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良い人間

 ベンチにへばり付いて思い切り声を出したいところだったが、周りを見回す余裕のない稀には厳しい。

 座った時、視界に人影は見当たらなかった。だが背中を丸めて顔を隠していては、いつ人が通りかかるとも知れない。そんな状況で好き勝手に声を出して自ら居場所を知らせるのは避けるべきだ。


 正直に言って稀はその場に居合わせただけの見ず知らずの人間に変な目で見られようとそこまで気にはしない。もう二度と会うことはないだろうし、気にしたところで相手はそのうち目撃したこと自体を忘れていくだろう。ならこちらもさっさと忘れてしまえばいいだけの話だ。

 しかし今の自分が傍から見て異常者に見えるだろうことは認識していたし、自分が通行人の立場だったなら驚き眉を顰めてその場から立ち去ったあと、当然のように衝撃と気持ち悪さで正しく『変態』と心の中でつぶやくだろう。


 それが稀には許せなかった。


 他の人間が自分をどう見るかなんて、評価される側の稀からは決めることが出来ない。

 しかし自分で自分を評価するとなると変わってくる。己の考え方ひとつで自分をいくらでも都合の良いように解釈してしまえるし、時には自分自身を騙して評価を上げたり下げたりすることが可能になってしまうのだ。

 客観視するのは悪いことではないが、基準がずれていては元も子もない。


 稀はベンチに突っ伏して歯を食い縛りながら呻き声を上げている女性を想像し、自分が通行人だったらどう感じるかと客観視した結果、どんなに取り繕っても変態だろうという評価に自ら行き着いてしまったのだ。

 それが稀には受け入れられない。


 最悪…こんな腐った臭いで、呻くほど興奮してるなんて…!


 それにそれが今まで経験したことのない衝動なのだからいっそうたちが悪い。

 排気ガスだったり山の独特なにおいだったり、不思議なことに読むとにおいがしてくる本だったり、癖になるお気に入りのにおいなら自分の好きなように楽しんできた。

 しかし歯を食い縛り、それでも声を我慢出来ずに呻くまでにおいに酔ったことなど今まで有った試しがなかった。



「あ、う…ううっ!ふぅー、ふぅー…」


 完全に体が崩れそうになるところを肘を突いて耐えたが、稀はここからどうしたらいいかまだ決められなかった。

 臭いが染みついた手はとっくにベンチの上で拳を握り締めている。呻いているのは嗅ぎ続けているからではない。これはただの余韻でしかないのだ。


 ――手を、洗って…それから顔も洗えばすっきりするかもしれない。トイレはすぐ近くにあるし、さっさと行って洗った方が良いのは確か。……でも、でも少しだけここで休んでいきたい。無理して歩き出しても、途中でしゃがんでしまうかも――


「あの、大丈夫ですか?」

「…!!」


 稀の気付かないうちに、誰かがベンチの前まで来ていたらしい。

 驚いて目線だけずらして足元を確認すると、白いスカートの裾が海からの風に揺れているのが見えた。


 今の稀にはそれがとても眩しく映る。


「誰か呼んできましょうか?」

「………」


 言っている内容からして助けようとしてくれているらしい。控えめな声だったが、その声色から本当に心配してくれているのが分かった。


 彼女は突っ伏して背中を震わせている人を目撃したから近付いてきたのだろうか。それだけなら分からなくもないが、呻き声を聞いてもなお近付いてきたのなら、余りにもお人好し過ぎるのではないか?

 稀は自分の声に混じる誤魔化し切れない、まるで何かに感じ入っているような甘い色に気付いていた。


「いえ…、大丈夫ですから」

「え、でも…」

「……ふっ…はぁ…はぁ」


 かなり息苦しいが、音にならないよう注意して息を吐く。赤の他人で顔も分からないとはいえ、誰かを目の前にしても気にせず息を荒げてしまえるような図太さなど流石に持ち合わせていない。


「何か、水でも持ってきましょうか?」

「い、いえ…」


 女性がここから離れる気配はない。彼女にはよっぽど自分が苦しそうに見えているのかもしれない。

 何か、適当に訳をでっちあげて納得でもさせないと引いてくれそうになかった。


「…よく、お腹を壊すんですよ。だから、気にしないでください」

「ああ、そうなんですか」

「ええ、だから…」


 ここまで気に掛けてくれているのに…失礼だとは思ったが、稀は顔を伏せたままやんわりとしかし確実に助けを断る。目を見て礼ぐらい言いたかったが、それは出来そうになかった。

 きっと自分は今酷くだらしない顔をしている。後ろめたさから顔を合わせる気にもなれない。


「…えっと」

「………」


 ………何だ?おかしい。もう、うちに用はないだろ…。

 なんで離れていかない。


 待ってみても視界の端から消えていかない彼女の足。

 長かった余韻が少しずつ引いてきた頭で稀が代わりに感じたのは、ほんの小さな、とてもとても小さい、紙に針を突き刺して出来た点のように小さな苛立ちだった。


 稀は相手の意図が分からず押し黙った。何か用があるなら早く言ってほしい。それか後にしてほしい。今はひとりにしてほしい。


 ジェスチャーでほっといてくれと言いそうになる身勝手な自分を自嘲して、続くであろう彼女の言葉を待った。しかし―――


「あの、もし歩くのが辛いなら、トイレまで手を貸しましょうか?」


 小さな点でしかなかった穴を起点に、ビリビリと音を立てて紙が破れていく。

 破れるのと比例するように眉間にしわが寄り、稀はさっきとは違う意味で歯を食い縛った。



 予想が外れた、今日はツイていない…。どうしようもなくイライラする!腹が立ってしょうがない…!



 悪い人間はどこにでもいるというが、同じように底なしに良い人間だってどこにでもいるらしい。

 彼女は稀が今一番会いたくなかった良い人間だった。

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