雪とあの子とあたしの記憶(三十と一夜の短篇第46回)
「雪が降ればいいのに……ね」
あたしが空を眺めていたら、そんな声が突然聞こえた。
「え?」と振り向くと、誰もいないと思っていた隣の席にひとりの女子。
黒い髪と白い肌、ぷっくりした柔らかそうな頬が印象的な子だ。
「なぁんだ。あんたか」
あたしはほっとして笑った。その子もつられるように笑顔になる。
あたしはこの子の笑顔が好きだった。いつ見ても懐かしくて心が温かくなる笑顔だから。
委員会の仕事が遅くなって、あたしが教室に戻って来た時はもう誰も残っていなかった。
みーこもサヲリも「待ってるからねぇ」なんて言ってたのに、天気が下り坂なのを知ると『降る前に帰るね。またね』というメッセージを残してさっさと下校したらしい。
「女の友情なんてこんなもんよね。ほんと冷たいんだからさぁ」と大げさな愚痴をこぼしながら薄暗い廊下を戻って来たところだったので、まさか待ってくれてる子がいるとは思ってもいなかったのだ。
もう一度空を見上げる。
教室の大きな窓ガラス越しの、薄暗い空。夕暮れであろう時間帯の仄暗さでもわかる、重たい鉛色の雲。
「……そうね、雪ならよかったのにね」
あたしはため息とともに同意して、諦め混じりに続ける。
「でもこっちは滅多に雪が降らないから……」
あたしの小さい頃は、雪の多い地方に住んでいた。
おじいちゃんとおばあちゃんも同居していた大きくて古い家は、木造で薄暗くて廊下やトイレが寒かった。けれどみんなが揃った居間であかあかと燃えるストーブは、子ども心にもほっこりとした優しさや幸せを感じさせてくれたものだった。
どの季節も好きだったけど、あたしは特に冬が好きだった。
大人たちは雪かきや雪下ろしで大変そうだけど、子どもたちにとって一面の雪景色とは無限の可能性を秘めたフィールドだ。
そり遊びやスキーはもちろんのこと、至る所に現れる雪山では登山や冒険の気分も味わえるし、その気になれば一、二時間ほどで秘密基地だってできてしまう。
ひとりで黙々と雪穴を掘っていると、いつの間にか近所の子たちが加わって大きな穴が出来上がった、なんてこともあったし、よその家の庭に作られた雪の坂でそり遊びをさせてもらうことも日常茶飯事だった。
名前も知らないまま遊んで、そのまま別れることにもなんの疑問も抱かず、ただその時間を共有することだけに夢中になった子ども時代――
お父さんの仕事のためにあたしたちが東京へ引っ越したのは小学校四年の頃。キラキラして見えた都会の街には流行りのお店がたくさんあって、前の学校の友達にメールするたびに羨ましがられた。
でも冬になると――
「寒いだけで雪がないなんて、変だよね」
あたしの心を見透かしたように声が掛かる。
あたしも最初はそう思ってた。でもそう口にすると、新しい友達はあたしが間違ったことを言ってるような表情で見るのだ。
だって、こっちでは雪は滅多に降らないものだから。
雪はもっともっと空気が冷えないと結晶しないのだ。まだ雪になるには暖かすぎる。だって雪のにおいはどこにも感じられない……漂ってるのは雨の先触れのにおいだけ。
「寒いけど、雪が降るほど寒くないんだよ、こっちは!」
今あたしは『間違ったことを言ってる人を見る表情』になっているのかも知れない。無邪気に「雪がないなんて、変」とはもう言えなくなってしまったから。
そのまま不貞腐れ押し黙ったまま下校の準備をしていたあたしがふと顔を上げると、あの子はもういなくなっていた。
――機嫌を損ねさせてしまったのかも知れない。
あたしは鞄を抱え、ため息をついてから教室を出た。
今でも夢に見ることがある。
雪の冷たさや肌に触れて溶ける感覚、風が吹き付けて頬が痛んだり、しもやけがじんじんしたり、なによりも懐かしいのは雪のにおい――夢はそれらを現実よりもリアルに描き出す。
そんな夢を見た日は、切なさで苦しくなるのだ。
三日間、雨が続いた。
冬の雨は冷たくて重くて気分まで沈む。
マフラーをしても手袋をしても、その隙間からじっとりした冷たさが忍び込んで来るのだ。
「もういやんなっちゃうよねぇ」とサヲリがリップを塗り直しながらつぶやく。
「日曜に白いブーツ履きたいのに、こんな天気じゃ無理」
「ブーツってあれ? クリスマスに彼氏に買わせたってやつ?」
「買わせたんじゃなくて、買ってくれたの! あたしが前から欲しがってたの知ってたしぃ」
栗色の前髪を片手で直しながらサヲリは自慢げに笑う。
みんなこういう時は場を読んで「えぇ~? 優しい彼氏っていいなぁ~」なんてことを、ちょっとベタついたような声で言い合う。別に羨ましいと思ってないのに。
あたしも同調して、でもそんな自分に少し疲れながらまたつい空を見上げた。
「雪が降ればいいのにね」
「そうだね……」
その声に思わず同意してから慌てて後ろの席を振り返った。
笑顔を向けているその子に問い掛ける。
「怒ったんじゃなかったの」
「なんで?」
きょとんと首をかしげると、真っ黒な髪がさらさらと肩を流れる。
「わかんないけど、なんとなく」
わけもわからず恥ずかしくなって、あたしは目をそらした。
胸の中心がざわついて落ち着かない。純粋な視線を真っ向から受け止められる気分ではなかった。
「変なの」
涼しげな透き通った声で、その子は笑った。
「ねえ、いつまで雨なの?」
みーこの声に呼ばれてあたしは前を向く。
「わかんないけど、テレビでは夜にはみぞれになるかもって」
そう、雪なんて滅多に降らない。せいぜい降ってくれるのは雨と雪が混じり合ったみぞれ程度だ。
そしてみぞれが降ると、あたしは冷たい雨が降った時以上に惨めな気分になるのだ。雨でも雪でもない、どっちつかずの冷たいカタマリのせいで。
「えー? みぞれなんてもっと最悪じゃん。べしょべしょになってさぁ」
サヲリがピンク色の唇を尖らせる。
「大丈夫。雪、降るよ」
くすくす笑う声が聞こえる。
「うそ、雪降るの?」
あたしは疑わしい表情のまま窓に視線を向けた。
今日も鉛色の雲が一面に広がって、うるうると渦巻いているように見える。
「降るよ――もっともっと寒くなるけど、雪の方がいいよね?」
「そりゃぁそうだけど……」
あたしは半信半疑で窓に手を掛け、半分ほど開けてみた。
「降るよ。願えば、きっと降る」
胸の中のざわつきが大きくなった。このざわつきは、不安じゃなくて期待だ。
知らず、息が大きくなっていく。
「ちょっとぉ、寒い!」
背中越しに文句が聞こえる。
「雪は、降るよ」
呪文のようにあの子の声が続く。
「えみぃ、雨入って来ちゃうじゃん」
そんなことはお構いなしで、あたしは空を見上げる。湿った冷たい空気。思い切り吸って吐いた息は白く天に昇る。
気のせいか、昨日までよりも雲の色が明るく見える。雨雲の色よりも少しだけ明るい、例えるなら銀鼠色の……
「あ!」
その一瞬、スローモーションのように見えたのは、丸い水玉に混じってゆっくりと降りて来る黒い綿のようななにか。
雨雲より明るい色合いの雲をバックに、その小さなかたまりはあたしをめがけてひらひら舞い落ちて来た。
ぺそり。
あたしの鼻に見事な着地をしてみせた、淡いかたまり。
「つめたい……」
思わずつぶやくと、サヲリが「なぁにぃ?」とダルそうにこたえた。
「雪……雪が」
興奮気味の浅い息で、そう言うのがやっとだった。
「え? 雪?」
「まじ? うそ?」
ついさっきまで寒いという文句しか聞こえなかった教室内がざわつき、みんな一斉に窓際に寄る。
ガラガラと窓を開ける音。驚きと歓声が入り混じった声があがる。
あたしの隣に飛んできたサヲリも「わぁっ」と、声をあげた。
いつの間にか雨の代わりに大きな綿雪が降り出していた。
見上げた銀鼠色の雲からゆっくり降りて来る黒っぽいカタマリは、逆光で陰に見える綿雪だ。そのまま目で追うといつの間にか見慣れた白い綿雪の姿となり、優雅に舞いながら地面へ到達しては消えていく。
他の教室からも歓声が聞こえる。下の教室の窓が開く音。学校中が浮き立った。
窓から下をのぞき込むと、頬を喜色で染めた階下の男子生徒と目が合った。
「ねえ、ほんとに雪が降った!」
あたしも心底嬉しくなって教室内を振り向いた。黒髪の、雪のように白い肌のあの子にもこの喜びを伝えたくて。
「やぁだ、えみったら、あたしはこっち」とみーこがサヲリの向う側で笑ってる。
「あ、うん……そうじゃなくて」
あの子のことを説明しようとして、次の瞬間はっとした。
『あの子』って誰?
雪が好きなあの子。そばにいると懐かしくてほっとするようなあの子。いつも一緒にいたような気がしてたあの子。
そういえば、昔はあの子と一緒によく遊んでいたような気がする――
小さい頃、一人で庭で雪遊びをしていると、いつの間にかよその子も一緒になって遊んでいた。
当時はそれが当たり前だったから、『友達』がどこの誰なのかなんていちいち気にしていなかったけど。
「そっか……あの子、きっと雪んこだったんだ」
思わず口をついた言葉に驚きつつ、きっとそうだろうという気持ちになった。だってあたしはあの子のことをずっと前から知っていたから。
「忘れてたよ……ごめんね。雪、好きだったのに」
黒髪に白い肌。冷たくて赤く染まった頬を思い出す。
窓から冷たくて透き通った風が入って来る。懐かしい、雪のにおい。
「そして、ありがとう……会いに来てくれて」
綿雪はふわふわと降り続けていた。