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白昼夢を見た公爵令嬢

 王太子から滴る血は、ぽたりぽたりとテーブルに落ちて、真っ白なテーブルクロスに染みを作っていく。


 私は凍りついたまま動けない。


 王太子が血塗れだというのに、周囲は不自然なまでにいつも通りだった。それが余計にこの状況におかしさを与えている。

 そして、頭から血を垂れ流す殿下さえも、痛みを感じていないのか平気そうだ。むしろ、返事をしない私をきょとんとした顔で見つめている。


 殿下から滴り落ちる血……。それはどうやら、頭頂部から吹き出ているようだった。とめどない泉のように、血がどくどくと流れ、殿下のまろい頰を伝って、首筋まで垂れ、白いシャツを赤く染めていく。

 漂う鉄錆の臭い。毒々しいまでの赤色は、たらりたらりと落ちていく。


「あ……あの……」

「マリー……?」


 お義母様が、眉をしかめて私を見下ろす。しかし、私は反応もできず、ただ殿下を見つめていた。

 言葉がつまる。舌がもつれたように動かない。悲鳴すらあげられないほど、私は恐ろしさに固まっていた。


 前世で見たホラー映画では、恐ろしい目にあった主人公たちはその瞬間に絶叫していた。そしてその絶叫がホラー映画の一種のお楽しみシーンでもあったわけだけど。


 けれど、現実に恐ろしいことが起こると、人はむしろ声が出なくなるらしい。蛇に睨まれた蛙のように、私は殿下から瞳をそらすことなく目を見開いたまま、硬直してしまった。


「……ヴォルフラム嬢……どうかしましたか?」


 困ったような殿下の笑顔。迸る血との対比がよけい奇妙で、私の心臓はばくばくと鳴った。耳の奥で轟々と音がする。世界がぐらぐらと足元から揺れて、自分がどこにいるのかわからなくなるような。


「マリー! 失礼でしょう! ちゃんとお返事なさい!」


 私はハッとなった。

 お義母様が、厳しい顔で私の顔を見つめている。その顔を見かえしていると、霞が晴れていくように、だんだんと現実に立ち返ってきた。私は夢から覚めたように、ぼんやりと瞬きした。

 すると、不思議なことに、世界がぐんと広がったように周りの状況が見えてきた。

 部屋中の視線が私に集まっている。部屋に控える使用人たちが不安げな表情でこちらを見ていた。


 改めて殿下の顔を見る。すると、不思議なことに、さっきまでの光景は白昼夢だったとでもいうように、いたって普通の……どこにも血なんかついていない殿下の顔がそこにはあった。

 血溜まりができていたはずのテーブルクロスも、どこにも染みなんて見当たらず、真っ白に輝いている。

 私は呆然となった。


「あの……私……」


 何か言わなければ。そう思うのに、頭が真っ白になってうまく話せない。もごもごと口ごもる。すると、見かねたのか隣にいたお義母様が、


「申し訳ありません、殿下。娘ときたら、緊張してしまって……」


 と代わって謝罪の言葉を述べた。

 動揺する私に、気にしないよと伝えるかのように殿下は微笑んだ。


「気にしないでくれ。久しぶりに顔を合わせたのだもの。よかったら、もっと気さくに話してほしいくらいだけど、無理はしないでいいよ。ヴォルフラム嬢は病み上がりなのだし」


 と、殿下は完全無欠の王子様スマイルを浮かべた。私は思わずまじまじとその顔を見つめてしまった。


 明らかに無礼な振る舞いをしてしまった私を、フォローするような態度。穏やかな笑みは、少しばかり気まずそうではあるが、心からのものに見える。

 親切で穏やかな少年。そこには、乙女ゲームでの俺様っぷりが、片鱗も見られない。


「本当に申し訳ありません、殿下……」


 平身低頭とばかりに謝罪するお義母様に、殿下はむしろ困ったように微笑むばかり。

 私は二人のやりとりを、いまだ混乱の中で見つめている。


 いまさっきの光景は何だったの?

 さっきよりも心臓の鼓動は落ち着いたものの、それでも百メートル走を全力で走った後みたいに、私の心臓は強く鼓動していた。

 気が抜けたようにぼんやりと座る私を、お義母様がぎろりと睨む。


「マリー、ちゃんと謝罪なさい」


 私はのろのろと殿下を見て、それからがくがくと鈍い動きで頭を下げる。


「も、申しわけありません、殿下……」

「いいよ、気にしないで! ヴォルフラム嬢は照れ屋さんなんだね」


 殿下は茶目っ気を出したようにくすっと笑った。

 ……いや、どう考えてもさっきまでの私は、照れて無言になってたようには見えなかったと思う。むしろ、恐怖で固まっていたのだ。引きつった表情を婚約者から向けられて、殿下も驚いただろうに。


 不思議なことはもう一つあった。

 何故だろうか。恐怖から解放されたいま、私は自分でも驚くほどに冷静に思考していた。

 もちろん恐怖はある。けれど、そう感じる自分とは別に、()()()()()()()()()()()()()()()()、私はひどく冷静なのだった。


 気を取り直すように、控えていた侍従に手近にあったベリーのソースがかかったケーキの毒味を任せる殿下を見ながら、私は乾いた喉を潤そうと手元にあったティーカップへと手を伸ばす。

 お砂糖とミルクを注いで、私は紅茶を一口飲んだ。温かな紅茶を飲むと、じんわりと体全体が温まってくる。

 隣にいたお義母様も、いぶかしげではあったけれど、場を取り繕うように殿下に紅茶を勧めた。


「うん。美味しいね。ヴォルフラム嬢は甘いものが好きかい?」


 侍従が毒味をすませると、殿下はケーキを受け取ってぱくりと頬張る。その姿はさっきまでの大人びた姿とは対照的に年相応に見えた。


「はい……殿下」


 気まずさから言葉少なくなる私のことを気にした様子もなく、殿下は「ヴォルフラム嬢は、どのケーキがおすすめ?」と尋ねてきた。私は、特に気に入っている、蜜でたっぷりとコーティングされたケーキを示す。


「このケーキが一番好きです……私、甘いものが好きなんです……」

「もしかして、これが一番甘いのかい?」

「はい」


 頷いた私に、殿下は「それじゃあ次はこれを食べようかな」と快活に笑った。私の頬がほんのりと熱くなる。美少年に微笑まれて、さっきとは違った意味で胸がドキッとした。


 それからは比較的、穏やかな時間が流れた。

 どうやら殿下は、私をたいそう内気な女の子だと思ったらしい。率先して話題を出し、時には質問の形で私が話せるようにと気遣ってくれた。まさに、小さな紳士である。

 そうしてお茶会の時間は過ぎていった。




「それじゃあね、ヴォルフラム嬢。また遊びに来るよ。良かったら君も、城に遊びに来てくれると嬉しいな」


 にこにこと愛想よく笑って帰っていく王太子を、私は義母と共に、お辞儀をしながら見送った。

 馬車が見えなくなると、後ろにいたお義母様が、ふうっと息を吐いた。


「マリー……あなたには礼儀作法のお勉強が必要ね」


 ぴしゃりと言ってのけられて、私は思わず首をすくめる。


「王太子殿下がお優しかったから許されたものの、あの態度は公爵家に相応しくありません」


 私は何か言い返してやろうと思いはしたものの、失態をおかした自覚はあったので、唇を尖らせたままで終わった。




 侍女たちによって着替えさせられ、風呂も終えた私は、ようやく寝室へと戻ってきた。そこには、いつものようにミーシャが待っていた。


「お疲れ様でした」


 少しばかり気の毒そうなミーシャに、私は存分にむくれて見せる。


「お義母様ったら、あの後もくどくどとお説教が続いたのよ!」

「……奥様は、お嬢様に公爵家に相応しい品格を身につけて頂きたいと思っておられるのですわ」


 私の愚痴に、ミーシャは困ったように微笑む。

 てっきり同調してくれると思っていたミーシャからの予想外の反応に、私は拗ねたように唇を尖らせた。


「普段は私のこと放っておく癖に、こんな時ばかり母親面するのよ、あの人」


 私は思わず不機嫌になった。しかし、ミーシャはやんわりと微笑むだけ。


「お嬢様はまだお小さいのですもの……まだまだ知らないことがたくさんありますわ」


 大人の事情というやつです、と私の侍女はやんわりと笑う。その笑顔はやけに大人びていた。


 ベッドに入りながら、私はようやく落ち着いて、お茶会でのことを考えていた。

 それにしても、私が見た光景は……血塗れの王太子の姿は、一体何だったんだろう……。白昼夢にしては、やけにリアルで生々しく、あれが単なる幻には思えない。


 ぼんやりと考えているうちに、とろとろと眠気がやってきて、私はいつしか眠ってしまっていた。




 そして、次の朝起きた私の耳に、父親が帰宅したというニュースが届けられたのだった。

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