
「知り合った人……」
生真面目なロバート様は、顎に手を当てて真剣に記憶を探ってくださる。視線を右上に向けて記憶を辿るお姿は真摯だけれど、首を傾げた瞬間に、血でべったりと汚れた髪の間から、どぷどぷと膿のようなものが顔に垂れてきた。私は悲鳴を噛み殺す。
「いや……特に新しい出会いはなかったな……」
「そうですか……」
「どうしてそんな質問を?」
「ええっと……その……お、お城には色んな人が出入りするって聞いて……」
「ああ、なるほど。つまりマリー嬢は、珍しい人との出会いはなかったのかと聞きたかったのかな?」
愛想よく微笑むロバート様。気のいい彼は、私からの曖昧な質問を実に好意的に受け取ってくれた。
「は、はい! その……例えば魔法使いとか……」
「魔法使い……宮廷魔術師のことかい? そうだね、確かに彼ら彼女らは貴重な人材だ。魔術を扱う技能に長けた人は、そう多くないもの」
この世界には魔法がある。しかし、大抵の人が魔法でできることは、せいぜいが蛍の光程度の明かりをつけたり、コップ一杯程度の水が出せたり、マッチ一本分の火をつけられる程度のこと。
例外は、魔術師としての才能があるものだけ。そういう人々は、古から伝わる魔術を扱い、滝のような水をだすことも、炎の竜を生み出すことも、そして幻覚によって人の目をくらますことも可能らしい。
「残念ながら、宮廷魔術師にはそうそう会えないんだ。僕もいつかは間近で魔法を使っているのを見たいのだけれど、魔術師には制約も多い。普段は、王宮の東にある研究棟から出てこないよ」
「じゃ、じゃあ……例えばなんですけど、ロバート様に魔法をかけたりとか……できないんですか……?」
「僕に魔法を……?」
私の質問に、ロバート様はくすくすと笑う。
「もし魔法使いに魔法をかけられたら大変だね。まるで御伽噺の王子様みたいだ」
ロバート様は、私のことを夢見がちだとでも思ったのかもしれない。柔らかく言葉を続けた。
「でも安心して。もし悪い魔術師が紛れ込んだとしても、魔法で悪いことができないように、宮廷魔術師は王家に無断で魔法を使うことができないよう制約魔術を結ばなければならないんだ」
「そうなんですか……」
「それに外部からの魔術師の侵入は、優秀な宮廷魔術師によって結界が張られ、不可能だ。だから悪い魔法使いに魔法をかけられる、なんてことは起きないよ」
にこやかに言い切ったロバート様。私の推理は振り出しに戻る。
では、私に見えているこの光景は一体なんなのだ……。
前回と今回。違うことが一つ。前回はすぐに普段通りの姿に戻ったはずのロバート様が、今回は長らくグロテスクな姿であること。たんなる勘でしかなかったが、何となく以前よりも状況が悪化している気がした。
「そうだ。もしお城に興味があるなら、次はお城でお茶会しようよ」
「わ、わぁ……嬉しいですぅ」
相変わらず血をどくどくと流しながら、ロバート様が次回の提案をなさるのを、私は遠い目になりながら聞いていた。