肖像と公爵令嬢
お城から帰った翌日。私は珍しく本邸にいた。お義母様から呼ばれたからだ。
場所はお義母様の居室。部屋は淡いピンクと花柄で上品にまとめられている。部屋の主であるお義母様の真っ直ぐに伸びた背筋。柔らかな居室の雰囲気と比例して、お義母様から感じる雰囲気は硬い。テーブルを挟んで向き合うと、ピリッとした空気が流れた。
「そう。では王太子殿下とは親しく交流できているのね?」
「はい、お義母様」
「それならいいわ」
居室にはお義母様と二人きり。お父様は今日も仕事で屋敷に帰ってこない。
お父様がいない時は、実質お義母様が公爵家を取り仕切っている。
お義母様の居室に呼ばれた私は、ロバート様とうまくやっていけそうかどうかを確認された。
公爵家にとって、王太子妃を輩出できるのは誉れ。重要な問題だろう。私は神妙な顔で頷く。
本音を言えば、ロバート様とは婚約破棄する心づもりはできている。乙女ゲームの舞台である学園に入学すれば、彼はきっとヒロインに惹かれるんじゃないだろうか。乙女ゲームと現実に多少の違いはあれど、私とロバート様は、乙女ゲームでのキャラクター設定どおり婚約した。ならば、ゲームシナリオでマストだった私とロバート様の婚約破棄も充分起こり得る。
とはいえ、今それをお義母様に言うことはできない。もちろん私の前世の記憶のことも。そして、ロバート様に起きている謎の現象についてもだ。
公爵家令嬢としての私に求められていることは、家の道具になること。家の道具として不適切だと烙印を押されたら、私の居場所はなくなってしまう。だから私は出来る限り心に壁を作って、弱みを見せないようにするしかない。私に興味のないお父様も、冷たく接するお義母様も信用できない。
「それなら今後も王太子殿下と仲良くするのよ。何かあったら言いなさい」
「はい」
お義母様が立ち上がるのに合わせて、私も席を立つ。彼女の言葉を信用するつもりはない。
私は一礼して部屋を出た。
別邸に戻る前に、私は大広間へと立ち寄った。
時には晩餐会も執り行われる大広間。何もない今日は静かだ。全てのカーテンも閉めきられ、どこか薄暗い。
部屋の中央には、天井から垂れ下がる見事なシャンデリア。光の灯らないシャンデリアは空々しさがあった。
大広間の壁には、歴代の一族の絵姿が並んでいる。最も奥の壁には、かつて王弟であり、王籍を抜けて公爵家を興した初代ヴォルフラム公爵の肖像がかかっている。無機質な翠の瞳は、王家の血筋。初代の金髪と翠の瞳にロバート様の面影が重なる。
初代の肖像から順に、歴代の公爵、公爵夫人、子女の姿が並ぶ。彼らは額縁の中でひっそりと当時の姿を保っている。
並ぶ肖像の一番端。その前まで私は歩み寄る。そして壁にかかった絵を見上げた。
陶器のように白い、小さな卵型の顔。アンニュイに伏せられた目元には、長い睫毛が影を作っている。黒く豊かな巻き毛を垂らし、赤い唇でほんのりと微笑む美女。その姿は、乙女ゲームでの成長したマリーの姿ともよく似ていた。
描かれているのは、私の生みの母、マリアンネだ。
侯爵令嬢だったお母様は、社交界にデビューしたその年にお父様と恋に落ちたらしい。身分にも家柄にも申し分のないお母様は、お父様に望まれ、一族からも歓迎されて嫁いできたと話に聞いたことがある。
教えてくれたのは、お母様付きをしていたというメイドだったかしら。今よりもさらに幼いころの記憶は曖昧でぼんやりとしている。
とにかくも望まれて公爵家に嫁いできたお母様だった。しかし、生まれつき体の強くなかったお母様は、長子である私を生むのと引き換えに亡くなった。
お母様に抱かれた記憶はない。しかし彼女の肖像を見つめていると、何とも言えない懐かしさがこみ上げてくる。帰るべき場所へと帰ってきたような。そんな感情がわきあがる。
記憶にある限り、本邸にいた頃の私は、毎日のようにこの肖像画に会いに来ていた。
お父様と会えない日が続いて寂しかった時。お義母様に叱られて悲しかった日。逃げるようにこの肖像画の前に来て、私はいつまでもお母様を見つめていた。そうすると、お父様のこともお義母様のこともだんだん忘れていくような気がした。ただ懐かしさが私を包み込んでくれた。そんな記憶ばかりが蘇る。
別邸に追いやられてからはお母様に会いに来る機会もほとんどなくなってしまったけれど、それでも私は母マリアンネを忘れはしなかった。
「お母様……」
私が静かに微笑むお母様を見上げて、呼びかけた時だった。
突如、窓も開いていないはずの部屋に、一陣の風が吹いた。風は私の巻き毛を揺らして通り過ぎていく。ふと、背後に誰か立っているのに気がつく。世界から時間が消え、私は静止した時の中で後ろを振り返る。
そこには、黒い巻き毛と赤い唇を持った色白い女が立っていた。
私はその姿にあっと目を見開く。白いドレスは先ほどまで見上げていたものそっくりで。そして、強烈な懐かしさを感じさせた。
「お……母様……」
肖像画から抜け出したままの姿で、お母様が微笑む。輪郭が薄くぼやけて、キャンドルの頼りない炎のように揺らめいている。幻想のように今にも消えてしまいそうな。
「マリー……気を付けて」
お母様の赤い唇が動いて言葉を紡ぐ。子守歌のように私は意識を吸い寄せられた。
「血に濡れた王太子……彼には気を付けて……」
「ロバート様……?」
お母様は言い聞かせるように、もう一度同じ言葉を繰り返す。柳の枝が風にこすれて立てるような囁き声。ささやかなその声は、鼓膜を通さず、直接脳に響いているようだった。
「マリー……王太子に気を付けるの……」
「お母様、それは……」
どういうことなの? 尋ねようとした瞬間。
「お嬢様! こちらにいらしたのですか!」
夢から引き戻されるような感覚。
「ミーシャ?」
呼び声のする方に私は思わず顔を向ける。そこにはいつものように私のメイドが立っていた。怪訝な顔で私を見ている。彼女は手を差し出した。
「お探ししておりました。ここは冷えます。さぁ、お部屋に帰りましょう」
「待って、ミーシャ。いま、私……」
お母様を見たの。そう告げようと思って振り返った先。そこには誰もいない。先ほどまで見ていた全ては夢だったかのように、お母様の亡霊は跡形もなく消えていた。