再び
朝の五時半、ナイトテーブルの時計が鳴り始める。頭がぼんやりと覚醒し始めて、もう慣れた澄んだ空気に瞼を上げる。朝を迎えぼんやりと明るくなった部屋。視界に広がるのは開放感のある高い天井。
「――――ああそっか、今日……」
朝から沈んでしまった気分を受け入れることも無視することもできないまま、稀は仕方なく上半身を起こす。分厚い掛布団から脚をのろのろと抜き抜いて、持参したスリッパをこれまたのろのろと引っ掛ける。窓際まで行き、海の様子を窺う為にレースカーテンを引く。
……雨は降ってない。
残念ながら海が大荒れることもなく、釣りは中止になりそうにない。
一難去ってまた一難。一週間前に絵里が島を出てほっとしていたというのに、気付けばあの青年と約束をした日になっていた。
その間、本来の目的でもある小説のアイデアを無理矢理捻り出してみるものの、結局どれもイマイチで。絵里のような人物を主人公にしようと思ったが肝心の絵里からはもう取材出来ない。
問題は山積みだが、それはさて置き。
「ふう……」
稀はミュージックプレイヤーでボサノヴァを流し始めた。丁寧に髪を梳かしていつもより控え目に化粧をする。香りのいい紅茶で体を温めながら、首元をネックレスで可愛く飾る。そうして準備を済ませると、デートを楽しみにする女のような顔をして部屋を出て行った。
廊下を進み、早朝の静けさを体で感じながらやってきたエレベーターに乗り込む。誰ともすれ違わないままロビーまで辿り着くと、呼び鈴を鳴らしてすっかり顔を覚えた従業員と挨拶を交わした。
「どうも、ありがとう」
「いってらっしゃいませ」
笑顔でクーラーボックスを受け取り、そのままホテルを出て海に向かって機嫌良く歩を進めていく。頭の中ではさっきまで聴いていた軽快な音楽が奏でられ、稀の足取りを後押ししてくれる。
「よし……!」
海へと続く階段をとんとんと降りていく。今にも鼻歌を歌いだしそうな稀だったが、そこまであからさまにすればせっかくの魔法が解けてしまうから歌わない。
彼に悪い印象を与えないように。稀自身が少しでもいい時間を過ごせたと今日の終わりに錯覚できるように。
それには最初から自分を騙すのが手っ取り早く、一番効率の良い方法なのだ。
***
「貝さーん! おはよーございます!」
砂浜に辿り着いた稀が防波堤の方を見ると、既に先客が居て釣りをしているようだった。先客もなにも、こちらの名前を知っていてかつ稀が来るのを分かっていたような振る舞いをしているので、今見えている彼が約束をしていたあの青年であることはほぼ間違いないわけだが。
「ええ、なんでこんな早くに来てるんだろ」
もしかしなくても、一緒に釣りをしに来たってこと?……だとしても私より早く来てるなんて。……えーっと…………そうだ、名前は確か、福田勇。
稀は片手を上げて応えながら、ちょっとげんなりしてしまう。これから彼とたっぷり二時間は一緒にいなければならないということは、二時間は笑顔でいないといけないということだ。サプライズのつもりなのか、それとも自分が捌くといった手前、女性一人に任せて釣果がないなんてことになったら申し訳ないと思ったのか。
しかし、まあ、面倒臭い気もするが仕方ない。稀はこの青年との約束を楽しみにしてきたのだから。げんなりすることなど何もないのであって。――ああ、そうだ、タイムリミットの朝食の時間まで、どちらが多く釣れるか競えばいい! 楽しい催しがあるのとないのでは大違いだ。青年をゲームをするのに必要な装置だと思えば、ちょっとばかりイライラしたって流せるだろうし――――
「福田さん、おはようございます。びっくりしました、何時から?」
「いえ、時間はたっぷりあるので。釣り竿も暇潰しになるだろうって実家から持ってきていたんです。一応、釣りも得意なんですよ。ほら見て下さいよ」
ちょっと上擦った声で元気に話す彼は、傍らに置いてある発泡スチロールの箱をキュッキュッと音を鳴らして開ける。促されるまま箱の中を覗くと、二十センチ以上はありそうな魚が二匹と、小さい魚が数匹、氷の上に並べられていた。
「すごい! こんなに大きな魚……えっと、イワシですよね」
「そうです、今が旬のイワシです。斑点があるのでマイワシですね。捌いてお刺身にするので、期待しててくださいよ!」
「わあ、ありがとうございます。楽しみです、お昼が待ち切れないです……!」
親切にしてくれる側にそう嬉しそうに報告されてしまえば、してもらう側の稀はそれ以上に嬉しそうにしなければならない。まあ、確かに美味しそうで期待してしまう。
つやつやと光っていて、張りがあって、鮮度は勿論抜群だ。長時間釣りをして手に染み込むあのにおいとは違うが、両手で持って鼻を近付けて、思いっ切り深呼吸したい。例えば朝日を浴びて頭と体を覚醒させるように、鮮度の良い魚のにおいは稀の頭と体をすっきりと覚醒させてくれるだろう。
「う~ん、本当に美味しそうですね」
ミント味のタブレットのようなきつい清涼感ではなく、日本酒のように透き通った色の中に感じられる瑞々しいにおい、そこから感じられる味。手で持ってまじまじと見れば、光をきらきらと反射する青い背中と銀に輝く腹は視覚でも楽しませてくれて……。
「貝さん?」
「あ、いえ。私、この大きさの魚まだ釣ったことなくて。いないのかと思ってました」
「――ああ」
いけないいけない、手に持って嗅いだならと想像してしまった。いくら青年と向き合うのが本当は面倒臭いからって、今はそういう時ではないだろう。
「撒き餌をしたのが良かったみたいです。においに釣られて集まってきたんですよ。イワシが近くを泳いでいてくれて助かりました」
「……ああなるほど、撒き餌、においですか」
においに、釣られて……。
「魚はにおいに敏感ですからね。カタクチイワシなんか、プラスチックのにおいを美味しそうだと感じるみたいで。好んで口に入れてしまうらしいです。知ってました?」
「へえ……!」
稀は驚いて、環境汚染が色々な形で悪影響を及ぼしているんですね、定型文を吐きながら困り顔で彼の話に頷いた。早くも不機嫌そうにする本心をまあまあと表面の自分でなだめすかしながら、声色が辛辣にならないように注意する。
魚がにおいに敏感なのは知っているが。いや、カタクチイワシがプラスチック好きとは知らなかったが。
とにかく、魚はにおいに釣られるだとか食べ物じゃないプラスチックを好む魚がいるだとか、そういう話を彼から聞きたくはない。タイミングが悪過ぎた。




