シスターマリアとジャンヌさん3
逃げるとなれば一目散だ、脇目も振らないのが鉄則だ。
ここいらがカストーラファミリーが大きくなった所以でもある。
マイケルにしてもフェルチーニにしてもマリア婆の教えを受けている。
逃走は恥では無い事を、身をもって“教育”されたのだ。
“三十六計”との事だ、戦力差を理解出来ない者は狩られるだけだと教わっている。
別にこれは“遨家極拳”の教えでは無く、マリア婆の故国では一般的な概念で有る。
ただ、それを臆面も無く実行するのは、実は素人程面子面目が邪魔をする。
徹底して戦力分析をして、策を用い、時に正攻法、時に奇襲、暗殺も含めて組織的最良行動を採用する。
逃走撤退は、その取るべき一手段に過ぎないのだ。
だからカストーラファミリーは生き残り、結果大きくなったのだ。
元はマリア婆の武道場に、いや武道所に出入りする、チンピラの集団に過ぎなかったのだから、大出世ではある。
マリア婆さんも元は遨家極拳“極武館”次席師範だった、指導教育は手慣れた物だ。
この頃、と言うかロマヌスでこの二重人格バーサーカーは市民権は得ていない。
流れ流れて、たどり着いたのがロマヌスの貧民窟であり、不法移民として居着いただけである。
拳法家としてより、暗黒街の住人であった“劉月佳”としては肌合が合った様で数年滞在した。
マイケル、フェルチーニはその頃に門下とした直弟子である。
更にそこから流れて、当時発展途上で有ったパルト市街でアルニン国籍を得たのである。
倅の“剛史”(洗礼命ヨハン)は国籍取得後に、例の取方下級官吏(指名手配犯の劉月佳を追跡し清那から追ってきた)とすったもんだした挙げ句生まれた子なので、最初からアルニン国籍だ。
最初期の登場人物の名が、114話で明かされるのも何であるが。
なので、読み書きの方はパルト市街の学門所で習ったが、会話の方は、実践で首都ロマヌスの旧市街地スラム街で覚えていた。
何故こんな物騒な人物が、パルト市街でウン十年も運送屋を経営していたのか、本当に謎である。
「頭、あのババアは何者なんで」
全力疾走逃走中での会話だ、武断派フェルチーニらしからぬ態度に、手下にしても不満や疑問が残る。
「いや、頭、旧知の婆さんなのは分かった。ただ、頭の態度が解せない何故彼処までへりくだる」
「ん、頭、こっちは」
フェルチーニは神行歩をマスターしていた、極拳においては中級武技にして基本だ。
マリア婆さんは本来中級鍛練である神行歩を叩き込んだのだ。闘技習得は後回しだ。
経絡拳は、詰まる所、経の強さと経の連続に有る。内硬功をマスターすれば大概の外部攻撃は無効化出来るし、経打を打てれば内硬功や化経をマスターしていない限り、大概の者は倒れる。
特に経の連続反復は経絡拳士の基本中の基本となり、ここから上位武技の練経歩へと繋がる。
その基本となる連繼の有効的な鍛練が、大地との経絡反復を繰り返す神行歩に有るのだ。
フェルチーニは位階こそ初級拳士で有るが、その実力は連繼歩をマスターした中級拳士に相当する。
ただ、練歩は教わっていない、ここから先は拳士として生きる覚悟が必要となり、寝食を忘れる程の鍛練が必要だ。
とは言え、発経打や内硬功、化経(物理的な受け流しのレベル。本来は経を流す武技)神行歩と中級拳士レベルの鍛練を積み、実戦で培った戦闘感から若い頃から名を上げていた。
「頭、こっちは極貧民窟ですぜ、拠点の方に戻らないのですか」
フェルチーニはここいらを仕切るっている訳では無い。カストーラファミリーの大幹部であり、ボスと義兄弟の契りを交わしている。
そもそもが同じ師匠に付いた兄弟弟子だ。
やや開けた空地に出た。極貧民窟に本来ならば空地など有る訳が無い、それどころかごみ一つ捨てられておらず、雑草の類いも綺麗に抜かれている。
明らかに人の手が入っている。
「お前達も、ここからカストーラファミリーが始まった事は知っているな」
知っているも何も、新入りはこの空地の管理を必ずさせられる。カストーラに席を置く者で知らない者は居ない。
だから、貧民窟の住人もこの空地を占拠する様な事をしない。
「へい、ファミリーの最初期の拠点だったと聞いております、頭がたまに訪れている事も知っております」
「ここで劉老師が武道場を開いていたのだ、青天井の道場だ」
「さっきのババアが、ん?ひょっとして………」
「そうだ、劉老師こそがマザー、ゴッドマザーだ」
これには一同も驚いた、フェルチーニを始め古株の幹部連から伝説的に聞かされた相手だ。
………ゴッドマザー………酷いネームだ…………
「な!ドン.マイケルの親の事じゃ………」
「マジか!実在したのか!」
「たまに話に出てきたが………」
瓢箪から駒、寝耳に水、例えるならば放屁最中にゲップと鼻血が出たような、あくびの最中に馬に蹴られて脱糞したような、そんな想定外の驚きだ。
「当時は隅に小屋が有り、そこに劉老師が居着いていた。ショバ代を回収にドン.マイケル……当時はマイケル大哥が出向いたのが発端だった」
「妙な武術を使っていましたが、頭の流派の師匠でしたか………ですが、頭」
「遨家極拳を妙な武術だと……」
自然と殺気が漏れる。マリア婆の前では下手だったが、フェルチーニはカストーラの代表とも呼べる武断派だ、マリア婆よりは発火点は高いが別に温厚では無い。
「済まない頭、そんな意味で言った訳じゃないんだ。この辺りの格技じゃ無いし、その、頭とも闘い様が違ったから奇妙に思えただけだ、悪く言った訳じゃ………」
「まあ良い、謝罪は受ける。劉老師は恐ろしい人だが、我々にはマザー、最強のゴッドマザーだ。
ドン.マイケルも同意だろう。だから………」
そこに口を挟んだ者がいる、ヤクザ組織ではあり得ない無礼だが、彼女は別にヤクザでは無い。
「聞いた事が有りますね~マリアさんがゴッドマザーだったのですね~
それはそうと、皆さん大層健脚で。私も脚に自信が有ったのですがね」
空気を読まないジャンヌ助祭だ、後ろ手に対人鞭を用意してある辺りソツが無い。
「な!何時の間に」
「撒いた筈だ」
残りの数名は無言で身構える、問答無用で襲い掛かるようなマル暴修道女だ、油断はならない。
「最近テリポリルッツァ地区教会に移動してきたシスターか、劉老師とはどんな関係だ」
フェルチーニはここいらが縄張りでは無いが、彼にとって聖地とも言える修練場の有る地区だ、些細な情報も耳に入れる様にしていた。
旧市街地区は広大だ、区画別だけでも8つ有る。その内の一つがテリポリだ。
教区はそのまま各区画別なので、テリポリ教会はヤクザ的解釈で縄張り内だ。
ジャンヌ助祭、マリア婆さんは本来の所属の件もあり、テリポリ本教区教会に所属していた。
本教区教会なので人員は多い、当たり前だ、旧市街地区はかつての大帝国の首都中心部なのだから。
だから月単位で人員の移動は有り、教会関係者か、余程暇な信徒で無ければいちいち把握なぞしない。
「同僚ですね~同僚。と、言うより預かった人ですよ。腕が立つそうなので、部下では無くあくまでも同僚としてですが」
「劉老師は昔教会と接点が有った、その類いの縁故か」
「全国指名手配されたから、独立行政区に逃げ込んだと言ってましたね」
フェルチーニは“くくっ”と失笑だ。
「劉老師らしい、お子が生まれ堅気に落ち着いたと聞いていたが、破天荒な人だからな」
まあ、アクションを起こしたのは最近の事ではある。
嘘である。バレていなかっただけでパルトの暗黒街でも暴れていたのだ。
そうで無ければ金融ヤクザの下請けで逃亡資金は稼げ無い。
どちらかと言えば運送業界の人間は気が荒い、腕力、体力が物を言うからだろう。
その業界で一目も二目も置かれていたのは、何の事も無い、拳に物を言わせていたからだ。
叩けば埃が出すぎるので、大人しく出頭しなかったのだ。
余罪が発覚すれば、かなり愉快な判決が下る事は間違い無い。三十六計はマリア婆にとって恥では無いのだ。