神島ホテル
別れ道も特になく、バスは山道をぐんぐんと進んでいく。島に着いた時に向こうに見えていたホテルは、木々が視界を遮っているのですっかり車窓から姿を消していた。海もなかなか拝めないが、その分ホテルは良い立地に建っているのだろう。稀はひっそりと心を躍らせた。
「お疲れ様でした」
十五分は走っただろうか、外壁を白で塗装された、この島では一番大きな建物だろうホテルが姿を現した。どの部屋からも海を眺められるように横に細長く、本館と別館で分かれている。部屋数は本館と別館合わせてで四十五。窓が規則正しく並んでいて特段目を引くような外見ではないが、別館は年季の入った赤茶色の屋根が時の流れを感じさせた。小奇麗過ぎても親しみを感じられないので、調べた通りの外見に目元が緩む。
キャスター付きのトランクをゴロゴロと転がす。季節が変わるのも考慮するとどうしても荷物が多くなってしまったが、邪魔臭いのもホテルにさえ着いてしまえばどうということはない。時刻は午後四時を回ったところ。今日のところは車窓からも見えた砂浜を軽く下見して、夕食までの時間を潰すつもりだった。
ホテルに入れば控えめな玄関に比べて広いロビーが一行を迎えた。清潔な木の香りがするのは観葉植物を置いているだろうか。良い意味で隠し切れない島の、海の匂いもする。
いくつかソファが置いてあるその向こう。大きめの窓ガラスが海の景色を遮ることなく映しこんでいた。手前の木々が海から上がってくる潮風にゆったりと揺れて、建物の中にいても外の空気を感じられるような造りだ。
「では貝様、お部屋にご案内致します」
バスに乗っていた客が次々と従業員に連れられて建物の中に消える。稀もチェックインを済ませると、別館に続く廊下に案内された。
本館に比べて料金が安いのは勿論だが、別館を選んだのは静かだろうと思ってのことだった。贅沢な設備など稀は観光客ではないのだから期待しないし、別館からでも海が一望できるらしいからこれ以上望むものなんてないだろう。
船に揺られてお疲れでしょう、ゆっくりして下さい、稀はそれを笑顔で適当に受け流しながら後を付いていく。
エレベーターの前まで来ると、男性は稀の方を振り返った。そうして顔を見れば稀より歳下に思える。
「あの、予定では一か月は滞在されるんですよね?」
「――はい。そのつもりです」
「観光ですか? ……僕が言うのもなんですがこの島、神社くらいしかないですよ。料理は美味しいですけどね」
「ははっ」
何というか、出会ったばかりだが彼らしいと思える言葉だった。稀が長期滞在することはもう決まっている事なのに、彼もそれは把握しているというのに――。
率直に口に出してしまうところが彼の性格を表しているように思えた。二十四の稀が言うことではないかもしれないが、まだまだ若い、裏表のない純粋な人間といった印象を受けた。
ホテル指定の青のラインが入った、比較的ラフなポロシャツはすっかり彼の体に馴染んでいる。控えめに日に焼けた肌と合わさって、少なくとも彼がこの夏の間ホテルで働いていたことを物語っていた。少し伸びたのだろう髪をワックスで軽く整えて、彼の言うように神社くらいしかないこの島でおしゃれには気を使っているようだ。
「せっかくなので神社にも行ってみるつもりですが、観光をしに来たわけじゃないです。一応、仕事のうちかな」
「――仕事、ですか」
「はい、そうです」
不思議そうな顔をしながらエレベーターに乗り込む彼に、少し可笑しくなって笑いそうになる。だが、これ以上の詮索は面倒臭いだけなのでさっさと話題を変えることにした。
「ここ、お風呂からの眺めがいいらしいですね」
「あ、はい。海が一望できるので皆さん喜ばれますよ。夕日が拝めるので、夕食の前に入ってみて下さい」
「いいですね、楽しみです。何時まで入れますか?」
「十一時までなら入浴できます」
二人を乗せたエレベーターは二階で止まった。出てみれば左に二部屋、右に五部屋ある。左の廊下を進んで行って一番端っこ、どうやらここが稀の部屋らしい。
「308号室ですね。……洗濯物は一階にコインランドリーがありますので、そちらをご利用下さい。夕食は六時から八時の間でお願いします」
「分かりました。どうもありがとう」
男性が出ていくのを見届けてからざっと部屋を物色する。
十畳ほどの広さだろうか。服を掛けるラック、ポットなどアメニティを置いてある台、冷蔵庫、テレビ、整えられたツインベッドがひとつ。窓際にはミニテーブルと椅子。その後ろに広がる海は稀が独り占めしているだけあって、ロビーとはまた違って見える。
手前には洗面所とトイレはあるが、風呂はない。別館は一部を除いて設置されていないのだ。必然的に別館に泊まる客のほとんどが大浴場を利用することになるが、それがこのホテルの売りでもあるのだから部屋にバスタブがないのも頷ける。
うん、特に文句はない。快適に過ごせそう。お茶でも飲んで一服してから、日が暮れないうちに海まで行ってみるか。
ここには稀を知る人間は一人もいない。稀は海を眺めながら凝った肩と背を解すように伸びをした。




