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 子どもの頃の稀は、山の斜面にある、住人しか登ってこない閑静な住宅地に住んでいた。そこでは子どもに人気のカブトムシはなかなか見つけられなかったが、探せばクワガタは簡単に見つけられるような、それなりの自然が残っていた。


 あれは小学生の夏休みだった。蝉がわんわんと鳴いているなか、近所の子ども達が男も女も年齢も関係なく自然と集まり、いつものように虫取りに夢中になっていた時だ。






 うえぇ、ひっく……ううぅ~!

 泣くなって。ほら、集会所のおじちゃんのところに行こうぜ。バンドエイドくれるから。

 うぅ……


 二つくらい年上の、なんとなくの流れで集団を纏めている男の子が、転んで膝から血を流している稀を立ち上がらせた。膝に付いた砂をぱっぱっと払い、稀の背中を押す。幸い集会所はすぐ近くにあった。


 あ、いたいた。おじちゃん!

 ……んん~? お! 良助りょうすけくんじゃないか。


 ちょっとくたびれた帽子と作業着に身を包んだ初老の男性が、暑い日差しを避けるようにひさしの下で休憩していた。傍らには扇風機まである。

 良助を見ると、歓迎するように立ち上がった。


 あの、バンドエイド欲しいんだけど。

 ――ああ、そっちの娘、転んじゃったか。ちょっと待ってな、取りあえずそこの水道で傷口を洗ってなさい。


 おじちゃんはそう言って、建物の中に入っていった。良助は手慣れた様子で稀を水道の前に連れて行く。


 サンダル脱いで、足出して。


 稀は片手で蛇口に掴まって、傷口を水に晒した。ぱしゃぱしゃ、蛇口をひねって出てきた水は夏らしくぬるくて、塩素を含んだ水の匂いが辺りに漂う。べたべたと張り付いていた汗と払い切れていなかった砂が、水流には逆らえずあっという間に足の先から地面へと流れていった。

 それを見ていると不思議と涙が引っ込んで落ち着きを取り戻すのだから面白い。


 はい、終わり。

 うん……。


 洗い終わっても傷口はまだ血をじわりと滲ませていたが、治療の第一段階を終えて稀は息をついた。


 ほら、こっち来て座んな。


 おじちゃんは端に置いてあった木の丸椅子を持ってきて、稀に座るよう促した。

 サンダルに足を引っ掛けながら、ひさしの下にのろのろと向かう。


 ありゃ、派手に転んだな。……でもこれくらい大丈夫だ、すぐ治るよ。


 持ってきた消毒液を傷口にびゅっと惜しみなくかけて、傷口の周りに垂れた余分な液をティッシュでちょっと乱暴に拭う。子どもの稀は黙ってその動きを見ていた。


 そういえば、まだ幼稚園児だった時に先生から絆創膏を貼ってもらったことがあったっけ……。

 まだまだ幼い小学生の自分を見下ろしながら、稀はぼんやりと思い至った。今でもはっきりと思い出せる。あれは指を雑草で、包丁葉っぱで切ってしまった時だ。

 泣くほどのことではなかったが包丁葉っぱの切れ味はなかなかのもので、血がぷつぷつと出てくるからそのまま遊ぶわけにもいかなくなったのだ。だから、少し離れたところに立っている担任の先生に言いに行った。そうすれば先生はウエストポーチから取り出した消毒液で傷口をさっと洗い、手早く絆創膏を貼ってくれた。


 はい、もういいよ。遊んでおいで。

 …………。


 どうしてか、その絆創膏が嬉しくて稀はその日一日、剥がれ落ちるまで絆創膏が巻かれた指を何度も何度も事あるごとに眺めて過ごした。


 はい、終わり。


 そうやって稀が思考を飛ばしている間に、こちらの治療も終わったようだ。未だに気分は浮上していないらしいが、この後におじちゃんから貰った物で怪我をしたことなんかどうでもよくなったのを覚えている。


 おじちゃん、ありがとう。

 どういたしまして。そうそう、飴ちゃんあげるよ。


 さっき建物に引っ込んだ時に一緒に持ってきていたのであろう。おじちゃんは怪我をした稀にだけ、黒い包み紙が特徴的な飴を一粒手渡した。


 ありがとう。

 もう大丈夫だな、行こう。

 うん。


 男の子に促されるまま、稀は近くで虫取りをしている仲間のところに向かう。歩きながら貰った飴をさっさと食べてしまおうと包み紙を開くと、大粒の飴が包み紙の中で鎮座していた。黒くて、ぐるぐると渦巻き模様が彫ってある、見たことのない飴だった。飴といったらもっと明るい色で、幼い稀はイチゴ味やブドウ味といったものしか知らなかったのだ。


 これどんな味なんだろ?


 ぽいっと口の中に放り込む。最初は粒の大きさに飲み込んでしまわないかと驚いたが、稀は味わったことのないそれに軽く衝撃を受けた。


 おいしい……!


 嫌味のない丁度いい甘さ、イチゴやブドウでは感じられなかった深みのある味わい。こんなにおいしい飴があるなんて知らなかった。稀は一瞬でその飴に心を奪われた。怪我をしたことなんて取るに足らないほどの。

 そうしてただ純粋に感動している時だった。



「自分が優しい人間だと思っているのか」


 ――――え?


 どきりとして声のした方を向くと、幼かった頃の優花がこちらを無表情で見つめていた。


「お前は優しくない。お前のそれは優しさとは程遠いものだ」


 口を動かして喋っているのは優花であるはずなのに、その声は大人の男性のものだった。怒っているようにも聞こえるし、そもそもそういう話し方しかできないようにも感じられる。

 全身に緊張が走って、逃げ出したくなったが足が動かない。気付けば幼い稀も付き添ってくれていた男の子も何もかもが消えて、大人の自分と優花が対峙している。


 こわい、聞きたくない。こいつは何を言っているのか。こんなこと、優花が言うわけが――!


「お前のそれは全部、自分の――――」


 視界が黒く塗りつぶされていく。平衡感覚がなくなっていく。そうして理解した。

 ああ、これは夢か、よかった。優花がこんなこと言うはずがない。それに声は優花のものじゃなかった。声の主には思い当たる節がなかったが、夢だから何でもありということだろう。兎にも角にも嫌な夢だった。





「はあー……さいあく」


 両手で顔を覆って深い呼吸を繰り返す。そうして昨日のことを思い出し、やはり疲れているのだろうという結論に至った。

 目が覚めて暫くの間、稀はベッドから抜け出すことができなかった。

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