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娯楽

「絵里さん、こっち」

「あ! おはよう、稀ちゃん」

「おはようございます」


 次の日、稀は朝早くから食堂で絵里を待っていた。一緒に食事をしたいという訳ではなく、他に用があるのだ。

 絵里はもう何を食べるのか決めていたらしい。皿に次々と料理を盛っていき、席に着くとその勢いのまま食べ始めた。


「絵里さん、何だかご機嫌ですね」

「んー……」


 口の中が一杯で話せない絵里は曖昧に頷いた。二人の間に流れる空気は至って平穏そのもので、お互いに何があったか忘れてしまったかのようだった。しかしパンを千切っている絵里の手には昨夜の出来事を主張するかのように、大きめの絆創膏が稀によって貼られている。


「食べ終わったらそれ、貼り直しますね」

「……ん?」


 絵里はきょとんとして、それからコップの水で口の中のパンを流し込む。ふうと息を吐いて、絆創膏を擦りながらにこりと笑った。


「そんなのいいのに。大丈夫だよ」


 あっけらかんとして申し出を断る絵里は昨日までと違って見える。自ら手を差し出して血を吸っても構わないなんて、扇動されたとしても随分な暴挙にしか思えなかったが、この様子だとあながち間違いでもなかったらしい。


「……そういうわけにもいかないですよ。清潔にしておいた方が良いですし――」

「……?」

「いえ、ごめんなさい。まどろっこしいなって」


 そうだ、絵里の前でぐだぐだと理由を並べ立てる必要はないのだ。馬鹿々々しくなった稀は早々に取り繕うのをやめた。


「理由は何だっていいんですよ。別にあなたに断る理由なんてないし、素直に頷いてくれればいいんです。食べ終わったら貼り直しますね」

「……うん、分かった。ふふっ」

「笑ってないで、さっさと朝食を済ませてくださいね。待ってますから」


 にこにこと楽しそうに笑う絵里を見て、いつの間にか稀も心穏やかに過ごせていた。自分の声から硬さが抜けているなんて何時振りだろう。自分自身でさえ初めて聞いたかのように覚えがない。ずっと昔ではあるんだろうけど、今の気分は悪くなかった。

 絵里を友人と呼べるかといえば、きっとそうじゃない。しかし馬鹿々々しい演技をする必要がない存在というのは、こんなにも肩の力を抜いてくれるものなのか。

 黙々と食事をする絵里を無表情で眺めながら、稀はこの時を密かに楽しんだ。もしかしたらそんな内心は絵里に見透かされているのかもしれなかったが、それでも良かった。




 ***




「はい、もういいです……」

「うん、ありがとう」

「いえ。……それじゃあ、もう部屋に戻りますね」


 絵里の部屋で絆創膏を貼り直して、その工程に稀は満足する筈だった。しかし実際は違う。


 昨日は再現出来たのに――。


 消毒液を患部に垂らして絆創膏を貼って。昨日と同じ事をしたというのに何も感じられないのだ。


 楽しくないし、嬉しくもない。……あの時のような高揚感は微塵もない。どうして。


 残念に思いながらも、治療を終えてしまった今もうこの部屋に留まる理由がない。また後でと一言だけ残してドアを閉めた。

 自分の欲を満たす為の行為で何も得られないから、余計に気分が沈んでしまう。

 治療行為は人間社会で許された、悪行には決して数えられることのない稀にとっての娯楽だったのだ。それなのに、欲を満たせないと分かった今は何の意味も持たなくなってしまった。


「やめよう……」


 そう、考えたところでそもそも自分が何に喜んでいたのかも不明瞭なのだ。答えのないものにあれこれ頭を使うなんてこれ程無駄な事もない。

 稀は考えを頭から追い出すようにして自室の扉を開けた。


「――あれ……」


 足下を見れば、障害物になっていた箱が無くなっていた。福田がまた来ると言ってはいたが、部屋を空けている間に食器の入った箱を回収したらしい。

 滞在期間も長いから、留守にしている間に部屋の備品が補充されることはある。しかし福田の訪問はあくまでもプライベートで行われていたもので、従業員と客の関係ではなかった筈だ。実際に回収したのは福田本人ではなく他の従業員の可能性もあったが、それはそれで気に食わない。

 稀は部屋に入ると、まだポーチに仕舞ってなかった消毒液と絆創膏を取り敢えずごみ箱に捨てる。部屋をざっと見回して、ありもしない彼の痕跡を打ち消すように机上の埃を払った。椅子を引いて腰掛けると、絵里について書かれたメモを手元にパソコンを開いた。

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