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良い人間 2

 真っ白な紙に針を突き刺すことでつくった点は、砂粒ほどの大きさでありとても小さな穴だ。しかし紙に針を突き立てて点をつくるなら、針を持つ指に明確な意思を持って力を込めてやらなければならない。

 針を突き刺した時、紙はぷつっと破裂音のような音を立てて衝撃を知らせる。紙が厚ければ太く低い音で、薄ければ細くて高い耳障りともいえる音で。


 さっき聞いたのは太くて低い音だったか、それとも耳障りな音だったか。



 いくら小さな穴でも、紙が真っ白であればあるほどそこに出来た小さな点は目に付く。

 例えるならば紙が稀の心で、針が白いスカートの女性。そして針を持っているのが稀自身だ。

 針で穴を空けさらに爪を突き立てて破ってしまうか、それとも穴を空けるのを止めて針をそっと針山に戻すか。

 全ては針を持っている人間の自由である。



 稀は今機嫌が悪かった。




「立てますか?」


 答えなかったのを了承と取ったのか、女性は相手を思いやった優しい声で稀に話し掛けそっと手を差し伸べてくる。

 うつむいたままの女は肯定も否定もせず、その手を無視した。


 稀が今やるべきことは何か。

 においに興奮していた頭の中が、今度はやけに冷静なやり場のない怒りで満たされているのが分かる。

 取りあえず目の前の❝良い❞人間がうっとうしいのは間違いなかったが、もう会話をする気にはなれない。その人間に答えるため口を開くことそのものに意味を見出せないのだ。

 しかし目の前の人間は一向に離れようとしない。こちらから離れるしかなさそうだ。


 稀は顔を見られることも気にせず、いうことを聞くようになった体を起こしてベンチから立ち上がった。


「あっ」

「………」


 様子を窺うように覗き込まれる。

 しかし無視してこのままさっさとトイレまで行けばいい。自力で歩いているところを見れば流石に引き下がるはずだ。もう腹が痛い素振りをする気も起きない。


 稀は向けてくる視線を不快に思い、振り払うように右足から一歩を踏み出そうとした。


「私の肩に掴まって下さい」

「……っ」


 こいつ…!?


 腹を庇うこともせず、だらりと垂れ下がっていた腕を取られる。驚いて反応出来ない稀をよそに、自分の腕が気付けば相手の肩に掴まるよう回されていた。


 無視しようと決めた矢先にこれだ、余計なお世話とはこういうことをいうのだろう。


 空気ぐらい、読めないのか…!しつこいな!


 稀は怒りで動きが鈍くなった眼球を無理矢理動かして、瞳に映す気のなかった相手の顔をそこで初めて見た。


 ミディアムヘアの、化粧は覚えてもまだ自分に合う色を見つけられていない。そんな何もかもが始まったばかりのような、少女のような初々しさを残した女性が心配そうにこちらを見ていた。

 歳は稀とそう離れていないように思える。


「…………」

「…大丈夫ですか?」


 ミディアムなんて中途半端な長さはやめて、ショートヘアにすれば良いのに。化粧だって、そうじゃない、口紅はもっと淡い色の方が似合う―――


 場違いな感想を抱きながら、頭を占めていた熱が海風に吹かれて、すっと空に消えていくのを感じていた。


 ……なんで、こんなこと考えてるんだろう。


 不思議な心地だったが嫌なものじゃない。稀の嫌いなものではない。

 彼女の目はどこかで見たことがあった。何時、どこでだったか……思い出せない。


 時間にして五秒か、十秒には満たない間。稀は彼女の顔を注意深く観察していた。


「あの…」


 目が合っていることに気付き、稀は我に返って視線を逸らす。


「もう…大丈夫です。一人で歩けるから…」

「……」

「心配してくれて、ありがとう」


 さっきまでの怒りが嘘のようだ。気付けば喋っているこっちが驚いてしまうほど毒気のない、稀の知る限りでは精一杯の、相手を傷付けないように注意を払った棘のない声が出ていた。何か文句の一つでも言おうと歪んでいた唇は、相手を安心させるために口角が上がって笑顔までつくっている。


「本当に、もう大丈夫です」

「…そうですか、それなら良かった」


 あれだけしつこかったのに、彼女は掴んでいた稀の腕を解放して後ろに一歩下がった。稀はそれをちょっぴり寂しく思うが、引き留める言葉は出てこなかった。


 仏教の教えの一つに徳を積むという考えがあるが、いま彼女が積んだのは陰徳の方だろう。

 彼女が身を引いたのは稀が礼を言ったからではない。自分がいなくても大丈夫だと確認出来たからだ。見返りを求めていたわけではない。ただそれだけ。


「それじゃあ、私はこれで」


 彼女はそう一言断りを入れると、駐車場の方へと歩いて行った。

 その背中が建物の影に隠れるまで見送ってしばらく、稀は自分が正気に戻っていることを知った。

陰徳とは 人知れず行う、称賛されることが目的ではない善意からくる行為で積むことが出来る徳。

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