少年と稀のそれから
警察の申し出を断ることもできず、少年による自殺、と言えば大袈裟に聞こえるが、それを止めた人物が誰なのか隠すことは許されず結局は世間の知ることとなった。おまけに市長からも感謝状を贈られたのだから面倒この上ない。吸血鬼の話をまた書かなければならなくなったし、そもそもあれは少年の為ではなく自分の為に取った行動であり稀は感謝される立場にはいないのだ。挙句の果てには稀の独断で少年に嘘まで吐かせている。
それが稀の気が乗らない最大の理由であった。
稀の善意からくる行動は少年を説得しナイフを捨てさせたことではなく、嘘を吐かせたことなのだ。だから仮に礼を言われるなら警察や市長といった社会からではなく、少年個人から言われた方が稀にとってはまだ自然である。
母と父を一人の人間として認め決着をつけるのか、自分の中で友人をどこに位置付けるのか。
その考え方はあくまでも稀のものでしかない。他人が読み誤って一歩でも道を踏み外してしまえば、家族を諦めろと言っているようにも聞こえてしまう危ういものだ。果たして少年は稀の言ったことをおかしな方向に捻じ曲げたりせず、暴走せずにいられるか。
自分で考えるというすべは伝えたつもりだが、大変なの作業なのは間違いない。
友人は家族にはなり得ないのだ。少年が家族というものを知っていれば尚更。
肝心なところを隠したまま稀が伝えた無責任ともいえる助言など、感謝されるに値しない。
***
ドドドド、と鼓膜を襲うエンジン音に慣れた頃、大きな汽笛を鳴らし稀の乗る船はゆっくりと離岸を始めた。それを座席の窓から確認してほっと息をつく。
社会の中で生活するのは稀の希望するところではあったが、それは同時に精神が擦り減る自傷行為でもあり白を黒、黒を白と言い続ければ人はその矛盾に耐え切れなくなってしまう。
そうなると必要になってくるのは誰にも邪魔されない一人の時間である。誰からも否定されることのない稀だけの意見、先の小説を書いている時のような自由な思考空間。それが保障されて初めて一人の時間と言えるわけで、雑音があっては稀の心は休まらず、それは長い付き合いである友人の優花でさえ例外ではなかった。
稀は執筆場所を島に移すことで、社会と物理的な距離を取りそれを叶えようとしているのだ。稀が滞在する予定の島にはそれが揃っていた。生活に最低限必要なホテルと、稀の思考を邪魔しない自然に囲まれた静かな空気。
船はどんどん陸地を離れていき、稀が肩の力を抜いて海を眺めている間にあっという間に目的の島に着いた。時計を見れば四十分は揺られていたようだ。
観光地だから乗客はそれなりにいるが、海水浴目的の客がいる夏はもっと多いのだろうと思う。夏から秋に差し掛かるこの時期は稀にとって好都合というわけだ。人でごった返すということもないし、ホテル代もぐんと下がる。
それなりの規模のホテルが建っているのにはその観光名所、縁結びの神様が祀ってある神社があるからだが、調べてみればそれは山の天辺に建っているようで歩いて一時間ほど掛かるらしい。執筆作業の間に気分転換もかねて参拝しに行ってもいいだろうと思っている。最低でも一か月は滞在する予定なのだから。
釣り道具も持参しているが、こちらは気分転換の為ではない。吸血鬼の物語をもう一度書くには必要な作業に思えたから持ってきた。海水浴目的の客はもうほとんどいなっているはずだ。釣りの最中に稀ひとりが変な行動を取っていたところで、静かな海でなら周りを気にする必要もないだろう。執筆場所に島を選んだのはそういう理由も含まれていた。
知り合いがいないから良い人間を演じる必要もない。だから島にいる間は本当の稀でいられる。
本来の、昔の自分がどんな性格だったかなんて覚えていないが、その性格のまま周りに馴染めなかったということは欠点が多かったのだろうと思う。それを取り戻してみるのもいいだろう。稀はこの島で気持ちの赴くまま行動しようと思っていた。
きっとそれが吸血鬼の物語を書くにあたって稀にヒントを与えてくれる気がするのだ。ここで思う存分発散して、帰る時には欠点だらけだろう自分を島に捨てていく。思い出として昇華してしまえばまた日常に戻っていけるはずだから。
「ようこそ、いらっしゃいました」
船から降りるとすぐそこにマイクロバスが停まっていた。バスの前で女性の従業員が案内をしている。どうやらホテルまで送迎してくれるらしいが、確かに地図を見たところそれなりの距離があるようだった。
「神島ホテルにご宿泊の方はこちらにご乗車下さい」
小さな港には店らしい建物も見当たらず、向こうに見えているホテルまでは木がわさわさと生えている。ここからでは島の全貌は分からないが、思っていたより小さな島ではないようだった。
知り合いのいないこの島に、これから一か月間滞在するのか……。アイデアが浮かんでくることを願うしかないな。
一度深呼吸をしてから、稀も他の客と同じようにバスに乗り込んだ。




