感覚
普通なら引っ込められる筈の手は、稀の手の中で留まって動かない。一瞬の沈黙の後、絵里は詰めた息を吐くようにして話し始めた。
「いいよ。ちょっと切るだけなんだよね」
「そうですよ、絆創膏で済む程度です。……もう一度確認しますけど、本当にいいんですか?」
あっさりと承諾してくれる彼女は、稀にとって都合が良い存在ではある。しかし何のメリットもないのに頷いてしまう彼女が分からない。
「気味が悪いなら断っていいんですよ。無理だけはしないでください。後から嫌だったなんて言われても困ります」
「いいの、そんなこと言わないよ。稀ちゃんは信用出来る人だから。小説を書く為っていうのは嘘じゃないんでしょ」
「はい、嘘じゃありません」
仮に嘘だったとして何が違うというのか。理解が追い付かないまま淡々と同意してやれば、絵里はそれで満足したようだった。
「ありがと。だったら……ううん、だから断る理由が見付けられないんだよね。それに嫌だって言って後悔するのは、私だと思う」
「……ふーん、やっぱりよく分かりません」
協力してくれるのは有り難いが、こうもすんなりと要求を呑まれてしまうといっそ反応が欲しくなる。一体稀の何を信用して受け入れるつもりでいるのか。
吸血鬼の真似事をしたいなんて言われたら、顔を引き攣らせたり、普通は身の危険を感じて逃げるだろうに。なのに絵里は表情を変えることもなくむしろ稀よりも淡々としている気さえする。その態度が腑に落ちないが、今はそれをわざわざ口に出して追求するつもりはない。
稀は一旦絵里の手を解放して椅子から立ち上がると、テーブルの上に置かれた筆箱からミニサイズのカッターナイフを取り出した。先端の刃をパキッと折って新しく刃を出すと、酒に浸したハンカチで濡らすように拭いて消毒していく。
断る理由がないと絵里が言うなら、稀にもまた断念する理由はない。
「絵里さん」
ベッドに腰掛けて隣に座るよう促せば、絵里はゆっくりだが素直に従った。少し緊張していたが怖がっている様子はない。
無言のまま膝の上に乗せられている絵里の手を取って、くるくると手の中で転がしながら刃を滑らせる場所を探していく。彼女の手はさらりとしていて弾力があり、触れていても不快感がない。
「ここ、いいですか」
外側の辺り、ふっくらとしている肉厚な部分を触ってみせる。少し力を入れて切れさえすれば、心配せずとも血はとっぷりと出てきそうだ。
「深くは切りませんけど、傷痕は残ってしまうかもしれません。目立たないように内側を切りますけど」
「いいよそのくらい。……傷痕が残って泣くようなら初めから断ってる」
「……はあ、そうですね。一応確認しましたけど、本当に吸血されてもいいってことですか」
「もう確認はいいでしょ。切ってもいいって言ったけど、あんまり焦らされると怖くなっちゃう。……きっと注射が苦手な人ってこんな気持ちなんだね」
「――さあ」
どうやら本当に口先だけではないらしい。冗談まで交えて、まさか絵里の方から早くやれと言われるとは。
「じゃあ切りますね」
カッターの刃をトンと手の平に乗せて狙いを定める。
こんな事、稀だって初めてだった。それでもいざその瞬間を目の前にすると、自然と生唾を飲んで唇の端を舐めてしまっている。
これから人を傷付けるというのに、それを楽しみにしているのだ。どうしてそんな欲求に駆られているのだろう。考えても分からないし、そんな小さな疑問はすぐに頭の隅に追いやられて後に残されるのは期待と高揚感だけだった。
「――いっ!」
絵里が痛みに声を上げようと刃の動きは止まらない。一気に終えた方が絵里の負担も少ないし、切ってしまえばこちらのもの。ちゃんと血が溢れるように最後まで我慢してもらわなくては困る。
稀の服やベッドに溢れた血が滴って点々と跡をつくっていく。その様子は視界の端で捉えていたが、最早この場を彩ってくれる背景でしかなかった。
カッターの切れ味は悪くない。気をよくした稀は無言で、あくまでも淡々と作業を進めた。
「――ふぅ」
抑え切れなかった興奮が溜め息となって出る。出来たばかりの傷から止まることなく零れる血。二人の腕を伝って血の筋をつくり、稀と絵里はそれを当然のように共有する。
絵里が痛みに顔を歪めているのは見なくても分かったが、それは気にすることではない。絵里を宥めるのに頭を使うのが面倒で、気休めに支えている手で擦ってやるに止めれば彼女もまた逃げもせず耐えている。
こんな機会、逃すわけにはいかなかった。稀はまた興奮に喉を鳴らす。
「はっ……」
小指の長さには足りないくらい程度の切り口。これ以上は不要だろう。血に濡れたカッターを脇に置いて、血を流す絵里の手を両手で大事に包む。また指で擦ってやって痛みに喘ぐ彼女を慰めてやる。
「もう、終わった……?」
「切るのは」
言うが早いか、稀は傷口に鼻を寄せてにおいを嗅いでみる。いい匂いとは言えない鉄臭さが、鼻を通って舌の根を刺激する。およそ食べ物のにおいではない。はっきり言ってこれを口に含んだらと想像しただけで嫌悪感を覚えてしまう。
しかし悪いことばかりではない予感もしていた。血の味さえ我慢すれば、稀の欲しかった何かが得られる気がするのだ。
甘噛みをするように、歯を優しく肌に押し当てる。そうして垂れる血を舌で拭うように舐め取った。
「っ……!」
まずい。なんだこれは。
それしか感想が出てこない。鼻につく鉄臭さが口内に広がって、舌に張り付くような酷い味に噎せそうになる。とにかくまずいのだ。
「う……うっ――はあ、う」
それでも傷口から口を離す気はない。頭が沸騰したようにいうことを聞かず、息が乱れるのを止められない。血が勢い良く頭を巡って、こめかみからどくどくと音が聞こえてきそうな程だ。血のにおいで頭がのぼせてしまっているのか、湧き上がる破壊衝動に興奮してしまっているのか。色々な感情が押し寄せて判断能力が鈍っていく。
「ふっ……ふう」
片膝を立て絵里の腕をがっちりと抱え込む。まるでもう逃げる心配のない獲物を堪能している動物のようだと思った。
絵里はじっと動かず、黙って稀の好きなようにさせている。
美味しくはない。けれど我慢出来ない程の味ではない。
嫌だった粘着質な血の味。そういうものだと理解すれば慣れるのも早かった。拒絶していた舌が段々と受け入れられるようになり、稀は本来の楽しみ方を見付ける。
「はあ、はあ」
あれだ、いつもの、あの幸せな感覚――。
稀はふいに泣きそうになった。しかしそれも一瞬のことで涙は出ない。手が届きそうで届かない。後に残るのは虚しさだけだ。
稀は遠くに行ってしまった想いを追いかけることはせず、絵里の手で遊ぶことに没頭した。




